第3話


 空は既に暗くなっていた。神社の境内に設置してある笹の枝に、今度こそ短冊を付けた。今更神様も何も信じてなんていないけれど、なんとなくここに置いておくのがふさわしいような気がしたのだ。


 人混みの中、ひとりで手持ち無沙汰になった私は、あの日絵七と過ごした神社の裏山に行ってみることにした。立ち入り禁止になっているそこに、いい大人の自分が侵入するなんて、少しだけ罪悪感を抱かなくもないけれど、持て余したやり場のない何かを誤魔化すためには、何かしらの儀式が必要だった。


 誰もいない裏山からは、あの日ほどではないけれど、空がよく見えた。だけど天の川は見えない。ベガもアルタイルもデネブも、何も。


 その代わり流れ星のように輝く飛行物体が、西へ東へ、空を縦横無尽に飛び回り、大きな光と爆発音と共に、別の物体に激突していくのが見えていた。


 すっかり見慣れたその光景に、まわりの人々はちっとも興味を示さないけれど。それでも、私だけはそれを見つめていたかった。


 光り輝くそれは、絵七だったから。


 中学卒業と同時に軍人になった絵七は、戦闘機のパイロットになったと聞かされていた。さっきのサイレンは敵襲を知らせる合図で、そんなとき絵七は、有無を言わさず呼び出され、戦闘機に乗る。それが当たり前だった。


「どうしても、行かないといけないの?」


 いつだったか、そう聞いた私に、絵七は下を向きながら答えた。


「……私が行かないと、駄目だから」


 そのときの私にはわからなかった。まだ十代の絵七が、我が国の国防において非常に重要な役割を担っているだなんて、想像もしていなかった。


「ただいま」


 光り輝く空がいつの間にか静かになり、いくつもの火球のような光が流れていったあとしばらくして、私の肩には再び手が置かれていた。


「今日は、ちょっと手こずっちゃった」

「……うん。おかえり」


 振り向きながら、肩に置かれた絵七の手に触れてみる。先ほどの戦闘の余韻なのだろう、絵七の手はいつもより熱を帯びていて、慣れない感触に、私はほんの少しだけびくついてしまう。


「ごめん、まだちょっと熱かったかな」


 絵七はそう言って慌てて手を引っ込めようとしたけれど、私はその手を引っ張って捕まえる。半ば無意識に、そうしてしまっていた。


「待たせちゃったらいけないと思って、急いだんだけどね」


 そんなことを言って、笑う。その笑顔の中には、かつてとは違う、小さな陰が垣間見えた。


 だけど、絵七は私に何も言わない。


「さっき、短冊、かけてきたんだ。願い事、たくさんありすぎて、困っちゃった」


 境内の方を指差して、そんな話を始める。


「そっか」

「何のお願いか、聞いてくれないの?」


 私がそっけない返事をすると、上目遣いにそんなことを言ってきた。


「だって、たくさんありすぎるんでしょ?」


 もし私が絵七だったなら、きっと願うことはひとつだ。一刻も早く戦争がなくなって、この辛すぎる生活が終わってほしい。多分それを一番に願うだろう。だから、そんなこと聞こうとも思えなかったのだ。


「一番したいことはね、決まってたんだ。でも、それはいけないことだから」


 私の内心なんて知らない絵七は、そう続けて言う。胸が締め付けられるようだった。


「でも、ごめんね。私、もう我慢できない」


 海のような色の絵七の瞳から、一筋、流れ落ちるものが見えた。その瞬間、私の心のほうも我慢の限界を迎えた。


「絵七、ごめん。なにもできなくて、ごめん」


 半ば無理矢理のような形で、私は絵七を抱きしめる。見た目に反して固い胸が、私の胸とぶつかる。


「紅葉のせいじゃないよ……私が自分で、決めたことなんだから」


 絵七は私の背中に腕をまわして、抱きしめ返してくる。


「ごめんね……紅葉のこと、守りたかったのに。私、もう駄目みたい」


 そう言ってくれる絵七に、私は何も言うことができなくて。だけどその代わりに、抱きしめる腕の力を強めた。


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