第1話 君の表情を見て
ケンブリッジの郊外に小さな病院がある。
病院とは到底思えない草木が生茂る建物は、知らない人からすれば魔女の隠れ家のような不気味な病院だった。しかし、スポーツにおいては有名な病院らしい。
シンは、トレーナーに固定してもらった左手の中指と人差し指に触れて溜息をつく。
こんな辺鄙な場所にいるとは思っていなかったリネアに視線を向けて、
「何見てるの?」
シンは煩くない程度の声で尋ねた。あまりに沈黙が長くて、耐えきれなかったのだ。
リネアは昨日とは違い、左足に包帯が巻かれ、松葉杖を持っていた。
「気になるの?」
リネアが目をパチクリさせて訪ねてきて、シンは頷く。すると、スマホの画面を見せてくれた。横画面にして流れていた映像は、どこかのラグビーの試合のようだ。
「どこの試合?」
「一昨日戦ったザ・ナインの一角、ラグビー校との試合」
よくよく見れば、イリー校のスタンドオフはリネアが務めていた。
パブリックスクールの九つの名門校、通称、ザ・ナインはラグビーも盛んに行われている。最強ではないにしても、十分強く、強敵だ。
それは男子ラグビーでも、女子ラグビーでも変わらない。
そんなチーム相手にリネアは傲慢なプレイを展開する。スタンドオフはハーフと並ぶ司令塔のポジション。そんな彼女は仲間を支えるといったプレイスタイルでは決してなかった。自分が仲間も敵すらも巻き込んで自由気ままにラグビーを楽しんでいたのだ。
相手の隙を突くのではなく、相手の隙を作るプレイスタイル。
シンにはない、斬新な発想や突拍子もない動きを見て、シンは意外に思う。
イギリスのパブリックスクールは競争が激しい。
明文化された言葉としての意味はないけれど、身分と境遇、地域特性を排除した『公開された学校』と言う意味合いが強いからこそ、なおそら。
王族や貴族が建てた学校であっても、昔から貧困層を受け入れていたのも開かれた学校ならでは。貴族だからこそできることもある、とここの人たちは言う。
身分差別があっても、パブリックスクールで身に付けてほしいことはただ一つ。
ノブリス・オブリージュ。この学校での意味は謙虚な気持ちを持って、恵まれていない人たちを助ける責任を認識でき、柔軟な思考ができるリーダーシップを持つ人物。
そんな人材の育成のため、自由な校風と実力主義な制度を持つ学校で、リネアは
礼儀正しく愛嬌もある。リーダーシップはもちろん運動神経もいい。加えて成績優秀。
だからこそ、プレイスタイルももっと戦略的だとシンは思っていたのだ。
シンは予想外な動画だったけれど、持ち前の無表情でリネアに気付かれなかった。しかし、そんな気持ちが些細なものになる程、リネアを見て、シンは驚きを隠せないでいた。
良いプレイだった。テンポも良く、キックの使い方も上手い。
シンは、そう思っていたのに。
彼女の顔は、悔しさで染まっていた。
扉の開く音がする。「リネア・ヘンリクソンさん、どうぞ」という看護師の声に反応して、リネアはイヤホンを取り、シンに軽く手を振る。
シンが手を振り返すとリネアは嬉しそうな表情を浮かべて、診察室へと入って行った。
――タイミングが悪かった、かな。
シンにはリネアに聞きたいことがあった。
昨日。どうして「格好悪い」と思ったのか。
どうして、シンの名前を知っていたのか。一年前の
そんなに学校内で有名になってしまったのか。それも不名誉な噂話が聞こえてくるほど。
シンは分からないまま、ブルーツゥースをオンして、イヤホンとスマホを繋げる。
好きな音楽が聞こえてきて、病院の喧騒が遠ざかっていく。
シンは診察の時間まで目を閉じて、静かに待つことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます