パスト
世界が終わるような紅い夕暮れの空を、彼女は今でも覚えている。
彼女にとってその日は、全ての苦悩の始まりだったから。
「どうして、こんな簡単なことができないのよっ!」
問題用紙を握り潰してかんしゃくを起こした母親は、クリカの頭を平手打つ。それは彼女が、椅子から吹っ飛ぶような衝撃だった。
床に倒れて泣きじゃくる彼女が見たのは、無表情で自分を見下ろす冷たい目だった。
そんなのはいつもの事で、クリカは今さら彼女に助けは求めない。
何もせずにじっと耐えれば、母親はそのまま何も言わずに部屋を出て行く。
クリカはその場に膝を抱えてうずくまった。殻に籠って身を守る貝になったみたいで、そうすると落ち着いた。
ベランダにつながる掃き出し窓から見えるのは、紅い空。自分の頭から流れるそれと同じ色の空をじっと見つめて、何も考えないようにする。
美しくも禍々しい紅い空は、とても不吉で胸騒ぎがした。この時以来、彼女は赤が嫌いになった。
父親は帰ってくると、慌てた様子でクリカの部屋にやって来た。たまにしか家に帰らない男の人。クリカにはそんな印象しかない。
父親はクリカの様子を見ると顔面蒼白で、
「大丈夫かい? 頭、痛くないかい? どこか変なところは?」
そんな風に心配して、ウェットティッシュで乾いた顔の血をぬぐってくれた。
「私が戻るまで、この部屋から出てはいけないよ」
そう言い残して、父親は部屋を出ていく。
そこからはいつもの事。一階から父と母の怒鳴り合う声が聞こえてきて、クリカは耳を塞ぐ。
自分が殴られる事よりも、そちらの方がはるかに苦痛だった。けれどそれさえ耐えれば、あとは全て元通り。いつもの生活に戻る。―――はずだった。
その日は少し違った。一階での口論が激しさを増し、母親が家を出た。
恐る恐る一階に降りたクリカは、床に散らばった陶器の破片を片付けている父親に出くわす。母親が皿でも投げたのだろう。
「破片、危ないから来ちゃダメだよ。星来、掃除機をとってきてくれるかな」
優し気に微笑んでそう言う彼の顔には傷があり、かけている眼鏡が歪んでいた。
それからしばらくして、クリカの名前は白金星来から倶利伽羅星来になった。
荷物をまとめて父親と家を出ていくことになり、母親に別れを告げる日が来た。
「お母様、あのね、わたし―――」
別れの日。父が車を回す間、母と二人きりになった。
あれ以降一言も母と話す機会が無かったクリカは、何と言って良いか分からない。そんなクリカに、母は告げた。
「あんたはもう、私の娘じゃないの。母親なんて呼ばないで」
突き放すような言葉がクリカの胸を抉る。
母はしゃがむと、クリカの頭を掴んでその顔を覗き込んだ。
「あんたみたいな失敗作が、私の子供であるはずがない。お前さえいなければ、私の人生は完ぺきだったのに……」
呪いめいた言葉を吐いて、母はクリカを凝視していた。その目には怒りさえない。ただの虚無。クリカを覗くその黒目は、ぽっかりと空いた穴の様だった。人にこんな顔ができるのかと、クリカは心底恐ろしくなる。それは本当に、人が人を呪う目だった。
戻ってきた父親は、娘の異変に気付いて慌てて母から引き剥がした。二人が怒鳴り合う声も、クリカには聞こえない。
彼女が放心状態から戻ったのは、父親の実家に着いた後のことだった。
「星来ちゃん、いらっしゃい。待ってたよ」
優し気な祖父母に出迎えられて、クリカは見知らぬ家の敷地へと入る。
不安で、傍らに立つ父親の姿を見上げた。
「どうしたんだい?」
父親は優しい顔で、クリカに笑いかける。
その優しさがなんだか嘘に思えて、クリカは恐ろしくなった。
小学四年生のクリカには、両親の離婚の事は十分に理解できる。恐らくその原因が、自分にある事も。
湧き上がって来た感情が、涙に姿を変えてあふれ出す。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい!」
クリカは知っていた。両親は仲が良かった。仲睦まじい姿を映した二人の写真を、居間にたくさん飾っておくくらいには。母は父親を愛していた。
壊してしまったのは自分だ。
―――お前さえいなければ。
母の言葉が脳裏から消えない。それは、自分のせいで起きてしまった取り返しのつかない罪なのだと。
自分なんか、いなければよかった。いなくなれば良かったのに。
「星来は何も悪くない。悪くないんだよ」
父親は彼女を抱きしめた。
クリカにはその言葉を、受け止める余裕なんてなかったのに。
◇
悠がシャワーを浴びて部屋に戻ると、寝間着姿でクリカが塞ぎ込んでいた。
空虚彼方との戦いの後から、彼女はずっとこうしている。
今日は一日ずっとこんな調子だなと、悠はクリカの状態を心配していた。
時折弱さをこぼすことの多かったクリカだが、彼女がこれほど落ち込んでいるのは初めての事だ。
出会った時に橋の上にいた事はまったくの偶然で、彼女に飛び降りる意思は無かったことは聞いている。だが、その時の印象がどうしても残って消えない悠は、彼女を危うい存在として見てしまうのだ。それがひどいお節介だと分かっていても。
お節介だと分かっているから、あれこれ言わない方が良いのだろうと、悠は黙って座る。
音を立てるのがなんだかはばかられて、この部屋唯一の娯楽であるラジオをつける気にもなれない。
そもそもどうしてこの部屋にはテレビが無いのだろうと、自分の部屋ながら気が利かないななんて悠は思ってしまう。
「真阿連くん、そっちにいって良い?」
ぼそりと、クリカが訊いてきた。
「え? ああ、うん」
不意打ちでよく分からず返事をする悠。
クリカは移動すると、悠の隣になぜかぴたりと座った。
彼女の体温を直に感じ、息遣いすらはっきりと聞こえる距離。
狭い部屋ながらある程度距離を保った生活をしてきた悠は、これほど彼女に近づいたことなどない。
本当に今さらだと思いつつも、悠はクリカが女の子であることを意識した。
「あ、あの、クリカさん?」
「……」
クリカは沈黙したまま、悠に体を預けている。彼女の様子がまるで変っていない事に気づいて、悠の中から緊張が消える。それよりも心配事の方が勝ってしまった。
「あのさ、話聞いてくれないかな」
クリカが呟くように言った。
「うん。聞くよ」
「たぶんつまんない話だけど……」
「大丈夫。ちゃんと聞く」
ありがとうと返して、クリカは話し始めた。
「私のお母さんのこと。正確には、お母さんだった人。よく言う教育ママっていうの? すっごい厳しい人でさ。私、バカだからよく叩かれてたんだ」
クリカの声は自虐的に笑っていた。聞けば聞くほど、悠は眉間のしわが濃くなっていく。
「お母さんは、たぶん私の事が嫌いだったんだと思う。いつも私の事でお父さんと喧嘩ばっかりしててさ、そのうち別れちゃった。私のせいでね」
想像以上に重い内容に、悠は返す言葉も無かった。以前、悠はクリカに家族の事を聞いたことがある。その時彼女は、誰も自分を気にしていないのだと、そう言い切った。この様子だと、父親ともうまくいっていない様だ。
「褒めてほしかったんだと思う。ただ一度でいいから、認めてもらいたかった。本当は今でも、そう思ってる気がする。お母さんと最後に会った時、私になんて言ったか分かる?」
分かるわけがない。分かりたくもないと悠は思った。きっとそれは、ろくでもない言葉だろうと予想がついているから。
「お前は失敗作だって。お前さえいなければいいって、そういったんだよ。普通そんなこと、子供に言う?」
クリカの声が、泣いて上擦った。
「それがね、もうずっと、頭から離れないの。もう何年も昔のことなのに……何をしても、どこにいても、私はダメな子なんだって言い続けるの」
しゃくりあげながら、彼女は途切れ途切れに言葉を漏らす。
「無理なんだよ……頭の中から消せない。忘れられないんだ……」
そんな彼女に何もしてあげられない無力感が、悠の中でいっぱいになる。
慰めの言葉が悠には思いつかない。何を言ったところで、クリカの傷を和らげる力にはならないのだろうと思った。
そんな悠の気配を感じ取ってか、クリカは言う。
「ごめん。良いよ。ただ、聞いてくれるだけで良いから。ありがとう」
クリカは悠の手を強く握る。
「お願いだから、少しだけこうさせて」
クリカは眠る様に静かに、悠へ身を寄せる。
悠はただ黙って、クリカが落ち着くのを待った。
◆
今夜も街は正常に回っている。
正常な社会とは、すなわち日常の風景。
そこに些細な調和を乱す出来事があっても、社会全体には何の影響もない。
例えるなら、複雑な
わずかな損傷では全体に何の影響も及ぼす事は無い。歯車は回り続ける。
取り締まる側もまた変わらない。その風景もまた、日常の一つ。
すべては社会のために。そして何より若者たち自身の健全な成長の為に。
しかし削れれば削れるほどに、歯車はすり減って無くなっていく。
噛み合わなくなった歯車はやがて空回りを起こし、
『あの女、ホントうざい。何が健全な社会だ。こんなの独裁じゃないか!』
誰かが、禁じられているはずのネット掲示板にそんな言葉を書き込んだ。
若者の行動を制限し、彼らのためにと文化の弾圧を行う都市。そしてその長たる大統領と、
すぐに賛同の言葉が掲示板に書き込まれ、流れはじめた。
街を支配する体制への不満が、加熱していく。
「若者のネット規制なんて時代遅れだ。おかげで、日本のIT分野は世界に後れを取っている」
「未成年のケータイ所持禁止って、なんか意味あんの?」
「ネットでこういう話されると困るからだろw」
「スマホうらやましいよなー」
「日本じゃほとんどのアプリ規制されてっから、使い道無いゾ」
「一応、学業に支障をきたすからって理由があるにはある」
「PCの所持も一応制限されてるぞ」
「ワイ未成年。めでたく犯罪者w」
「親のパソ子って言えばおけ」
「90年代は良かったよな。アニメも普通に見れたし、ゲームも堂々と遊べたし」
「2000年の規制で一気に衰退したからな。今じゃ作るのも禁止なんだろ?」
「あれが無かったら、今頃世界に売り込める日本の一大産業になってただろうに」
「そこまでじゃねえって。アニオタ夢見すぎw」
「だけど、規制規制で映画とか音楽もなんかパッとしなくなったよね」
「そんなものまで規制する権利が、連中にあるのかよ」
「選挙に行かないひきこもりが、えらそうに政治語るなって」
「門限に引っかかるからって、部活まで規制するのはさすがにね」
「明らかに才能の芽を摘んでるよな」
「海外には若いうちからオリンピックに出たりする子だってたくさんいるのにね」
「つか、ほとんどそうだろw」
「スポーツ弱小国家ニッポン」
「やっぱおかしいよな」
「なんで、こんなのが二十年も続いてるんだ?」
「そりゃあ、警邏隊が怖いからだろ」
「デモとかすぐに鎮圧されるもんな」
「あんな兵隊使って統制しなきゃいけない時点で、規制の効果が出てない証拠」
「なあ、明日庁舎前でオレと一緒に戦ってくれるヤツおらん?」
「おっ、反対運動か? 乙」
「デモったって、更生施設行きがオチだろ。頑張ってくれ。俺はここで見てる」
「↑の奴はほっとけ。俺は行ってもいい」
「私も行く。やっぱり、こんなのおかしいって」
「みんなが行くなら俺も」
「これで何人集まるか見ものだな」
反旗の気配がひっそりと生まれ始めていた。
賛同する者たちが幾人も現れる中、静観する者たちもその動向に注目していた。
民衆が、世界を否定し始める。この虚構の歴史をたどった異形の世界を。
この世界が生まれて初めて起こる反旗の火蓋が、今切られようとしている。
都市で最も高いタワーの頂点から巨大な箱庭を見下ろすそれは、一人ほくそ笑む。
「素晴らしい! さあ人類、存分に抗いなさい。
動乱の予兆が静かに動き出す夜の街を、それは高らかに嘲り、笑い狂った。
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