第9話 足りない

「今日は首でもいいですか?」

「……いいよ」


 あの日から始まった実験のような吸血行為は、手首以外にも手のひら、手の甲、二の腕にも行われた。今の所、足にまで及ぶことはないが、例え提案されても拒否しようとは思っている。

 さすがに足を咬まれるのは嫌だ。そんなの見てられないし、なんか構図を考えただけでいたたまれない。


 向かい合って座っていたクッションから腰を上げると、織田さんは距離をぐっと詰めてくる。


「やっぱり飲みやすさを考えると首からが1番いいんですよねぇ」


 そんな言葉を耳に入れながら、服のボタンをひとつふたつと外していく。平静を装っているが、織田さんに見られているという状況にボタンを外す手が妙に震えていた。

 こうして血を奪われるにも関わらず、咬みやすいように準備をしている自分を客観的に見ると、自分を差し出しているような気分になる。それは自らが獲物であることを自覚しながらも、食べて欲しいと懇願しているかのように。


「じゃあ、頂きますね」


 織田さんは学校で話すのは緊張するみたいなのに、服をはだけさせるのは躊躇がなかった。それは慣れから来ることなのかもしれないが、もう少し恥じらって欲しい気もする。

 俺の部屋でふたりきりなのも気にした様子がなく、俺のこと意識してるようには見えなかった。


 起きている状態では、初めて首に咬まれるんだ。


 肩に手を置かれ、縮まる距離に目をつむると、ふと頭によぎったのはただの事実だった。


 そのすぐ後には、緊張と恐怖と、言葉にできないもやもやとした感情に支配された。


 自分は密着することにこんなにもドキドキしているのに、織田さんはそんな素振りを見せなくて、意識している自分が馬鹿みたいだ。


 それでも拒絶しようとは思わない自分に呆れながら、早く終われと願っていた。



 ……目を閉じてからどれくらいの時間が経ったのだろう。10秒も経ってないかもしれないし、1分経ったのかもしれない。自分の体感では2分は経っていたように感じていた。


 その間、首にかかる息も、咬む場所を知らせる舌の感触も、一向に訪れることはなかった。

 緊張よりも不思議に思う気持ちが勝ち始めた頃、鎖骨の下ら辺を指でするりと撫でられ、思わず声が漏れる。


「ひっ」


 触られてからしばらく経っても動く気配がなく、この状況に我慢ができなくなって口を開いた。


「……あの、織田さん? どうかしたの?」

「……これは?」

「え、何?」

「ここ、誰かに咬まれたんじゃないの?」


 普段話をする時よりも幾分か低い、冷ややかな声で問われるが、何を言っているのかわからなかった。


「他の人に血をあげたの?」

「え? 待って何のことかわからないんだけど」


 いつもとは雰囲気の違う様子に目を開いた瞬間、目に飛び込んできたのは唇を噛みしめた織田さんの姿だった。


「言ってくれたら良かったのに!!」

「え?」

「言ってくれたら頻度を減らしたりしてたのに、何で言ってくれなかったんですか!!」

「え、いや、」

「ここ! 赤くなってます!!」


 指差されたのは、先ほど触られた鎖骨の下の部分。彼女の言う通り、赤くなっているのが確認できた。それも牙で咬まれたように2箇所が赤く色づいている。


「私以外に穂積くんの血を飲んでいる人がいたなんて……」


 項垂れている彼女には悪いが、これはそういうものではないと思う。


 というか、そんな人に心当たりがないから怖いんだけど……? 吸血鬼枠は織田さんで間に合ってます。


「いや、これは咬まれたとかじゃなくて……」

「そうじゃないなら何なんですか……」


 機嫌が悪そうにこちらを睨み付けてくるが、あまり怖くない。猫みたいでちょっと可愛らしくも感じる。


「ただの湿疹だよ。偶然ふたつ並んでるだけ」

「本当ですか? 記憶にないだけじゃなくて?」

「うっ……記憶はないっちゃないけどさ」

「ほら!」


 やっぱりそうなんだ!と言いたげに見つめてくるが、許して欲しい。

 織田さんのことも気がつかなかった俺が、他の吸血鬼に気づくのが難しいだろう。大体、眠りが深いこともあって途中で目が覚めることもないのに。


「ただぽつぽつしてかゆいだけだよ」

「かゆいなら咬まれてるってことです!」


 どうしても織田さん以外の誰かに咬まれたと思ってしまうらしい。


 ……誰かって誰だ?

 まあ身近に吸血鬼がいるのだから、もうひとりいてもおかしくはないのか……


「でもかさぶたにもなってないよ?」

「むっ……」

「咬まれたなら皮膚を破ったってことでしょ? それに織田さんみたいに直せるなら赤くもならないよ」

「うぅ……」


 俺の言葉に一理あると思ってくれたのか、悔しそうに顔を歪めて声を上げた。


「納得してくれた?」

「少しだけ……」

「少しなんだ」


 眉を下げて呟いた声は小さくて、少し不服そうだった。理解はしても納得はしてないという感じだ。

 そこは納得して欲しい。これ以上血を取られたら貧血どころじゃなくなってくる。


「だって記憶ないなら完全には否定できないじゃないですか」


 思ったよりも冷静な指摘をする織田さんに、反論はできず。今度はこちらが口をつぐむ番になった。


 確かにそうだけど……! さっきのも憶測に過ぎないし、織田さん以外の吸血鬼に会ったこともないからわからないけど……!


「今日は帰りますね」


 そう言って、1滴も血を飲むことなく織田さんは帰っていった。残された俺はというと、服がはだけたまま彼女が出ていった窓をぼんやりと眺めていた。


 血、なくて大丈夫なのかな……

 まあ俺と出会うまでなんとかなっていたみたいだし、大丈夫だろう。


 ──なんて思っていたのが間違いだったのか。これが原因となって、ある出来事が起こるのだが、この時はまだ予想もしていなかった。


 ***


 その日は雲が全くない快晴だった。

 いつも通り登校すると、織田さんの席を囲むように板垣さんと辻さんが立っていた。


「おはよう」

「あ、穂積くん! おはようございます!」

「おはよう」


 辻さん、板垣さんが挨拶を返してくれたが、織田さんの声が聞こえてこない。最近は慣れたのか、良く話をしていたのに。

 織田さんを見ると、机にうつ伏せになって動く様子がなく不思議に思う。


「あれ……? 織田さんどうしたの?」

「私が学校に来た時から、こんな感じなのよね……」


 そう言う板垣さんは心配そうに織田さんへと視線を送った。視線に気がついたのか、起き上がった織田さんの顔は血色がなく見える。


「……穂積くんですか? おはようございます」

「おはよう……体調悪いの?」

「ええ、でも大丈夫です」


 気丈に振る舞おうとしているが、顔色も悪く、反応の遅さから考えても体調は悪いようにしか見えなかった。それでも、繰り返し「大丈夫」と呟く彼女を無理やり連れていくこともできず、ホームルームの時間となった。


 休み時間になり、織田さんの様子が気になって振り向くと、朝と同様にうつ伏せになっている姿が目に入った。慌てて近づくと、体調が良くなるどころか悪化しているように見える。


「大丈夫じゃないよね? 保健室行った方がいいんじゃない?」

「そうだよ朱莉。保健室で休みなよ」


 近寄ってきた板垣さんの言葉もあってか、うつ伏せの状態で小さく頷いたのを見てほっとした。


「……でも動くのつらい」

「俺が支えるから、行こう?」

「……うん」


 板垣さんに後のことを任せると、織田さんの肩を支えながら教室を出た。早く休ませてあげたいけど、あいにく人を抱える方法について詳しく知らない。力になれない自分に、歯を食いしばった。


 しばらく歩いているとチャイムが鳴り、生徒達の声も聞こえなくなる。


「ねぇ穂積くん」

「なに?」


 階段に差し掛かった所で隣から声をかけられ、できるだけ優しい声で問いかける。


「屋上行きたい」

「……でも、」

「血が足りないの」


 ゆっくりと進めていた足が止まる。

 その一言で、彼女が何を言いたいのかがわかった。


「お願い」

「……わかった」


 この時、織田さんを拒絶しようという気は一切起こらなかった。安全とは言い難い学校で、これから危険な行為をするのだとわかっていても、体の動きを止めることはしない。

 きっと、別の場所の方がいいことも理解していた。


 それでも、織田さんの願いを叶えたいと思ってしまった俺は、織田さんを支えながら屋上へと続く階段を登り始めた。

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