第3話 きっとそれは嘘
はーと息を吐けば、白くなって空気に溶ける。朝日の暖かさで窓ガラスや葉に出来た結露を見ながら、清々しいほど気持ちいい朝の空気を感じていた。
久々の感覚だ。
毎朝走っていたのが去年の十月くらいなので約一年ぶりになるだろうか。
シンは大きく伸びをし、軽く準備運動をして寮から走り出した。
冷たい空気が肺を満たす。
この国に来てから何度、夏の存在を疑ったことか。
朝霧が出て、立派な教会や日本では見られない建物が立ち並ぶせいか、日本人の価値観からしたら現実離れした世界が、視界に映っては後方に流れていく。
懐かしい感覚が徐々に身体から消えて、頭が走ることだけに集中していく。
自分の息遣いが聞こえる。
石の地面を蹴る音が聞こえる。
鳥の囀る音が聞こえる。
そして、
「早いね、またランニングする気になったの?」
別の息遣いが聞こえた。
シンは隣に並んだリネアに目を見張る。リネアは笑顔で「おはよう」と言ってきた。
ロングスパッツを履いて、薄い長袖を着たリネア。ある程度の防寒はしていても、シンよりも断然薄着な彼女を見て、二週間前のバスでの出来事は、自分を気遣っての言葉だったのだと悟る。
リネアが何を考えているのか、その笑顔からは想像もできなくて。
シンはとりあえず小声で「おはよう」と返した。
「最近はこの時間帯に走ってるの?」
「いや、今日から始めようかと」
「……ふーん。やっぱり、あの時の言葉が心に刺さった?」
何を言おうとしているのかシンは気が付いて、考え込んでしまう。
本当になんとなくな気がする自分もいれば、リネアの言葉がきっかけだったと思う自分もいて。正直、明確に「これだ」と言えるようなきっかけがないように感じたのだ。
指も違和感なく動かせるようになり、運動してもいいと医者に言われたからな気もする。
グラウンドが別でもトレーニングルームで、リネアが懸命に足以外のトレーニングをしていたのを間近で見たからかもしれない。
リハビリもして、汗を大量に流しながら、黙々とトレーニングするリネアの姿に触発されたのかもしれない。
午前までの授業後、トレーニングして、週三回ある夕方の授業もしっかりと受け、夜は勉強と身体のメンテナンスをするリネアの姿を見たからかもしれない。
理由なんて本当に分からない。
ただ、間近で努力している人を見て。
シンは遣る瀬無い気持ちになったことだけは、確かなことだった。
それからは示し合わせることもなく、無言で朝の学校内を走る。
四つの寮を迂回して、グラウンドの外周を走り、トレーニング施設の側を駆け抜ける。
広大な敷地を黙々と、砂利の地面を蹴る音が二つ鳴るだけ。
けれど、以前のような気まずさはなかった。
少しだけ会話する機会が増えただけなのに。先月までは接点すらなかったのに。
ただの知り合いではなくなりつつあったのだ。
ピーターハウスまで戻ってきた二人は、特に会話を交わすことなく、寮へと入る。女子の部屋がある方へと歩き出そうとしていたリネアは、「またね」とシンに声を掛けた。
「なぁ」
「うん? なに?」
「毎日、走ってるのか? いつから……」
「時間に余裕がある時はね」
そう言って笑顔で手を振った後、シャワールームへと向かうリネアを見て、シンは思う。
きっと嘘だと。
彼女はきっと……毎日走っているのだと。
シンはそう思わずにはいられなかった。
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