幕間001.1

 その日、水瀬が登校すると美紀乃は目ざとくそれを見つけた。


「ゆうべはお楽しみでしたね?」

「おいやめろ」


 白けた視線で糾弾されているとも、冷やかされてるともとれる口調で。

 彼の首元、カッターシャツの襟にぎりぎり隠れるか隠れないかの痣から、鬱血した歯型が刻まれている。


「ユイにされたの。

 なんか機嫌損ねた?

 絆創膏とかしないの」

「曰くマーキング……だそうで、隠すなと言われたんだけど、あまり大声はやめて、流石に周りに聞かれたくない」

「へぃへぃ。スリルまさって、ユイの言う通りにしちゃうわけね」

「隠れてると想ったんだけど……」

「席に着いて教壇から俯瞰されたら、目のいい人には見えるんじゃない?」

「そうならないことを願おうか」


 が、無情にも、数学の時間にそれは起こった。


「切原ー」

「はい?」

「その首についてる、歯型みたいのどした」

「あ――いえ、ちょっと“猫”に咬まれてしまって」

「それほんとに大丈夫なのか!?」

「えぇ……消毒しましたから、どうぞお気になさらず……授業を……続けてくだされば……」


 水瀬の声は羞恥とともに沈んでいく。

 クラスメイトたちはおおよそなにがあったか察してひそひそと内緒話を始めるし、前の方の結の席に彼が視線を送ると、悪戯っぽくいじらしい、ねっとりと熱の篭ったそれがまた返される。

 水瀬は流石に、自制しようと息を静かに吐くのだ。


「へぇ、猫、猫ねぇ――いったいどんな“猫ちゃん”とじゃれたら、こんなあからさまな痕ついちゃうんだろうね?

 苦しい言い逃れだとおもうけど」


 放課後、結との下校途中の電車内は、そんな風にすっかり茶化されていた。


「意外と意地悪だな」

「ごめん、痛かったよね?」

「別に、これしきなら……」


 大好きな人にもらった、傷だから。

 結は水瀬から受けた傷を自分の無二のものにした、だから水瀬からしても、こんなことでいいなら咬み傷が遺っても、むしろ光栄なくらいだ。

 ――とか、口にするのは変な道理だし、重いから控えるが。


「そうやってずるずる引っ張られちゃっていいんですかぁ?」

「やれって言ったの、ユイじゃんか」


 昨晩からの痣は薄れているが、意識するとひりっと軽く疼くのだ。


 マンションのエレベーターまで来て、人目のないことを確認すると、結はうれしそうに彼の腕へ飛びついておねだりする。


「ね?」「ん」


 水瀬も昼間のですっかりゆだっていたが、今回は軽いキスで留めた。

 これ以上は自制が働かないし、なにより――


「梛木ちゃん、待たせてるからね。

 昼間、ひとりであてもない勉強してるとか、ずっとはかわいそうだし」

「そう、だね」


 あの子にこの先、進学って選択肢があるのかも、あやしい。

 彼女の戸籍の扱いは、宙に浮いている。


「みーくんと私が結婚して、養子にすればよくない?」

「帰化ってものにも、いくつか条件があるようだし。

 まずは五年を目途にってひさめさん言ってたけど、子供には長すぎる時間だよな。かといって、ダイソンバイオス圏とは、国交と呼べるだけのものがないし」

「なのに身分証っぽいのあるん?」

「ないとあの子が何者か、誰も保証できなくなる。

 事情が特殊なんだから、仮免くらいいるでしょ」


 それもまた特例中の特例らしい。


「だから俺たちであの子を支えてく」

「うん」

「そのうち茉莉緒くんみたいに、自分のやりたいこととか、見つかるといいんだけど」


 お受験戦争によるエスカレーター式立身出世街道、彼女が必死に食らいついて馴染んでいけるなら、あるいはそれでもいいのだろうが――、


「繊細な子だからな」


 予知夢や未来視にまつわる異能を持つ、社会に徐々に異能持ちがありふれていっても、それが多数派にはなりえない。異能持ちとはあくまで例外であり、異端なのだ。


「お帰りなさい、ふたりとも!」


 部屋に入るや、駆け寄ってきた彼女を見て、ほんとうに申し訳ない気分になる。


「ただいま、梛木ちゃん」


 それとなく、近況を訊ねていく。


「今日はどんなことを?」

「ずっと、ドリル?

 ひさめさんから買ってもらったの、解いてました。

 答え合わせはまだです」

「採点してないってこと?」

「いえ、間違ってたところの意味がよくわからなくて」

「そっか。……じゃ、一緒にやろう。

 俺たちも宿題やるから」

「はい!」


 こんなことで、いいんだろうか?

 すべてがすぐになんとかなる、なんて考えちゃいないが、それでも自分たちは、彼女に最善を尽くしていると言えるのか。


(この子をひとりぼっちにさせない、させてたまるか)


 心の底からそう願う。

 けれど時折、彼女に老婆心とも親心紛いともつかぬ感性が働くたび、自分の実の両親のことが浮かぶ。

 自分はあの二人の失望という呪縛から、逃れられないんじゃないか。

 彼女は、誰にも期待されないことに結果ひねくれた自分とは違う。

 それを彼女を通じて証明したいだけのエゴなら……言うて、生き物が何かしたいという欲求はすべてがエゴイズムに端を発しているし、ようは周りが見えなくなるなという話だ。


「水瀬さん?」

「あ、あぁ……勉強は、楽しいか?」

「え? は、はい……数字は見てて、くらくらしますけど」

「そう」


 楽しい、ではないか。

 結もそれを察していた。だから苦笑する。


「さ、三時のおやつにでもしようか」


 水瀬が茶を淹れながら、訊いた。


「茉莉緒くんとはそれから、どんなこと話して?」


 この前、格納庫でひと騒動やらかされたばかりだが、以降はおとなしくしているらしい。


「水瀬さんのこと、凄く慕ってるんですね。

 今日のあの人は何してた、って」

「お師匠さんだもんねぇ」

「なぜかそういうキャラ付けあったな」


 水瀬は秒で忘れていたが、どうやら会うたびにそう呼ばれるらしい。


「俺は人に教えるの、そんなに得意じゃないんだけど。

 わかりやすくというなら、金紅のほうが」

「金紅さんは、いい人ですけど……」

「何かあるのか?

 あいつなら、相手のレベルに合わせて調整くらいかけると想うが」

「まぁ、そうですね。

 ただ茉莉緒兄が、仲良くしてくれないので。

 モノづくりしてるときは、おとなしかったりするんですが」

「なるほど――つかみかかったり殺し合いにはなってないなら、あれらはそれ以上望まないかな」

「期待する基準が低すぎない?」


 結は言いつ、包みから出したチョコチップのクッキーを水瀬の口へ押し込む。うまい。

 ところで俺の唇に人差し指あててから彼女、なんで舌なめずりしてみせるんだろう?


「えっろ……いぇなにも見てないです」


 梛木は、私はわかってますのでアピールか、憮然としている。

 わかってるって、なにを?

 子供の前で、あんまり思わせぶりなことしてどうすんの。

 情操教育によろしくない。


「案外、みーくん冷めてるんだね」

「そう、かな?」

「マーキングされてても、そんなにうれしくなさそう」

「ごめん、梛木ちゃんの前ではそういうことやめて」

「あー……へぇ」


 燃焼不良ぎみらしいが、あまりスリリングなほうへ吹っ切ってもらっても困る。俺だけだったら、いくらでも振り回されてやりたくなるけれど――そりゃ、結が積極的に求めてくれるなら、俺だってそれに答えたいし、正直、煽られるとムラムラだってするよ、年頃だし。

 恋ってもっと、慎ましやかにするものだと想っていたのを、あれよあれよという間に、結にえろえろしたりされる方向にメーターが振り切られつつある。

 ほんと俺が自制しとかないと、梛木ちゃんの身請けに関わってしまう。

 そろそろ結にも、自制していただけないものか?


「ちゅーしないんですか、私気にしませんよ?」


 じと目で梛木に勧められるが、水瀬はその頭に手を置くと、わしゃわしゃと撫でまわした。


「俺たちが梛木ちゃんと、家族でいるためなんだよ。

 メリハリは大事だ」

「いましないことがですか?

 ヘンなの……」


 人目を気にしなくなったら、やがて社会的に死にかねない。

 そのぶんのお楽しみは、深夜まで取っておいてもらおう。


「どうでもいいですけど、襟の裏、口紅擦れてちょっとのこってますよ」

「――」


 学校での結はすっぴんだし、おもえば休日明けである。

 淡い色だから、今朝鏡見ても気づかなかった。


「メリハリ、ですか」


 少女の声がいじらしく刺さる。

 どの口が、つまりはそういうことだった。

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