第5話 それはひみつ♡
視界の端に青色のブラジャーが映る。
シンは目を大きく見開き、練習着の下に隠れたブラジャーの残像が頭にこびり付く。
授業もない休日の早朝。
骨折も完治し、早めに身体を動かそうとグラウンドにやってきたシンが瞳に捉えたのは、そんな刺激的な印象を植え付ける映像だった。
太く、背の高い木々に隠れて、リネアがいることに気がつかなかったのだ。
シンは咄嗟に視線を逸らそうとして、より強烈な光景を双眸に捉えてしまう。
「……泣いてる?」
リネアは服を下まで下ろして、スパイクを指差した。
「スパイクで小指踏んじゃっただけだよ。それより……ごめんなさい。いつも誰も来ないから油断しちゃった」
指先で涙を拭ったリネアは蠱惑的な笑みを浮かべて謝ってくる。
大人な対応だった。羞恥心よりも相手の気持ちをカバーする優しい言葉。
けれど、リネア自身の気持ちは絶対に言わないと。話題を逸らす為に、あえてそこに触れたような、そんな言葉だった。
シンは流石にスパイクが涙の理由ではないことを悟って、少し考えてから問い掛ける。
「泣くのは、格好悪いんじゃなかった?」
「――違うよ」
間を置くことなく、力強くリネアは返答してきて、シンは「え?」と反射的に声を漏らしてしまう。
リネアはラグビーボールを足で軽く蹴り上げ、キャッチしてから横目でシンを一瞥した。
ただ、当たり前だと言わんばかりに。
「格好悪くないよ。私は、何からも逃げてないから」
リネアは堂々と断言する。
まるで、「あなたとは違う」と言いたいように。シンにとって、残酷な一言を口にする。
――そうか……僕は。
どうして、また朝早く起きて練習をしようと自分は思ったのか。
どうして、授業を真面目に聞こうと思ったのか。
どうして、練習後にトレーニングをして、夜も身体のストレッチをしていたのか。
なんとなく、シンは理解出来てしまった。
だからこそ、疑問にも思ってしまう。それは留学して、この学校に入った時に自分が持っていたもので、途中で無くなってしまったものだったから。
辛いことだってあるはずなのだ。
だから、自分は無意味な毎日を過ごすようになったのだから。
だからこそ、シンは聞きたいと思った。どうして、そんな風に思えたのか。シンには思えなかった、気持ちのあり方に、どうやって辿り着いたのか。興味が沸いたのだ。
シンはリネアに向かってハンズアップ――両手をラグビーボールが欲しい場所に構える。
「どうして、ラグビーなんだ?」
「……いきなり何?」
リネアはジト目で睨みながらも、ハンズアップされた場所に正確にボールを放ってくる。
ロングスパッツを履いているせいで分からないけれど、スパイクに踏まれたり、芝生に擦れたりしてリネアは傷だらけだ。現に腕は痣だらけで、擦り傷が見受けられるのだから。
「他にもスポーツはあるのに……女子で、どうしてラグビーなんだ?」
女の子が、大切で綺麗な肌を傷だらけにしてまで、スポーツをする意味はあるのか。
シンにとって、女の子がラグビーをする事が疑問でしかなかったのだ。
「日本では女子ラグビーの認知度は低いのかもしれないけど、そんなの関係ないよ」
「そんなに傷だらけで?」
シンは左手の感覚を確かめるようにリネアに向かってラグビーボールを出す。
骨折は完治して指先の動きも、ボールを出す感覚も悪くはなかった。
「スポーツは男性優位だって考える人はきっと多い。現にラグビーも男子リーグの方が、男子のプロの方が、人気もあって給料も良い」
リネアはグラウンドへと歩き出し、シンも一定の距離を取って横に並ぶ。
サイドラインに並行に歩き、リネアがラグビーボールを放ってくる。
「ラグビーワールドカップ2019の開催地はどこか分かる?」
「日本」
「じゃあ、ラグビーワールドカップ2021の開催地は?」
ラグビーボールを受け取り、リネアより前に進んで、シンはラグビーボールを送球した。
「2021?」
「この大会から性平等の観点を考慮して女子ラグビーワールドカップは大会名から女子を削除したんだ、――よ! っと」
リネアはボールをキャッチして、スクリューパスではなく、回転を一切加えないストレートパスを放つ。ロングパスには不向きなストレートパスで、十メートルも離れたシンの場所まで投げてきた。
「……知らない」
「ニュージランドだよ。あなたが知らなかったように、今のラグビー業界は男性の方が人気があって、世間からの認知度も高い。だから、あなたの考えも理解はできるよ」
シンはリネアの送球に応えるようにストレートパスでラグビーボールを返す。
リネアは微笑を浮かべて「でも」と言って、ラグビーボールを両手に収める。
スっと両手からラグビーボールを落として、
「女の子なのに、とかで、――――私がやりたいことを否定なんてさせない」
シンの前方に向かって、グラバーキックをした。
グラウンドを不規則に転がるラグビーボールをシンは加速して確保し、キックで返す。
ラグビーボールは無事確保したが、不機嫌な様子のリネアを見て、困惑してしまう。
一先ず、リネアの強い拒絶を含んだ言葉に、シンは弁明する。
「いや、そこまでは……」
「そう? なら聞き方が悪いよ。女子で、とか言わない方がいいよ。その言葉遣いで人は傷ついてしまうこともあるんだから」
サイドラインまで進んだリネアは折り返して、シンもラインを踏んで折り返した。すると、リネアはシンに向かって低弾道のスクリューキックを放ってくる。
スクリューキックは自然と上へと向かって飛ぶキックなのに。これほど低弾道で、尚且つ距離も出るキックテクニックにシンは目を見張ってしまう。
「マイノリティーの意見も理解できないとノブリス・オブリージュは身に付かないよ」
そう言って、笑顔を浮かべてくるリネアにシンは背筋が凍てついた。
口調も柔らかく、刺々しさを感じなかったのに。顔も笑顔なのに。
リネアが非常に不機嫌な気がしてならない。本音を見せないので、シンの解釈も正しいかどうかは分からないけれど。
シンは自然と口から「流石」と言葉が零れ落ちた。「っえ? 流石って何?」と聞き返してくるリネアと更に距離を広げて、スクリューパスを放る。
道徳観やマナーを重要視しているイリー校。しかし、マナーは日本語のマナーとは少し意味合いが違う気がする。ハッキリと言葉にでき、人の言葉を聞くことで出来る素直さと礼儀正しさ、必要とされる時に自らが動ける力。そんなイメージだろうか。
大学の準備でも、仕事の準備でもない。
人生の準備を行う教育といった感じがするのだ。
日本の教育にも良い点はあるけれど、明らかに違う価値観なのは間違いないだろう。
シンは手に負える相手ではないと感じて、素直に今の思いを言葉にした。
「ごめん。心では少しそう思ってた」
シンからのパスを受け取ったリネアは目をパチクリとさせて、立ち止まる。
まるで想定外といった感じの表情で、けれど直ぐに満面の笑みで笑いかけてきた。
「ふふ。あなたは嘘が下手だね。だから、核心をついてあげたんだよ」
凄く楽しそうに笑って、シンにもっと奥に行くようにジェスチャーしてくる。
やっぱりリネアは頭がいいのだろう。何かを考えながら言葉を口にしている。整った笑顔も計算から生まれているのだとしたら……シンは鳥肌が立ってしまった。
シンはゆっくりと下がりながら、リネアに振り返る。
「なら、本当に聞きたいことも分かる?」
「えー聞こえないよ〜」
「……聞こえてるじゃんか」
リネアが子供のように笑うのを見て、シンは勘違いしていたのかもしれないと思う。
彼女は優等生で完璧な少女だと思っていたけれど、もしかしたら、他人の評価であって彼女自身の性格などは表していないのかもしれない。
勘違いしていると思ったからこそ、シンは気を取り直して、リネアを真っ直ぐ見て。
疑問に思った事を聞いてみることにした。
「まだラグビー歴一年だっけ?」
「うん? そうだよ」
「去年までラグビーをしてなかった君が、どうしてラグビーを始めて、」
けれど、シンは言葉を途切れさせて視線を俯かせてしまう。
それ以上は聞く事ができなかった。「――そんなに努力できるのか?」と、そんなこと、どうしてもシンは自分の口からリネアに聞く事ができなかったのだ。
シンが立ち止まっているのを見て、リネアはラグビーボールを構える。
身体をバネのように使って、ボールを空高く蹴り上げた。ハイパントで太陽と被るように空へと蹴り上げられたラグビーボールはゆっくりと落下してくる。
「……簡単だよ」
リネアがそんな事言うから、シンは危うくラグビーボールを落としかけてしまう。どうにかキャッチして、リネアの方に視線を送った。
すると、リネアの方からシンに近付いてきて、エメラルドグリーンの美しい双眸と黒色の双眸が交差する。
ゆっくりと息を吸い込んで、
「憧れたの。一際小さな身体で大きな人たちと渡り合う。そんな姿に」
意を決したようにリネアが言葉を紡いだ。
確かにラグビーはポジションごとに全然体型は違う。特に、ハーフは小さくなる傾向が強い。シンも自分より一回りも大きいプレイヤーの突進をタックルしたからこそ分かる。
恐怖心に支配されたら、怪我なんかではすまない。年齢が上がることに。確実に。
それでも、怖いと思わないわけではない。
大きいは強い武器だ。その武器をシンは持ち合わせていない。
ただ、それだけのこと。
だからこそ、リネアのいう人物がどんな人なのか、シンは興味を持った。
どこのプロリーグだろうか。どこの代表選手だろうか。
「どこのプロ選手?」
シンは近寄ってボールをポップさせ、リネアに渡して尋ねる。
すると、リネアの表情がみるみる変化していき、半目になって。ギロリと睨んでくる。
何か気に触ることでもしただろうか、とシンは思い、狼狽していると。呆れるような溜息の音が聞こえて、リネアは苦笑を浮かべた。
「ふーん。気になる?」
「まぁ」
「そう。でも、」
そっと、爪先立ちで顔をシンの耳に寄せて、
「――秘密。あなたが格好良くなったら、教えてあげる」
リネアはそう囁いた。
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