第2話 アキラくんと宙クン①

 ――実はね……私、旦那と離婚したの。


 莉子初恋の人のこの言葉に、アキラはずっとモヤモヤしている。昼寝をした日でも基本的に寝つきはいい方なのに、昨夜はなかなか眠れなかった。

 それでもアキラは早起きして、そらと遊ぶための準備を進める。黒色のショルダーバックにいろんな物を詰め込むと、十時前には文月ふづき家へ向かう。服装はいつも通り、オーバーサイズの白Tシャツに黒色のジーンズだ。アメピンで前髪を留めるのも忘れていない。

「おはようございます」

「アキラ君、おはよう。朝早くからごめんね」

「いえ、どうせ暇してたんで、大丈夫ですよ」

 インターフォンを鳴らすと、玄関の扉からが顔を出す。申し訳なさそうな顔の莉子を少しでも安心させようと、アキラはニッと笑ってみせた。

「ふふっ……ありがとね」

 ふわりと笑う莉子の表情に若干ドギマギしつつ、アキラは「おじゃまします」と言って文月家に足を踏み入れる。脱いだ赤色のローカットスニーカーはきっちり揃え、緊張気味に莉子の後をついていく。階段を上ると三枚のふすまが見え、アキラは真ん中の部屋に案内される。

「それじゃあ私は隣の部屋で仕事してるから、何かあったら呼んでね」

「はい。お仕事、頑張ってください」

 莉子は笑顔でアキラに手を振ると、奥の部屋に入っていった。ちなみに、莉子はイラストレーターである。


「宙クン、入ってもいいかな?」

 アキラは襖を軽くノックして、部屋の中にいる宙に声をかける。

「いいよ」

 幼くも落ち着いた声が返ってきたので、アキラはゆっくり襖を開けた。

「アキラくん、おはよう」

「おはよう」

 シンプルな木製の勉強机に向かっていた宙は、椅子に座ったままアキラの方を向く。アキラは「宿題してたの?」と問いかけながら宙の部屋に入り、静かに襖を閉める。

「うん。でも、もうすぐ今日の予定分は終わるよ」

「宙クンはきちんと計画立てるタイプなんだね。しっかりしてるなぁ」

「そう? これくらい普通でしょ」

「うちの弟と妹はなかなか宿題に手をつけずに毎年、夏休みの最終日に慌ててやってるからなぁ……。宙クンを見習ってほしいなと思って。まぁもう高校生になったし、流石に今年は大丈夫だと思うけど……」

「ふーん、そうなんだ。……とりあえず、終わるまで適当に過ごしててよ」

「う、うん。分かった」

「あ、それ、アキラくんがやってくる少し前に、お母さんが用意してくれたんだ。よかったら飲んでね」

「ありがとう」

 ミニテーブルに置いている、オレンジジュースと氷の入ったコップを指さすと、宙はすぐに体の向きを勉強机の方に戻した。

 アキラはお礼を言うとショルダーバックを下ろし、ミニテーブル近くの白い壁にもたれるように座る。そして、常に持ち歩いている本をショルダーバックから取り出し、読み始める。



「それってシェイクスピアの本?」

 不意に声をかけられ、アキラはわずかに肩を震わせる。集中していて、宙の気配を察知できなかったのもあるが、読んでいる本を言い当てられたことにも驚いたのだ。

「うん。シェイクスピアの、『夏の夜の夢』だよ。なんで分かったの?」

「お母さんが、アキラくんは特にシェイクスピアの喜劇が好きだって、言ってたから。あと、オレンジジュースも好きだって聞いたよ」

「莉子さんが……」

 自分の好きなものを莉子が覚えていてくれていることに、アキラはうれしくなった。思わず緩む口元を隠すように、本を顔の前まで上げる。それから深呼吸すると、スッと表情を引き締めた。

「そういえば宙クン、宿題終わったの?」

「うん、終わったよ」

「そっか。じゃあ何して遊ぶ?」

 アキラはそう問いかけながら、ショルダーバックに本をしまう。

「なんでもいいよ」

「なんでも……」

 宙の返答に、アキラは少し困った。トランプ、UNO、オセロ、将棋……定番のものは一式持ってきたが、そもそもこの手の遊びが好きかどうか分からない。他にも一つ、とっておきの物もあるが、今ではない気がした。

「ト、トランプはどう……?」

「いいよ。トランプで何するの?」

「宙クンは何か好きなゲームとかある?」

「うーん……神けいすい弱かな」

「じゃあ、神経衰弱にしよっか」

 とりあえず、無難にトランプをチョイスしたものの、探り探りになってしまう。

 更にアキラは悩んだ。わざと負けた方が良いのか、きちんと勝負すべきなのかを。宙の性格を掴みきれていないアキラにとって、その判断は難しい。

「あ、わざと負けるとかはしないでね」

 心を読んだかのようなタイミングで宙からそう言われ、アキラはドキリとする。

「そ、そんなことしないよ……?」

「ふーん……それならいいけど」

 宙にジト目を向けられ、アキラは苦笑いをこぼす。

 アキラがトランプを取り出している間に、宙は勉強机からミニテーブルに自分の飲み物を移動させる。

「宙クンが飲んでるのって緑茶?」

 透明なコップに、氷と鮮やかな緑色の飲み物が入っているのが見え、アキラは思わず問いかけた。

「そうだよ」

「緑茶好きなの?」

「うん」

「宙クンて、大人っぽいね」

「そうかな? 炭さんも飲むよ」

「炭酸強めのサイダーとか?」

「うん。なんでわかった……あ、お母さんも好きだからか」

「あ~……そういえば、莉子さんもよく飲んでたな~。……宙クン、飲み物の好みは譲りなんだね」

「たしかに緑茶が好きなのは同じかな。ちなみに、さい近はサイダーより、カフェオレとかエナジードリンクの方がよく飲んでるよ、お母さん」

「そうなんだ……お仕事、大変なんろうね」

「うん、しめ切り前はエナジードリンクが手放せないって言ってる」

 二人は畳にトランプを裏向きで並べながら、他愛ない会話を交わす。アキラは子供と遊ぶのも好きなのだが、初恋の人の子というだけで、妙に緊張してしまう。それゆえ、神経衰弱が始まっても会話を振るのに必死で、集中しきれない。


「……ねぇアキラくん、もしかしてわざと負けてる?」

 五戦目が終わった直後。宙の少し不機嫌そうな声に、アキラはビクッとなる。六戦目に向けてトランプを混ぜていた手を止め、恐る恐る視線を上げた。

 本日二度目となる宙のジト目に、アキラはどことなく圧を感じ、たじろぐ。

 アキラは五戦中、一勝もできていない。宙が強いのもあるが、それにしても酷い負け方をしているため、疑われるのは当然である。

「違う違う! なんか、集中できなくて……」

 宙の冷ややかな視線を受け、アキラは慌てて首を横に振る。

 そんな必死なアキラを見て、宙は小さくため息をつく。

「あのさ……なんか、お母さんがムリ言ったみたいでごめんね。となりの部屋にお母さんはいるし、一人でもおれは大じょうぶだよ」

 宙の言葉と伏し目がちな表情に、アキラはハッとする。

 初恋の人の子供だからって変に緊張して、ぎごちなくなって……宙自身をきちんと見ていなかった。普通に接していれば宙に気をつかわせることも、悲しげな表情をさせることもなかったのにと、アキラは猛省する。

「宙クンごめん! 俺、宙クンのことちゃんと見てなかった。宙クンは宙クン、莉子さんは莉子さんなのに……」

 姿勢を正し、真剣な顔で頭を下げるアキラに、宙は困惑する。

「えっと……なんの話をしてるの? もしかしておれの言った言葉の意味、つたわってない?」

「ううん、ちゃんと伝わってるよ。宙クンは俺が、莉子さんに頼まれたから仕方なく、一緒に遊んでると思ってるんだよね? でもそれは誤解なんだ。こう見えて、子供と遊ぶのは結構好きだし、宙クンと遊ぶのも楽しみにしてた。だけど、いざこうやって対面すると……いや、莉子さんの子供だと意識すると、変に緊張して……ぎこちなくなってしまっただけなんだ。その、莉子さんは……俺の初恋の人だから……」

「あ、やっぱりそうなんだ」

「へ……やっぱり?」

「うん。アキラくんは、お母さんのことが好きなんだろうなぁと思ってたから」

 宙のその一言に、アキラの顔はみるみる赤くなる。動揺していると悟られないように表情を引き締めようとしたが、すぐにへにゃりと情けなく緩んでしまう。

「な、なんで、わかったの……?」

「だってアキラくん、顔に書いてるもん」

「顔にって……ま、まさか、莉子さんも気づいて……」

「それはないんじゃない? お母さん、どん感そうだし」

 莉子には気づかれていないと分かり、アキラはほっと胸を撫で下ろす。とは言え、息子の宙には勘付かれていたのがやはり恥ずかしくて、耳まで赤くなる。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではないと思い、表情を引き締めた。

「とにかく! 俺は仕方なく宙クンと遊んでる訳ではないから安心して! 不安にさせて、本当にごめんね」

「べつにいいよ。おれこそ早とちりしてごめんなさい」

 アキラと宙は下げた頭を同時に上げ、顔を見合わせ、どこか気恥ずかしそうに笑う。

「宙クンのこと、たくさん教えてよ。何が好きとか、いろいろ聞きたいな」

「いいよ。その代わり、アキラくんのことも教えてね」

「うん。たくさん話して、いっぱい遊ぼう」

 アキラの優しい笑顔に、宙もつられて穏やかな顔になった。

 その時、隣の部屋のふすまが開く音が聞こえ、静かな足音が宙の部屋の前で止まる。

「宙、アキラくん、入るよー」

「うん」

「はい」

 柔らかな莉子の声に、宙とアキラは返事をした。それを合図に開いた襖から、莉子が顔を覗かせる。

「そろそろお昼作ろうと思ってるんだけど、冷やし中華とチャーハンでいいかな?」

 時計の針は十一時半を指していて、アキラが文月家に来てから一時間半が経過していた。

 莉子の問いかけに、宙は「うん」と頷く。アキラも「はい」と答えつつも、ショルダーバックからエプロンを取り出し、「あの……」と続けて言葉を発する。

「お昼ご飯なら俺が作りますよ。元々、そのつもりでエプロンも持ってきてますし」

「え……そんなの悪いよ! アキラくんはお客さんだし、ただでさえ宙のこと任せっきりなのに」

 申し訳なさそうに首を横に振る莉子の目の下には、クマができている。宙から締め切り前の話を聞き、緊張より心配が勝ったアキラはやっとまともに莉子の顔を見ることができ、それに気がついた。

 そもそも、大切な子供と一緒に過ごす時間もないほど忙しい人に、ご飯を作らせる気など、アキラには更々ない。

「エナジードリンク飲んで、目にクマができるほど頑張ってる人にこれ以上、無理はさせたくないんです」

「ちょっと宙! アキラくんになんの話してるのよ……」

「宙クンはが心配なんですよ。安心してください、これでも料理は得意な方なんで」

「でも……」

 なかなか引いてくれない莉子をどう説得しようかとアキラが考えあぐねていると、宙が「あのさ」と声を発した。

「おれもアキラくんといっしょにお昼ごはん作りたい。子ども用のほう丁なら何度も使ってるし、アキラくんにメイワクはかけないからさ。アキラくん、おれもいっしょに作っていい?」

 宙に真剣な眼差しで見つめられ、アキラはふわりと笑い、首を縦に振る。

「うん。宙クンと一緒ならもっと楽しいだろうし、むしろお願いしたいな。莉子さん、宙クンもこう言ってることですし、お昼ご飯は俺達に任せてください。二人で絶対、美味しいもの作るんで」

「う~ん……それじゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。アキラくんも宙もありがとうね」

 莉子の返事に、アキラは宙に向かって小さくピースをする。

 宙は最初、キョトンとしたものの、すぐに意味を理解し、控えめにピースを返した。

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アキラくんと宙クン~小井崎村の巫女伝説~ 双瀬桔梗 @hutasekikyo_mozikaki

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