第10話 胸にくすぶる感情

 今までも、織田さんに血をあげていることは隠さなくてはいけないことだとわかっていた。

 そもそもが成り行きで始まった俺達の関係。彼女に対しても何か特別な感情は持ち合わせていなかった。

 でも、それが今、変化の時を迎えていた。


 ***


 屋上へとつながる階段を登り切りドアをひねると、鍵のかかっていなかったドアは簡単に開いた。ここに来るまで誰にも見つかることなくたどり着けたようで、安堵のため息をつく。

 織田さんに言われるがまま屋上に来たが、入学して以来用事もなくて来たことがなかった屋上は何か置いてある訳でもなく殺風景だ。

 俺が屋上を見回しているその一方で、先ほどまで支えていたはずの織田さんはドアの前に膝をついて手を動かしている。


「織田さん? 何してるの?」

「ピッキングを少し」

「ピッキング? それって鍵を開けたりする……」

「ええそうです。これで誰かが入ってくる心配はありません」


 鍵の閉まる音を聞いて満足そうに頷いている織田さんには悪いが、その心配より諸々もろもろの問題があるけど?


「もういい?」

「あ、うん」


 ピッキングのこととか、たとえ入ってこれなくても怪しまれてしまうとか、色々聞きたいことはあったけど、話している余裕はないみたいだった。話すのもつらいのかもしれないと思うと、シャツのボタンを外すのも心なしか早くなる。

 今回は量も必要だと思うから、飲みやすいと言っていた首からの方がいいだろう。

 そんなことを考えながら、あらかたボタンを外し終えた頃。


「え、」


 背中に感じたのは暖かい熱。

 お腹に回っている腕が見えて、後ろから抱きしめられているのに気がついた。華奢な体からは考えられないくらいの強い力で抱き寄せられ、為すすべもなく床に座り込んだ。

 襟元を開かれると首にかかる熱い吐息。触れた舌は熱くて体がビクッと跳ねた。もう何度も血を吸われてきたからわかってしまう。もうすぐであの牙によって肌が食い破られるのだ。

 その時が来るのをそっと目を閉じて待つ中、鼓動は早鐘を打っていた。


 少しの痛みと共に血を啜る音が聞こえ、そのジュルジュルといった聞き馴染みのない音は途絶えることなく時が過ぎていく。それが何秒、何分経ったのか、わからないほど。


 思っていたよりも織田さんには余裕がなかったのかもしれない。

 目を伏せていたからちゃんと見えてはいなかったが、その目をギラつかせていたのかも。

 いつもは丁寧に扱われていたんだと、口からこぼれた血を度々舐めながら啜る様子からもわかった。


 こうして改めて考えると、自分は吸血鬼に血を奪われるただの人間で、捕食される側の者でしかないのだ。生きるために必要な食餌しょくじのための者。

 そう思うと胸の奥がつきりと痛んだ気がした。


 俺を引き寄せる細い腕は頼りないのに、なぜか逃げ出そうと思ったことは初めの1回以降ない。自分が承諾したからということもあるが、抵抗することなく身を委ねてしまう。

 今日の織田さんはいつもより余裕がなくて血を吸うのも荒々しい。抱きしめられた腕は力強くて、まるで自分が必要で求められているかのような錯覚に陥る。

 実際、彼女は血が必要なのは変わりないのだが、それ以上を欲しているような気がしてしまう。それは、彼女が言う「好き」に関係するのかも、そんなことを考えてしまった。俺達はすでに、世間一般的な関係でもないのに。


 なんだかおかしい。


 青空の下、授業が行われている学校の屋上での吸血行為はひどく背徳的だった。

 誰にも見られてはいけないのにもかかわらず、白昼堂々とそれも外と言っても過言ではない状況下での行為。どこまでも広がる青空が自分達を責めているようで、視界に入った木々がそよそよと揺れる様は、まるでここだけ切り取られたかのようにすら思える。


 ああ、物語で血を吸われた人の中にどこか嬉しそうな人がいたのはその背徳感からだったのか。

 この状況に体が悦んでしまう自分がいた。穏やかに満たされた幸せではなくて、一時の快感で心が満たされているような。

 自分が自分じゃないような心地だ。そんなことを思うような自分じゃなかったはず。

 知らない自分の一面が恐ろしくて知りたくなかったとすら思う。自分が受け入れられない。


 きっといつもと違う場所、状況だから変になっているだけだ。そう自分に言い聞かせても、変になっていることを認めてしまったようで受け入れ難かった。


 いつかこの痛みすら気持ち良く思えてくるのではないか。

 抜け出せない檻か、何かに繋がれて逃げられなくなる。そんな未来すら考えた。


 血を啜り終えて再度肌を舐められた時、変に胸が音を立てた。ぞわぞわと沸き上がるものが何かわからないまま、ただそれが終わるのをじっと待つことしかできなかった。


 肌から舌が離れ、抱きしめられていた腕の力も緩んだ。背中にあった熱も離れていき……背中の熱? 後ろから抱きしめられていたってことは……

 理解した瞬間、顔が爆発しそうなほど熱くなった。自分では見えてないけど赤くなってるはず。

 そう言えばなんか柔らかかった気も……いや忘れろ。


 余計に熱くなった頭をぶんぶん振って邪念を消す。背中や首に感じた感触がよみがえってきたのも気のせいだ。そう、忘れるんだ。


「あの、穂積くん? 大丈夫ですか?」


 なぜがいつもより疲れてしまった俺と対照的に、織田さんは元気を取り戻していた。

 顔色も良くなっていて、本当に血にえていただけだったようだ。まあ、元気になったならいいか。


「大丈夫、気にしないで」


 不思議そうな顔をしたまま頷いた織田さんに、考えていたことが伝わっていないようで安心する。

 自分ですらわかっていないことがほとんどなのだから、誰かに説明することなどできない。


「ならいいですけど……あ、首元、これで拭いてください」


 後で洗うのが1番だと思いますけど、そのままなのも気持ち悪いでしょうし。

 そう言って差し出されたハンカチをありがたく借りて首に付いている唾液をぬぐった。


「あ、ハンカチ持ってた。ごめん、また洗って返すよ」

「いいですよ、私の唾液付きのハンカチ持ち帰りたくないですよね?」

「うっ……」


 そう言われると否定しづらいかも……


 さっと俺の手からハンカチを奪い、ハンカチを見つめて眉間に皺を寄せると、ポケットに入れることはせずに手に握ったままにした。


 織田さんも何か嫌そうな顔してるな……


「穂積くん、ごめんね。ありがとう」


そう言って、織田さんはいつもよりしおらしく頭を下げた。その顔はさっぱりとしたものではなくて苦々しいものだった。

おそらく、唐突に血を吸ってしまったことを気に病んでいるのだろう。


「いや、いいよ。元気になって良かった」


その心配を振り切るように笑いながら本心を口にすれば、少しだけ頬を緩めてくれた。


「……私は一応保健室に行きますけど、穂積くんは戻っていいですよ」

「え、まだ体調悪いなら付き添うよ」

「一応、ですよ。行ってないのもあれですし。だから穂積くんは戻ってください」

「……わかった」


 織田さんとは階段で別れ、教室に戻って時計を確認すると、あんなに長い時間だと思ったのに実際には授業が始まって30分ほど経過しただけだった。

 それから授業を受けても、先ほどのことを考えてしまって、なぜか集中することができないまま時間が過ぎていった。

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