6

 あの男が現れた時、僕は最悪な事態を想定し、せめて君の近くへと即座に向かうべきだった。

 初歩的なミスは取り返しのつかないミスとなった。

 焦点を絞るように目を細め、僕を見つめていた君だったが、次第に目を開けては閉じるを繰り返し始めた。

 眠気に似た感覚に襲われ、まさかそのまま君は……。

 その後、良からぬ想像は、現実のものとなった。

 もう一度目を開けるものと思い、見守っていたけれど、君はもう二度と目を開けることはなかったーー。

 僕の前から君がいなくなる。

 自分のあやまちを責めるよりも何よりも、その恐怖心に襲われ、気が狂いそうになった。

 遠くから救急車のサイレンが、むなしく鳴り響いていた。


 事件後。現場での事情聴取の際、近くで一部始終を目撃していた依様の友達によって、この件に関して次のことが明かされた。

 依様は犯人の財閥息子に『さようなら』と僕に言うよう強要されたらしいのだが、『大好き』と言うようには言われてなかったという。

 僕には、『大好き』の前の『さようなら』という悲しい言葉は、耳に届いていなかった。

 届いていたら、僕は躊躇ためらわず君のもとに駆け出していた。

 あの『大好き』の前に、確かに依様の口が動くのを確認していた。それだけに、聞き取れなかったことを猛烈に悔やんだ。

 最後に悲しい顔で『さようなら』と言ってしまっては、僕が依様を思い出す時、悲しい顔が真っ先に脳裏に浮かんでしまうかもしれない。

 だから犯人の要求した『さようなら』を小声で言い、時待たずして笑顔で『大好き』と言ったのではないだろうか。

 だがこの見解は間違いで、僕の命を守るための彼女のくわだてだったという事実を知るのは、まだ少し先のことーー。



 守れなかった別れ際の約束と、とどめるしかなかった彼女への想いが、僕を生き地獄へと突き落とした。

 僕が壊した幸せなのに、今日も変わらず君を想うことくらいは許してもらえるだろうか。

 どうしたら、また君に会えるのだろう。

 願いは尽きることなく、今夜も夜空を見上げる。

 一際輝く星が君だとしても、触れられる距離にいない君へのむなしさに押し潰される日々からは逃れられない。


 会いたい。依様、君に…ーー。



 ーーそれから幾年の時を超え、僕はまた、君を見つけた。


 僕は前世での宿命的な初恋をこじらせたまま、現世に転生した。

 実際のところは、自ら神様に懇願し、再会の舞台を与えてもらったのだった。

 再び君と出会うきっかけは、どんな風がいいのだろう。

 通りすがりの男は信頼的にもハードルが高いから、依の行きつけの花屋の店員?オシャレを気取ってカフェの店員?少しでも触れられるかもしれないティッシュ配りのスタッフ?

 結局はなんだってよかった。


 深い関係にならないのならーー。


 再び彼女が僕の視界に入る。

 その瞬間から、僕は君しか見えていない。

 再び君を見つけたその瞬間を、僕は忘れはしない。

 キラキラと光る特別な君を見つけた瞬間、現世での自分の生い立ちからこれまでの出来事が、今日という日に繋がるプロローグだったのだと都合良く悟った。

 君に再び出会い、間違いなく恋に落ちるであろう決定的瞬間から、僕の人生における物語の本編が始まる。

 そして今、この瞬間こそが、本編の始まりだと確信した。

 前世の記憶を失くした君は、僕の横を当たり前のようにすり抜け、友人のもとへと駆け寄る。

 君にはもう、僕の記憶なんてないらしい。

 おそらく君は、前世と変わらずクールな仮面をかぶり、心を許せると見定めた人物にだけ、素直な自分を見せているんだろうな。

 あの頃と同じく、かげりのない煌煌こうこうたる表情が、懐かしくて切なくなる。

 再び僕が君の視界に入り、どう向き合い、新しい関係を築けばいいのだろう。

 そんなことを考えあぐねても、君と僕との新しい関係を築く先には、たくさんの厳しい制限があるというのに…。

 こんなにも近くにいるのに、触れたくても触れられないのなら、僕は君とどう接点を持てばいいのだろう。

 君を見つめることができる距離に居られるだけでよかったはずなのに、どうしてこんなことを考えているのだろう。


 …どうして?


 そんなことはわかっているはずなのに、僕は今日も変わらず知らないふりをする。

 僕は君との前世での日々を、毎日のように思い返してしまう。

 そうしたところで、何か特別なことが起こるわけでもないのに。

 現状を受け入れて転生したはずが、内心受け入れられないでいる。

 制限に縛られず、君に触れられたなら。

 ずっと君の傍で、今度こそ直接君を守ることができるなら。

 こんなにも疑問符まみれの日々を過ごすことはなかっただろう。


 だけど、神様は前世で罪を犯した僕に無論、厳しい転生条件を与えた。

 僕は君との記憶をかてに、非情ではなく、当然たる厳しい条件をも躊躇とまどうことなく従い、この命が尽きるまで精進して生きるのみだと心に決めていた。

 それなのに僕は、欲にまみれ、再び君に近づきすぎてしまった。

 その結果、慌てて気を引き締めた僕は、再び君を傷つけてしまうことになるーー。

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