第3話 義妹一人目2

 愛結の身になにがあったのかを聞く、ここはそんな厳粛な場。


 の、はずだった。


「ほいひ~!」


 愛結の幸せそうな声が部屋に響いた。テーブルの上には皿に盛られた豚の角煮がある。


 彼女は角煮を飲みこむと、続けざまに白飯を頬ばった。


「ん~、幸せ……」


 目をつむり、うっとりとした表情を浮かべる。


 ――がっつり食ってらっしゃる……。


 俺はせき払いをした。


「じゃあそろそろ話を――」

「大根も味が染みてておいしい~!」

「……そろそろ話――」

「わたし味玉大好き!」

「話を――」

「珠々ちゃんも食べなよ、おいしいよ」

「すっごいマイペース!」


 愛結は首を傾げた。


「どうしたの、急に大声出して」

「いったん食べるのをやめてくれないか」

「ええ? だっておいしいよ」

「それはよかった。でも話が進まないから」

「お話はご飯を食べながらのほうが楽しいよ?」

「ご飯しか食べてないだろ!」


 夕飯をもてなすつもりはなかった。しかし席について早々、愛結が角煮の匂いに気づいた。


『なんかいい匂いする……!』

『ああ、角煮を作ってた』

『お兄ちゃんが!? 食べたい!』


 兄として妹の希望を叶えない選択肢はない。俺は角煮を温めなおし、ふたりに振る舞った、というわけだ。


「いやでも本当においしいですよ、これ」


 珠々さんまでそんなことを言いだした。角煮の脂身を丁寧にはずし、小さく崩して口に運ぶ。上品な所作だ。対して愛結は脂身もなんのその、にこにこ顔で口の中に放りこんでいく。


 ――小さな大人と大きな子供……。


 まさに対照的なふたりだ。


「では、そろそろ」


 珠々さんが改まった調子で言って箸を置いた。ぴりっと空気が引きしまる。俺は居住まいを正した。愛結は豚肉をもぐもぐしている。


「まずご安心いただきたいのですが、愛結ちゃんの身になにか良からぬことが起こっているということはありません」

「そ、そうですか」


 俺はそんなに不安そうな顔をしていたのか。


「それから、わたしが姉というのも事実ではありません」


 たしかにどちらかと言えば妹に見えます、ということではないだろう。


 珠々さんはじとっとした目つきで俺を見た。


「……今、『どちらかと言えば妹に見える』と思いました?」

「へぇ!? いえまったく! やだなあ、ははは……」


 どうやら童顔小柄であることを気にしているみたいだ。口に出さなくてよかった。


「じゃあ、珠々さんはどういう……?」

「マネージャーです」

「マネージャー? ……ってあの、芸能人のスケジュールを管理したりする、あれですか?」


 珠々さんはこくりと頷く。


「いや、え? なぜ愛結に? まさか……」

「そのまさかです。愛結さんは芸能事務所に所属しています」


 と、名刺を差し出した。俺にビジネスマナーなど分かるわけもなく、とりあえず失礼のないように両手で受けとる。


 名刺にはこう書かれていた。


『グラント・エンタテイメント マネージャー 臼井珠々』


「え、ガチ?」

「ガチです」

「ええと……」


 急展開すぎて頭が追いつかない。


「バラエティタレントですか?」

「女優です」

「女優!?」


 嘘だろ。この、味玉を一個まるごと口に入れて噛むことも出すこともできなくなり四苦八苦しているような子が、女優だなんて。


「ガチですか?」

「ガチです」

「ドッキリじゃなく?」

「素人にドッキリは仕掛けません」

「ですよね」


 嘘をつく理由がない。信じるしかなさそうだ。


「でも、演技なんてできるんですか?」

「ご存じないんですか? 愛結ちゃんはすごいですよ」


 珠々さんはにいっと口角を上げた。


「カメラの前でもまったく緊張しませんし台本の覚えもいい。なにより役が憑依したような鬼気迫る演技は鳥肌ものです」


 と、自分の身体を抱くようにしてぶるりと震えた。


 愛結の演技はひとを――少なくとも珠々さんを――感動させるレベルであるようだ。離れて六年ほど。まさか妹が芸能人の卵になっているだなんて。


 珠々さんは拳を握って力説する。


「わたしがスカウトしました。ぴんと来たんです。この子にはスター性がある、と。親御さんにも承諾をいただき、養成所が近いこちらに引っ越しを」

「でもマネージャーさんが同居までして面倒を見るものなんですか?」

「……寮がないんです。小さな事務所なもので……」


 珠々さんは声を極小にした。


「大事な娘さんを預かるので、ひとり暮らしというわけにもいかず」

「ありがとうございます、妹のために」

「いえいえ! こちらが熱望して事務所に入っていただいたので、これくらいは当然です」


 そこまでしてくれるだなんて、珠々さんは本当に愛結に惚れこんでいるようだ。


「しかしなんで姉だなんて嘘を?」

「マネージャーと女優の卵と周知されてしまうのもどうかと思いまして」

「なるほど……」


 珠々さんはまたじとっと俺を見つめる。


「……今、『それにしても姉というのは説得力に欠けるのでは』と思いました?」

「思ってません!」

「ならいいんですが」


 だいぶんコンプレックスをこじらせているようだ。


 ともかく、だいたいの事情は理解した。愛結がマイナスな状況に陥っているのではなくて安心する。


「しっかし、隣に引っ越してくるなんてそんな偶然あるんだな」

「本当にね!」


 間髪を入れない大音声に俺はびくりとなった。


「本当に偶然だね!」

「あ、ああ。だからそう言っただろ……?」

「ね。本当に偶然だなあ」


 愛結は難しい顔でうんうん頷きながら角煮を口に運ぶ。珠々さんは愛結に厳しい視線を送り、かすかに首を横に振った。まるで失言をたしなめるような仕草だ。


「あの――」

「なんでもありません!」


 俺の疑問は珠々さんの大声で打ち消された。


「でも――」

「芸能界にはいろいろあるんです!」

「そういうものですが」


 守秘義務というやつだろうか。今の言動のなにがそれに抵触したのかはさっぱり分からないが。


 ――にしても……。


 俺は愛結を見た。彼女は大根を食べて、


「しみしみ~……」


 などと恍惚の表情を浮かべている。


 ――緊張感の欠片もなし……。


 生活環境が変わり、これから女優としての第一歩を踏み出そうというのに、なんだろうこの胆力。


「お前、不安はないのか?」

「ふ、あん……?」

「え、初めて聞いた言葉?」

「あ、あるよ! ええと……」


 なにか思いついたみたいにパッと顔を明るくする。


「ちゃんと電車の乗り継ぎができるかなあとか」

「そこではないな」

「ご近所さんと仲よくできるかなあとか」

「そこでもない」

「おいしいご飯屋さんは見つかるかなあとか」

「ご飯食べながら次のご飯の心配してんの? マジで?」


 我が妹ながら肝がすわりすぎだろ。


「女優としてやっていけるかどうかだよ」

「あ、あ~! そういう話ね!」

「そういう話しかしてなかったけど」

「ん~、不安かあ」


 視線を漂わせながら考える。


「あるんじゃないかなあ」

「他人事……!?」

「でも珠々ちゃんがいるし、なによりお兄ちゃんとお隣さんになれたから、安心とか嬉しさのほうが大きい、かな」


 と、はにかんだ。


「……」


 その幸せそうな笑みに、俺の苦言は引っこんでしまった。珠々さんはほっこりとした顔で頷いている。


「応援するからな」

「うん!」

「うまい飯も作るし」

「うん!!!!」


 後者のほうがいい返事だった。


 自分でも気づいたのだろう、愛結は慌てて否定した。


「ち、違うよ? わたし食いしん坊じゃないから!」

「いや食いしん坊ではあるだろ」

「あるけど!」


 ――あるのかよ。


 認めるのが早すぎる。


「嬉しい理由はそれだけじゃないから!」

「じゃあそのほかは?」

「そのほかは……」


 きょろきょろと目を動かしたあと、ちらりと上目遣いで俺を見る。


 しかしすぐに恥ずかしそうに目を伏せてしまった。


「言わない」

「なんだよそれ」


 自分から話を振っておいてそれはないだろ。


「まあ無理に言う必要はない」

「うん……」


 愛結はつぶやくような小さな声で言う。


「でも、いつか言うから」


 脳天気な愛結にしては、その声色はずいぶんと真剣なトーンに聞こえた。


「? ああ、気長に待ってる」

「うん」


 そしてすぐに弾けるような笑顔になる。


 その魅力的な表情を見て、たしかに珠々さんの言うとおり愛結にはスター性があるかもしれないと俺は思った。


 しかし当の珠々さんは疑念を抱いているような微妙な顔をしている。しかもその目は愛結だけではなく俺にまで向けられた。


「どうかしました?」

「い、いえ! ――本当、料理がお上手ですね!」


 と、残りの角煮を口に運び、ごまかすような笑顔を作った。


 ――なんだ、ふたりして。


 言いたいことがあるなら言えばいいのに。


 食卓を見ると、すっかり皿が空になっていた。舞乃さんの分を別にしておいてよかった。


「こんなに食べて大丈夫か? これから夕飯だったんじゃ……」

「大丈夫だよ。ちゃんと食べれるから」

「……え? 食べるの?」

「食べるけど……?」


 きょとんとして小首を傾げる。


 ――低カロリーレシピを検索しとこう……。


 愛結を応援し、そして肥満から守る。俺はそう固く心に誓うのだった。

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