非観測少女Q あの子が侵略宇宙人からこの星を守っている事を僕だけが知っている

洋傘れお

プロローグ

 水路の中を、中年の男が疾走していた。

 ヘドロ交じりの汚水を勢いよく跳ね上げて、ズボンの裾を汚していく。そんな事は気にも留めずに、男はひたすら走り続けた。

 彼の意識が向かう先はただ一つ。彼の背後だ。

 追っ手に脅えるように、男はしきりに後ろを振り向く。

 やがて彼は壁にぶつかった。段差状になった水路が男の背丈よりやや高い壁を作り、滝のように下水を落としている。

 男は逃げ場を探して周囲を見渡すが、梯子はしごの様なものは見当たらない。垂直の壁が彼の行く手三方向を塞いでいた。

 とはいえ、跳び上がれば地上に這い上がれない高さではない。男は壁際に寄り、地上に手を付けようと必死に跳び上がる。

 瞬間、パシャリッと水面を踏み抜く音がした。

 恐怖に身震いしながら、男は水面の方へと視線を向けた。

 夜の闇の中でも、その存在をはっきりと男は視認できた。なぜなら、相手は燃え上がっていたから。

 紫の妖艶な炎を体の節々から噴き出すそれは、黒い犬の様なシルエットの怪物だった。体毛の無い体は金属のような光沢を放ち、およそ地上の生物には類がない。

 この得体のしれない怪物に、男は追われていた。

「いったい、俺が何をしたってんだよっ!」

 理不尽な状況に対する苛立ちを吐き出して、男は必死に跳び上がる。

 あと数ミリ、地上に手が届かない。


「くそっ!」


 泣きたくなるような窮地きゅうちの中で、もうだめかもしれないと、男の心に諦めの感情が浮かぶ。その隙を、猟犬は見逃さない。


「ウリュールッ!」


 笛の音のような奇妙な声で吠えると、黒犬が男に襲い掛かった。

 迫る黒犬の足音に脅えて、跳び上がった男の足元がわずかに狂う。ぬめりに足を取られて横転した男へと、容赦なく黒犬は迫った。

 もうだめだ。男がそう諦めた直後。天上から何かが飛来した。大きく飛沫を上げて両者の間に割って入るように着地したそれは、一人の少女。学生服の上に黒色のジャケットを羽織り、フードで人相を隠した彼女は、迫る黒犬を軽々と蹴り上げた。

 黒犬は悲鳴を上げながら、数メートルの距離を水面をねるように転がっていった。


「なっ、何なんだよ! なんで急に吹っ飛んだ?」


 状況が理解できないと、男が悲鳴のような声を上げる。彼の視線は黒犬にのみ注がれており、少女の姿がまるで見えていない様だった。

 何はともあれ、この状況を逃す手はない。男は立ち上がると、再び跳び上がった。なんとかアスファルトの端に手をかけ、死に物狂いで這い上がる。

 そんな様子には目もくれず、少女は黒犬の方へと歩き出した。

 起き上がった黒犬も、すでに標的を少女へと変えている。

 緩慢な歩調で近づく少女に、黒犬は全速力で襲い掛かった。

 迫る黒犬の顎門あぎとへ、少女は右腕を突っ込む。その動作に一切ためらいはない。

 自らの腕を差し出すような行為だが、ダメージを受けたのは黒犬の方だった。

 黒犬の顔が、幾つもの小さなキューブ状に分解されて爆ぜる。頭部を失った黒犬は、そのまま墜落して動かなくなった。

 分解は侵食するように広がり、残った黒犬の身体も崩壊を始める。

 その様子を見下ろして、少女は苦々しく呟いた。


「お前も外れか」

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