第2話 そういう顔もできるんだね

 青色のバスが大きく揺れながらケンブリッジ市内を進んでいく。

 ケンブリッジ大学のキングス・カレッジが窓外に見え、ケム川でパンディングしている人や夏空の下、ピクニックをしている人たちが視界に映る。

 イリー校まで、まだ数十分はある。

 そんな中で、離れた場所に座ったリネアから声を掛けられた。


「怪我の具合はどうだったの?」

「左手中指、薬指の骨折。全治三週間。君は?」

「ただの骨折。全治三週間だから一緒かな。良かったね、お互いに大きな怪我じゃなくて」


 六月の試験を乗り越えて、今は七月末に差し掛かっている。

 年度が切り替わる前、つまりは八月末にAチームとBチームの試合がある。その結果次第でスタメンになれるかどうか決まる重要な試合だ。それは女子も変わらない。

 求められるのはシンプルだ。チームにどのように、どれだけ貢献するか、それだけだ。

 当たる強さでも、身長の高さでも、運動量でも、パスの巧さ、キックの精度でも。

 なんでもいい。自分の持っている力がチームに貢献できることを証明できれば。

 そう考えると、スタメンを目指すのであれば、厳しい状況に置かれたことになる。

 お互いにそれを分かっているからなのか、決してそこに触れることはなかった。

 通路を挟んだ反対側から窓の外を眺めるリネアを一瞥して、シンは再び外に視線を戻す。

 マーケットスクエアの美味しそうな匂いが窓の隙間から漂い、奇妙な虫が上に載るコーパス・クロックとフィッツウィリアム・ミュージアムを過ぎて、住宅街の方へ。


「窓閉める?」

「どっちでもいいよ」

「じゃあ、閉めちゃうね。そっちも閉められる?」


 リネアは「肌寒い」と思ったのだろうか。シンは届く限りの窓を閉めた。

 ケンブリッジ周辺の現在の気温は、夏場なのに十五度。例年よりも寒いせいか、朝方は白い息が出るほど冷え込む。カーディガンを着ていても足りないくらいだ。

 カバンからブレザーを出して「いるか?」とシンは聞く。リネアが「いいの?」と聞くものだから、シンはそのままブレザーを投げて渡した。


「……ありがとう」


 大したことでもないのに、いつもとは違う笑顔を浮かべてリネアがお礼を言ってくる。作り込まれた、怖いほど精緻な笑顔ではなく、自然で柔和な笑みを。

 イギリス人なら、このくらいの気温で寒いとは言わないだろうし、現に彼女はそこまで寒そうではない。ただ、冷たい風が当たるのが嫌だった。そんな感じだ。


――そもそも……イギリス人?


 そんな疑問を浮かべながらシンは頬杖をつく。

 利用者も市街地から離れるごとに、イリー校の制服を着たシンとリネアだけになって。

 教会の十八時を知らせる鐘の音を聞きながら、住宅街を抜けていく。

 誰もいなくなった車内で、リネアはシンに顔を向けて話し掛けてくる。


「シンは、パートナーいたことあるの?」

「パートナーって、彼女って意味?」

「まぁ、ガールフレンドもそうだけどボーイフレンドかもしれないから、それは私には分からないけど」

「いない、かな」


 シンがそう答えると「なんで、かなメイビー?」と言いつつ、リネアは苦笑した。

 周囲が麦畑へと変わって、黄金色の地面が夕焼けで茜色に輝く。

 リネアの白皙の頰が、夕陽に照らされて茜色に染まったような気がした。


「へぇーそうなんだ。……ふーん」


 何か含みのある言い方にシンは怪訝に思って見詰めるも、リネアはいつもの完璧な笑顔を浮かべて、ニコッと微笑み返してくるだけだった。

 女の子は分からない。何を考えているのやら。それは日本も海外も変わらないようだ。

 いや、女の子というより、リネアが、かもしれないけれど。

 まだ、リネアとまともに話したことがないからだと。できれば、そう思いたい。


「君はどこ出身?」

「私? スウェーデンのエステルスンドだよ」

「……えすてるすんど?」

「イェムトランド県の中核都市でストゥール湖の南西にある街だよ」


 都市の詳細を説明されても、さっぱり分からないのだが。


「あなたは日本だよね」

「日本の金沢」

「カナザワ?」

「そう」

「ふーん。……分からないや」

「だろうね」


 松葉杖を抱え、興味なさげに首を左右に振ったリネアを見て、シンは口元を綻ばせる。

 笑顔だけでなく、表情豊かなリネアを見て、人々から好かれる理由が分かった気がした。

 シンが微笑を浮かべているとリネアが首を傾げて、シンをジーと注視してくる。


「へぇーそんな顔もできるんだね」


 青天の霹靂だと言わんばかりのリネアの表情に、シンは呆れてしまう。

 シンはリネアに「君も」と言い返す。それにリネアが咄嗟に反応できずに「っえ?」と言い、疑問符を頭に浮かべた。


「そういう顔も、できるんだね」


 シンが率直な意見としてそう言うと、リネアは、


「……優しいね、君は」


 表情を隠すように、スマホに視線を落とした。

 どういう意味なのか聞こうとするも、リネアはヘッドホンを着けてしまう。まるで、そうすることでシンが話し掛けてこないことを知っているかのように。

 シンはしばし逡巡して、結局、話し掛けずに視線を窓外へと送った。

 リネアはそんなシンを横目で一瞥してからプイっと外方を向く。

 それ以降、バスに乗っている間、リネアはシンに振り返ることはなかった。

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