記憶を失った少年
闇の中で彼は目覚めた。
目の前にあるのは見知らぬ天井。外から差し込む街灯の薄い光が、部屋の全体像を浮き上がらせている。
そこはマンションの一室だった。家具があり、生活の痕跡も存在する。しかし、彼には一切心当たりがなかった。
見覚えのない部屋。それなのに、他人の部屋という気はしない。
自分はなぜここにいるのだろう。そう疑問を抱いて、更に奇怪な事に気が付く。
―――自分が誰だか分からない。
慌てて立ち上がると、電灯を点けて鏡を探した。姿見を見つけて、その前に立つ。
見知らぬ少年が目の前にいた。特徴らしい特徴もない、どこにでもいる普通の十代の少年。高校生くらいだろうか。
それを自分の姿だと認識してもなお、何の実感もわかない。
「ほんと、何なんだよこれ……」
鏡に映った部屋の端にリュックサックを見つけて、それを漁る。祈るような気持ちで物をかき分けると、目当ての物が出てきた。
「あった!」
黒い二つ折りのパスケース。通学用の定期券と、自分の写真が入った生徒証が差し込まれていた。
「まあれ……ゆう?」
真阿連悠。自分の名前を読み上げてみてもしっくりとは来ない。ただ、わずかな確信みたいなものがあった。
リュックサックを見て、瞬時に通学用だと判断したこと。パスケースが中にある事を知っていた様な行動を咄嗟にとった事。この二つから考えて、自分に関する記憶全てを失ったわけではないという事だ。
考えても分からないが、無意識的にこの部屋が自分のテリトリーだと分かっている。どこに何があるのか、なんとなく分かるのだ。
親族や同居人の姿はない。部屋の規模から考えて、一人暮らしを想定した部屋らしい。
「僕の名前は真阿連悠。高校一年生で、一人暮らしの学生」
情報を整理するように呟いていくうちに、何か大事なことを忘れているような気がしてきた。
もちろん既に色々と忘れているのだが、その中でも最優先でやらなければならない何かがあったはずなのである。
「だあああっ、思い出せないっ!」
考えたところで、空っぽの記憶から何かが出てくるはずもない。
自分の事を忘れていると気づいたときよりも、はるかに強烈な焦りを感じていた。
何かをしなくてはならない。その具体性のない強迫観念が、悠を突き動かす。
悠は適当に上着を羽織ると、外へ出た。そうするのが正解なのだと思った。
考えても分からないのだから、直感に従ってみる事にした。自分の潜在的な記憶、本能の様なものが、自分を導いてくれる様な可能性に従ってみようと試みる。
街は闇に包まれていた。深夜なのか明かりもほとんど無く、外は驚くほどに静かだ。
慣れた手つきでエレベーターを操作し、一階に降りる。なぜか使い慣れている感覚があるが、やはり実感がわかない。
そこから、当てもなく夜の街を徘徊した。こうすることが正しいと心が言っている。自分は何かを探しているのではないかという考えが、なんとなく悠の頭に浮かんだ。それが何なのかはやはり分からないが。
途中、小腹がすいてコンビニに入った。
やる気のない店員のあいさつに招かれて、おにぎりのコーナーに直行する。上着のポケットに入っていた財布の中身を確認。所持金、五三二六円。意外に持っている。
おかかとツナマヨの二つをもってレジに行くと、そこで初めて店員が自分を凝視している事に気が付いた。
「あの、これほしいんですけど……」
やけに嫌悪感のある顔つきで店員がジロジロと見るので、委縮してしまった。
「あの、悪いんすけど、未成年の方への販売はできませんので」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「えっ! ただのおにぎりなんですけど……」
店員が壁の時計を指さした。
「時間。今何時だと思ってんの? わるいけど法律だからさ。こっちも怒られるといろいろ困るんだよ。帰ってくれる?」
「は、はぁ……」
店員と争いたくなかったので、そのままおとなしく建物から出た。悠は、たった今起きた出来事が信じられずに首をひねる。買い物をするのに時間制限があるとは驚きだ。記憶喪失のせいか、一般常識にまで影響が出ているなと、悠はなんだか頭が痛くなった。
記憶があやふやというのは、もどかしくて苛立つ頭痛のタネになる。なんとかこの状態を脱したかったが、それこそ方法など分からない。
「まいったな」
漠然とした不安に駆られて立ち止まっていると、ふいに近くで複数の足音が聞こえた。深夜に集団が走っている。今度は何事かと音のする方を眺めていると、近くの十字路を複数の人影が横切った。
サバゲー会場から飛び出して来たかのようなフル装備の黒い集団が、ライフルの様なものを抱えて走っていく。
さすがにこれは異常だと悠にも判断できた。近くで何か事件でも起きているのか。それにしては、周辺は静かすぎた。
おそるおそる、悠は建物の影から集団の走っていった方向を覗き見る。
建物の前で、兵士二人が待機していた。その足元には電気の点いていない看板があり、ギターのシルエットが描かれている事が辛うじて視認できた。
「ライブハウスか?」
しばらく見ていると、残りの兵士が建物から出てきた。中にいた若者たちを強引に外へと連れ出している。
若者といっても、悠とそう齢は変わらないだろう。おそらくは全員未成年だ。男の割合が多いが、女子も少なからずいる。
「これで全員だ。連行しろ」
十六人ほど外へ連れ出したところで、兵士の一人が仲間に指示を出す。
その隙を見て、男の一人が逃げ出した。
攻撃的なファッションに身を包み、体格も一回り周囲より大きい青年だった。なんとなく、この集団のリーダーなんじゃないかと悠は思う。
「捕まってたまるかよ!」
走り出した青年は、悠のいる方へと走ってきた。
このままじゃ自分も気づかれる。まずい。そう悠が思った直後だった。何の警告もなく、兵士が発砲した。
青年は背中を撃たれて、その場に倒れた。痛みにもがく様子からして、ゴム弾か何かだったのだろう。
これ以上この場にいるのは良くないと感じ、悠は退散を決める。
振り返った瞬間、目の前に兵士がいた。
「あっ……」
まずいと感じた。見つかった事もそうだが、近くだからこそその異質さを肌で瞬時に感じる事ができた。
相手からは息遣いというものが全く感じられない。一言も発さずに悠を見下ろす直立不動の兵士は、まるでこの世のものではないような気配さえある。
逃げろと心が訴える。悠は部屋を出た時から、直感に従うと決めていた。
「くっ!」
悠は一目散に走りだす。当然、兵士は追いかけてきた。
タッタッタッタッタッ。乱れる事の無い背後からの足音は、規則正しい機械の駆動音の様。
止まれとも言わず、無言で追ってくるのが不気味だった。
すぐに追いつかれるかと思ったが、意外にも悠自身に体力があるようで、悠は兵士との距離を開いていく。そしてまだまだバテる様子もなかった。
これなら逃げ切れるか。そんな期待を抱いた瞬間、背後で足音が止まった。
諦めたとは思わなかった。悠の脳裏に浮かぶのは、ついさっき見た光景。
悠は瞬時に物影へと隠れて背中を庇う。直後、乾いた発砲音が数発鳴った。放たれたゴム弾が、周囲の物を無差別に破壊する。
悠には音でしか判断できなかったが、金属が歪むような音が確かにしたのだ。
そんな代物を、人間に向かって発砲するなんて正気じゃない。通常、日本の警察であればまず一般市民に対して向けない手段だ。まして悠は無抵抗な未成年なのだから。
相手がまっとうな存在でないことは分かっていたが、それがこの場で確信に変わった。
あれに捕まってはいけないと、悠の心が訴える。
さらに脚へと力を込めて、悠は全力で疾走した。
幾度かの発砲を運良くすべて回避して、悠は路地裏へと逃げ込んだ。複雑な道を適当に進んでいると、見失ったのか追手の気配は完全になくなった。
「た、助かった……」
念のため物影に隠れながら、悠は息を整える。
いつの間にか降り始めた雨が、周囲の物音をかき消していく。悠の存在も、敵の気配も、雨の中に紛れていく。
あの兵士が何者だったのか、どうして追われたのか、悠にはまるで分らない。
やはり、記憶があやふやな状態で無暗に外へ出るべきでは無かったかと、少しだけ後悔した。
それでも、彼を無暗に急かす焦りの様なものは、未だに収まる様子がない。
「何なんだよこれ……せめて思い出せれば」
分からない事がもどかしく、苛立たしい。額を小突いたところで、空っぽの記憶からは何も出てこない。
「くそっ!」
悠の苛立ちを、唐突な爆音が妨げた。
道の向こう側が急に明るく輝き、夜空に黒煙が立ち上っている。
「今度は何だよ!」
爆炎が気になる。だが、これまでの事を考えれば近づくべきではないと理性が訴えてもいる。
悠は振り向いた。路地の奥は闇。その中にまだ兵士が潜んでいるような気もした。
進んでも、引き返しても、危険は付きまとう。
それならばと、悠は前進を選ぶ。
路地を抜けると、川沿いの道路に出た。炎の出所は川の中だった。何かがそこで爆ぜたように、紫の飛び火が川のいたるところで燃えていた。
その異様な色の炎は美しくもあり、不気味でもある。
「いったい何が―――?」
ふと、悠の視線が近くの橋へと向いた。そこに少女が立っていた。欄干の上に立ち、燃える炎を見下ろす少女。
黒色のフードで頭を覆っていて表情は分からなかったが、その佇まいがどこか悲しげに感じられた。
「まずいっ!」
飛び降りる気だと、そう思った。助けなくてはいけないと、悠の身体は考えるよりも先に走り出していた。
「君っ、何があったか知らないけど、早まっちゃだめだ!」
叫ぶ悠に、少女がハッと振り向いた。悠と同い年くらいの少女だった。
学校の制服を着ていて、ブレザーの上着の代わりに黒色のテックウェアを羽織っていた。そのせいで、彼女の身体が一回り大きく見える。
こんな深夜に声をかけられるとは思わなかったのか、驚愕する少女。その顔を見て、悠はまだ何とかなると確信した。彼女の顔にはまだ、生気がある。
「その、なんていうか、初めて会う僕にこんな事を言われるのは癪かもしれないけど、死んだって、良い事なんかないよ」
たとえ記憶があったとしても、おそらくこんな説得の経験などあるはずがない。悠は分からないながらも、どう言えば当たり障りがないのか、慎重に言葉を選んでいく。
しかし少女から返ってきたのは、全く別の反応だった。
「君、私が見えるの?」
「見えるよ! 見えるに決まってるじゃん!」
もしかして、クラスで居ないものとして扱われるようないじめでも受けているんじゃないか。悠は気が気でない。
「とりあえず、そこから下りない? 僕なんかで良ければ、話を聞くから」
少女はうなずく。
「別に、構わないけど―――きゃあっ!」
雨で濡れていたせいか、体の向きをわずかに変えた途端に、少女が足を滑らせた。
「あわわわっ! ―――ぼふっ!」
悠は何とか少女を受け止めようとしたが、うまくいかずにそのまま押し倒されてしまった。幸いなのは、クッションの代わりくらいにはなれた事だろうか。
「イテテッ、大丈夫?」
少女の安否を確認すると、彼女が睨みつける様に悠を見た。
「……どこ触ってんの?」
「えっ?」
触るという単語に、咄嗟に自分の手元を見る悠。受け止めた時の拍子か、悠の手は少女の太ももをがっしりと掴んでいた。
「あっ、ごめん!」
慌てて手を放すと、跳び上がるように少女は離れた。自信を庇う様に身をひるがえし、悠に責めるような目を向ける。
「変態」
「うっ……」
庇ったのに文句を言われるというのも理不尽な気がしたが、やらかしてしまった事は事実なので、悠は何も言えない。
そんな彼を見てやましい気配はないと察したのか、少女はため息をついた。
「まあ、良いよ。助けてくれたし。ありがとう。ええっと……まあれ君だっけ?」
ここで自分の名前が出るとは思わず、悠は困惑した。
「えっ! どうして知ってるの?」
「どうしてって……同じクラスだよね?」
「っ! 僕の事、知ってるの?」
「そりゃあ知ってるよ。……いや、そうでもないか。ごめん。あんま詳しくなかった。てか、私たちそんな関わりないし」
訝しむような視線で、少女はドライな言葉を返す。しかしそのほとんどを、悠は聞き流していた。ようやく自分の事を知る誰かに遭遇できた。ひとまずその安心感で悠の頭はいっぱいだった。
「良かったぁ! 異世界に迷い込んだとかホラーな奴だと思ったわ」
記憶喪失に続いて、自分の常識を疑うようなことが立て続けに起きて、正直心細かった。世界で独りになったような感覚に陥っていた悠にとって、親しいかどうかは関係なく自分を知るこの少女は救いだ。
「君、何の話してるの?」
訝しむ少女に、悠は事情を伝える。
「いや、実は記憶喪失で」
「記憶喪失? なにそれ、ふざけてるの?」
「いや、本当なんだって!」
胡散臭そうに悠を見る少女。ただ、悠の様子がふざけているというよりは必死に見えて、少女はもしかしたらと考える。ただそれでも、出た感想は味気ない。彼女にとっては、顔を知っているというだけの他人だからだ。
「ふーん。変なの」
その一言で、悠は我に返る。確かに自分の振る舞いは変だっただろう。いきなり親しくもない相手に「わたし記憶喪失なんです」と言ったところで、信じてくれという方が無茶だ。
「ごめん、変な事言って。僕の事は―――今はいい。それより君の事だ。やっぱり、飛び降りるのなんて良くないと思うんだ。なんかさ、嫌な事があったら、別の事で気を紛らわせるとかさ」
「別の事って?」
静かに、そして少しだけ不機嫌に、少女は問う。
少女から放たれる“他人が口を出すな”という圧に、悠は若干納得してしまいそうになるが、なんとか代案をひねり出す。
「例えば、何か食べるとか。お腹いっぱいになると、幸せにならない?」
自分でも弱いなと思いつつ、悠は提案する。
少女は拍子抜けしたように目を丸めて、そして苦笑した。
「ふふっ、なにそれ。だったらさ、君が私になんか食べさせてよ」
少女がそう言った直後だった。彼女の胃が、くぅと音を響かせた。
呆気にとられた悠を、少女は睨む。その表情は羞恥でいっぱいだった。
「なんだよ。いいでしょ。本当にお腹減ってるんだから」
そんな彼女がなんだか微笑ましく思えて、悠はうなずいた。
「良いよ。奢る。僕もお腹すいてるし。牛丼とかで良いかな?」
通りの奥にそれらしき光る看板を見つけて、悠は指さした。
少女はそれを見て、かぶりを振った。
「未成年が深夜に買い食いなんてできるわけないでしょ」
常識だろ? とばかりに、少女が言い放つ。悠としてはそこまで厳しいルールなんてあっただろうかと首をひねりたくなるのだが、実際コンビニでも似たような理由で追い出されている。
少女を疑う様な気はそれこそないので、相手の方が正しいのだろうと結論付けた。
「君、独り暮らしだよね?」
突然少女が訊いた。
「うん。そうだけど」
「なら、君ん
ほらほらと、少女は悠の手を取って急かす。彼女に引かれるまま、悠は自分の部屋がある方角へと歩き出した。
「どうして一人暮らしだと思ったの?」
「えー? だって、君みたいな真面目そうな人が、親に隠れて夜遊びとかないじゃん? 捕まったらどうなるかも分かんないのに」
「捕まるって……別に夜に出歩くのは犯罪じゃないだろ」
ずいぶんと物々しい言い方だったので、少女の冗談かとも思ったが、彼女は大真面目に答えた。
「いや、犯罪でしょ」
立ち止まって振り向いた少女は、嘘でしょと言う表情で悠を見ていた。その程度の常識もないのかと言われた気分になる。
さっき遭遇した兵士たちがどういう連中だったのか、悠にもなんとなくだが分かってきた。あれは、夜出歩いている未成年を取り締まっていたのだ。
「そういうことか……」
自身に関する記憶の喪失だけでなく、やはり常識の一部も欠如しているようだった。意外と自分が危うい立場にいた事を知って、悠は身震いする。
「信じるよ、記憶喪失って話。なんか君、ちょっと危うい感じだもん」
少女はそう言って、再び歩き出す。
「それじゃあ、私の名前も知らないよね。一応名乗っとく。
「くり、から? 珍しい名前だね」
「よく言われる。言いにくかったら、クリカで良いよ。友達はみんなそう呼んでる」
「分かった。僕は真阿連悠」
「君こそ珍しいじゃん。まあいいや。オッケー、真阿連くんね。それじゃ、行こう」
クリカに急かされ、悠は自宅への道を引き返した。
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