【短編】シンとリネアの大きな夢

雪華シオン❄️🌸

プロローグ 格好悪いあなたへ

「……格好悪いね」


 夏の昼過ぎ。グラウンドから寮へと続く道で。その一言は、風が木々を揺らす音に掻き消されそうなほど小さくて。けれど、はっきりと耳に残るほどシンの心を抉る言葉だった。

 イギリスに来て早二年。パブリックスクールであるイリー校に来て一年。

 差別される事は何度かあっても、それは一度だって言われたことのない言葉だった。

 その一言は嫌悪する言葉でも、憐憫な感情を有した言葉でもない。

 ただ自然と溢れた一言。けれど、その何気ない言葉が頭から離れなくて。――ずっと治らない心の傷が、無性に痛んだ。

 シンは心を抉る言葉に驚いて、手に持っていたラグビーボールを落としてしまう。


「ごめんね。驚かせちゃったかな。なんか……泣いてるみたいだったから」


 気候が変わりやすいイギリスの空から、ポタ、ポタと雨が落ちてきた。

 どんよりと薄暗い視界に現れた、ストロベリーブロンドの髪をミディアムヘアにした少女――リネアは、笑顔を浮かべて見詰めてくる。

 凄く整った笑顔なのに、どこか違和感を覚える笑顔を湛えて。

 リネアはシンに向かって一歩、踏み出した。


「ああだ、こうだ考えて、努力なんて報われないと思い込んでる」


 その一歩と同時にリネアはシンの心にも一歩、踏み込んで来る。


「何かに向かって走るより、毎日をなんとなく楽しいことで埋める方が楽だと思ってる」


 心に出来た傷口を、より深く抉る言葉がシンを襲った。

 リネアは同じイリー校の生徒で、シンと同じ寮であるピーターハウスで生活をする仲間でもある。何より、同い年の二学年ともあって、シンも名前は知っていた。

 けれど、会って話したのは一年前の特待生スカラー授与式の時以来。今年、シンは参加していないため、つい最近は見かけることはあっても、話したことはなかったのに。

 シンはもうそういう存在ではない。いや、むしろ無様な人間だと思われているだろう。

 日本の夏では到底あり得ない、ボルドー色のセーターとネイビーブルーのロングスカートといった服装のせいか、日本人であるシンにとっては季節感を感じられない制服。その上から、黒いガウンを来ているのを見て、シンは静かに視線を下へと送った。

 その視線の変化をリネアはきっと気付いていながら、無遠慮にもう一歩踏み込んでくる。


特待生スカラーの証である黒いガウンを貰えなかったことが悔しい」

 シンがさほど反応しなかったのを見て、リネアは優しく笑みを浮かべた。

「でも、どこかで安心してる自分もいる」


 シンの肩が僅かに跳ねる。シンは目を見張り、静かに閉じた。リネアはラグビーボールを回しながら、最後の一歩を踏み出して、シンの間近までやってくる。

 そして、爪先立ちでシンの耳元に顔を寄せて、


「ね、違う?」


 まるで見透かすように言葉を紡いだ。


特待生スカラーは生徒の見本として責任感を持って、それ以外の人たちは劣等感よりも称賛の方が強くて。それが良い競争心を生む」


 雨がシンの頰を流れて、リネアの頰に落ちる。


「だって寮生活で誰もが一つの才能を持っていることを知っていて、お互いに認め合ってるから。だから素直に受け入れられる。それは、日本とは違う文化カルチャーなの?」


 そんな答えを聞いて、シンは表情を歪めた。

 日本でなら生徒会長とかだろうか。そのポジションに着いた人を自分は称賛していただろうか。生徒会長はその責務を自覚して、強い責任感を持っていただろうか。

 いや、どれもなかっただろう。お互いに責任とか称賛とかに興味がなかったのかもしれない。むしろ、先生に媚を売っているという目で見る人もいたかもしれない。

 答えられずにいると、リネアはラグビーボールをシンの手にゆっくりと乗せた。

 リネアが「あなたは……」と声に出して、そのあとの言葉を呑み込む。

 シンの表情を見て、顔が見えないように再び、リネアは耳元で静かに囁く。


「大丈夫だよ。努力が報われないことは……それもそうだと思うから」


 ゆっくりと離れて、ラグビーボールを渡したリネアは踵を返す。


「馬鹿みたいに毎日練習して、Aチームのスタメンに選ばれるのは一握り。先輩後輩関係なく、ラグビーは十五人しかフィールドに立てない」


 雨が次第に強くなり、練習着が水を吸って重くなっていく。

 リネアは雨なんて気にせず、大切なはずの黒いガウンも濡らして、静かに歩いて行く。


「リザーブを合わせても二十三人。四学年、八十人近くの中でそれだけだもん。先輩たちの方が身体は大きくて強いのに、努力よりも生まれつきの体質が顕著に出るのに、」


 リネアは立ち止まって、静かに振り返った。


「――ホント、馬鹿みたいだよね」


 屈託のない、自然な笑みを浮かべて。

 嫌味など微塵も感じさせないリネアを見て、シンは戦慄する。

 けれど、今まで声を出そうとも思っていなかったのに。

 なぜかシンは思いを言葉にしていた。


「努力で…。なんとかなる、かも」


 その言葉を発するのと同時に、心臓が鷲掴みにされたような痛みが襲う。

 心にもないことを呟いた自分が、どうしようもなく、情けなくて。

 リネアはキョトンと小首を傾げて、シンに優しく問いかける。


「ふーん。……ね、努力って何?」


 シンが「え?」と声を漏らして、


「努力した先で、あなたには何が待ってるの?」


 リネアは続けて言葉を発した。

 雨が地面を強く叩く音が響く。

 夏の青空なんて見えない、寮とグラウンドの間で二人は静かに口を閉ざした。

 時間にしたら数秒。けれど、シンにとっては息が苦しくて、目を背けたくなるような数秒が流れる。そんな中で、リネアは気まずい時間が流れたことに苦笑を漏らした。


「少し、意地悪な質問だったかな。ごめんなさい」

「いや、別に、」

「――ただ……なんとなく、言ってあげないと、って思ったから」


 リネアの取り繕う笑顔を見ていられなくて、シンは「そう」と視線を合わせずに答える。

 そんなシンを見て、リネアは身体の向きを寮の方角へと戻した。


「またね、シン」


 雨の中でも眩しい笑顔と静謐さを含んだ銀鈴な声を残して、彼女は寮へと走っていく。

 雨に濡れてか、エメラルドグリーンの瞳が潤んで、キラキラと輝いていた気がした。

 しばらくその場で立ち尽くして、シンは静かに寮へと歩き出す。

 努力を積み重ねても身体の大きさで負けて、唯一認められていた特待生スカラーの座からも落ちて。劣等感を味合わないなんて、――――そんなのは嘘だ。

 周囲がどんな言葉をかけても、何か裏に別の意図があるのではないかと思ってしまう。

 それを受け止めるには、十四歳の少年には荷が重くて。

 努力をする意味を、ラグビーを続ける意味も分からなくなって。

 次第に、ラグビーを嫌だと思う自分がいて。

 そんな時の言葉だ。不気味なほど、心に残る言葉。故に縁起が良いとは思えなくて。

 次の日。悪魔のささやきだったのかと疑いたくなるほどのタイミングで。

 いや、練習に集中していなかったことを神様が罰するかのように。


 シンは怪我をした。

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