第3話 紙袋
トイレは1階と3階だから、その日は、もう下の階に降りるのはよそうと決めた。俺は自分の家なのに気を遣っているのが馬鹿々々しくなった。あの気味の悪い人形は、人形供養に持って行こう。できるだけすぐに。
翌日の朝、俺は2階のリビングにあった人形を1階に持って行き、紙袋に入れようとした。その瞬間、「聡史。私を捨てに行くの?」という言葉が耳に飛び込んできた。生前、老人ホームにい入っていた母に言われた言葉だ。俺はぎょっとした。それが、空耳なのか本当に聞こえたのかは確信がなかったが、思わず人形から手を離してしまった。人形が、紙袋の中にカサっと落ちた。人形をぞんざいに扱ったような、何とも言えない後味の悪さだった・・・。
***
俺はそのまま会社に行ったけど、家に帰るのが怖かった。人形が俺を待っている気がしてならなかった。人形は玄関のたたきに紙袋に入れて放置してあった。まだ、寺を探してはいなかったけど、もし遠かったらゴミに出そうかな・・・俺は迷い始めていた。俺は家に帰って、玄関に入るなり人形と目が合った。黒目勝ちのうるんだ瞳。
「ごめんね。寺に持って行くから許して」
俺は申し訳なくて、人形にそう言った。
「家がいい」と聞こえた気がした。
「うぁ!こわ・・・」
俺は怖がりだから、すぐにその場を離れて、浴室に向かった。気持ち悪いなぁ・・・、あの人形。俺はすっかり萎えてしまった。うちに来て半年くらい経ってるのに、どうして急に気持ち悪いと感じるようになったんだろう。シャワーの間、ずっと人形のことが気になって仕方がなかった。そもそも、どうしてあの人形がうちに来たんだっけ・・・。何でも捨てようとした兄を見て、人形をゴミに捨てるのは忍びなかったからだ。自分が買って贈った物だから、という思いもあった。
「シャワーじゃなくて風呂に入った方が体にいいよ」
水しぶきの中から聞こえた気がした。
「え?・・・何?」
俺はいよいよ幻聴が聞こえるようになったのかもしれない・・・。俺はその声が現実に聞こえていることを認めないわけにはいかなかった。
「でも、忙しいから・・・もう夜遅いし」俺は答えた。
「でも、お風呂に入ってる人の方が癌になりにくいんだって」
母が生前何度か俺に言っていた言葉だった。ずっと前にテレビで聞いたことをすっかり真に受けて、俺に押し付けようとしていた。電話でもそんな話をしていたっけ。俺が独身で世話を焼いてくれる人がいないから、余計に俺には口うるさかった。
「時間のある時はそうするよ」
俺は風呂から出たけど、母親に裸を見られている気がして情けなかった。脱衣場で部屋着を着て、ドライヤーで髪を乾かしている間も、ずっと後ろに誰かがいるような気がしていた。人形は玄関にあるのに・・・。その気配は家の中を歩き回っているようだった。母親なのか?だとしても、気持ちが悪い。
存命中から母親の存在が俺には重かった。いつも説教をするばかりで、褒めてもらったことなんかなかった。俺は1番じゃなくて、大体2番か3番だったから、母は「やっぱり1番じゃないとね。お兄ちゃんは何もしなくてもいつも1番だったのに・・・」と、俺に愚痴った。俺が学年一足が速くても「スポーツじゃ食べていけないしね」と言われるだけだった。
母に対する失望と憎しみが一気に沸き上がって来た。もう、あんな人とは縁を切ってしまおう。それで、家族から自由になりたい。俺は風呂に入ったばかりの足にサンダルを履いて、紙袋ごとゴミ捨て場に人形を持って行った。明日はゴミの日だから思い切って捨ててしまおう。
近所のゴミ捨て場には、マナーの悪い人たちが前の晩からゴミを出していた。その時もビニール袋が2つくらい置いてあった。俺はその隣に、紙袋をそっと置いて、走って逃げた。
「聡史!捨てないで!」
人形が叫んだ気がした。俺はすぐに家に駆け込んだ。頭の中に、暗いゴミ捨て場に置き去りにされた人形の姿が浮かんできた。俺を恨んでいるだろう。俺は腹の中に真っ暗な塊を飲み込んだように感じていた。申し訳なさと、安堵、開放感が俺の中に混在していた。
もう人形は家からなくなったんだ!俺はほっとした。それからは以前と同じように、TVを見ながら総菜を食べて、のんびり過ごした。リビングの棚を見たが、人形があった場所にはもう何も置いていない。もう、子どもっぽい人形を飾らなくて済む。これからは、女の子が好きそうなもっとおしゃれな部屋にして・・・週末は女の子を呼んで・・・。俺はどうでもいいことを考えていた。
その夜は、もう幻聴は聞こえなかった。あの人形がいなくなって、何もかもが元通りだった。俺はようやく一人になれた喜びからか、遅くまで起きて、動画サイトを次々と巡ってだらだらと過ごしていた。人形のことは完全に忘れていた。
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