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 様子から見て、友達には何も知らされていないことはわかる。

 おそらく峯岸の御曹司が調べさせ、たまたま財閥下の会社に私の友達家族が勤務していた。それを利用して私と再び接触を図ったのだろう。

 近づく黒い悪魔は、相変わらず容姿のみ立派な金持ちの息子だった。

「会いたくなったからまた来たよ、僕の依ちゃん。その服装かわいいよ」

 私の前で立ち止まったと同時に、虫唾むしずが走るような甘いセリフを吐く。一度会った時と同じく声さえも不愉快で、すべてが生理的に受け付けない。

「依ちゃん、さっき私とぶつかった人ってこの人だよ。彼氏じゃないんだよね?」

「うん。ただのストーキング野郎だから、もう目を合わせないで」

 うちのボディーガードさんに”これはただ事ではない”と知らせる方法がわからない。

 だけど、少し険しくなった表情からして、やはり私に異性が近づいたことに警戒しているようだった。

 今日は会場が広いだけに、応援のボディーガードさんも数名待機してくれている。

 うちのボディーガードさんはどこかを見ては、何やら私とは違う目配せを始めた。何かのサインなのかもしれない。

 この直後、事態は想像以上に性急な展開をみせた。

「依ちゃんはさ、あそこにいる用心棒のことが好きなんだね。見てたらすぐわかったよ」

「そうよ。わかってるんなら私に近づかないほうがいいよ。あの人が飛んできて少々痛い思いをするかも」

 悪そうに口角を上げて笑う男に、これ以上関わりたくはなかった。

高飛車たかびしゃなお嬢様だなあ、あんた。じゃあさ、俺はどうするべきだと思う?」

「知らない」

 私よりも20㎝以上背が高い御曹司は、腰を曲げて私の目線に合わせ、こんな物騒なことを言った。

「あいつを殺すまでだよ」

 目の前にあった御曹司の顔は、再び私を見下ろしている。薄気味悪い笑みを浮かべて。

「脅しはやめて」

「あいつが生きるか死ぬかはあんた次第。ほら見て、あいつの周りにいかつい男たちが近づき始めた。あの男たちは俺が雇った殺し屋なんだぜ。あいつが少しでも動いたら、あの男たちはあいつを殺すけどいいの?」

 ここで気が動転してしまったことで、私は正常な判断ができなかった。

 あのいかつい男性陣は、この卑劣な男が雇った殺し屋なんかじゃなく、ボディーガードさんの応援に来てくれた同僚の人たちで味方だということに、この時気付くことができなかった。

 この判断ミスが命取りになってしまうことなど、この時の私にはわかるはずもなかった。

 ボディーガードさんを殺すと言われ、気が動転してしまったことが、そもそも取り返しがつかない重罪だった。

「だから脅しはーー」

「脅しじゃない!俺は本気だよ。依ちゃんの大事なあいつを殺すことなんて簡単なんだよ。自分の手を汚さずともね」

 うちのボディーガードさんは日々トレーニング漬けで、屈強なのだと信頼してはいる。

 だけどその前に、私の好きで好きでたまらない大切な人であるがゆえに、失いたくない気持ちが先走り、想像したくもない悪い結果が脳裏に浮かんでしまった。

「悪いことはしないで。私はどうしてもあの人がそばにいないと生きれない」

 悪の顔をした御曹司は、私をじっと見つめたまま大きなため息をつく。

「そっかぁ。わかったよ…。じゃあ、今から俺が言うことを実行するんだ。あの男に向かって笑顔で『さようなら』って言ってみな」

 言わなかったらどうなるんだろう。緊迫した状況に慣れない私は、とめどない震えに襲われた。

「依ちゃんはさ、自分の命とあいつの命、どっちが大事?」

 ボディーガードさんの方に視線を移し、私は迷わずに言った。

「あの人の命に決まってる」

「じゃああいつに言うんだ。別れの挨拶を」

 私はあなたを守りたい。ただそれだけを願った。

 たとえ会えなくなるとしても、大好きで大切なあなたには何がなんでも生きていてほしい。そう強く願った。


 私があなたを守る。絶対にーー。


 深呼吸をし、心を整える。

 大好きなあなたは少し遠くにいるから、私の言葉を把握できるかはわからないけれど、言わなくてはならない。

 とめどなく頬を伝う涙が目立つことのないよう、とびっきりの笑顔をあなたに向けて…


「さようなら…。大好き!」


 最後のくわだてを思いつき、実行してみせた。

『さようなら』は蚊のなく声でつぶやき、『大好き』は大声で叫んだ。

 要するに『さようなら』は聞き取れず、『大好き』を聞き取ってもらう作戦。

『大好き』という照れ臭い言葉と笑顔だけが強調され、愛の告白だと思って調子を狂わされる。

 それと同時に、ボディーガードさんは今を危険な状況ではないと瞬時に察知し、私のもとには来なくて済む。

 ここまでして、私はボディーガードさんをだます必要があった。

 その場所から私のもとに駆け寄るものなら、あなたの周りで目を光らせているいかつい男たちに、あなたは殺されてしまうのだからーー。


 計画通り、ボディーガードさんは硬直している。それで良し。

 女性に免疫のない彼の特徴を生かした企みは、大成功を遂げた。

 ゆったりと心地のいいオーケストラの演奏が始まり、人々は色めき立つ。

 私の背後に立つ御曹司が、フンッと冷たげに鼻で笑ったものだから、一気に緊張が走る。

「君が手に入らないのなら、生きてても仕方がない」

「え?」


「…君がね」


 その直後、何が起こったのか一瞬わからなかったが、背中に味わったことのないような激痛が走り、刺されたのだと把握した。

 こうなることは想像を超えて覚悟すらしていたことなのに、いざその時を迎えてみると、あらゆる衝撃に見舞われた。

 現実感はなく、夢の世界に舞い込んだような真っ白な世界におおわれている。

 微かに見えるあなたの姿を視界にとらえたまま、私はゆっくりと倒れ込んだ。それと同時に、周囲には悲鳴がとどろいた。

 殺人未遂犯である御曹司は、すぐさま姿をくらました。

 残念だけど、きっと彼はもうじき殺人犯になる。どうでもいい。警察に任せよう。

 気が付くと目の前にはボディーガードさんがいて、横たわる私の体を抱きかかえ、二人して血まみれ状態になった。

 ごめんなさい、重いよね。これが初めての触れ合いかあ…。

 私はこんな場違いな思考を巡らせてしまっていた…。

 そして、ボディーガードさんはもうすでに涙に暮れていた。

 彼の瞳に私が映っていたのも束の間、あふれんばかりの涙によって、私は消されていった。

「依様…!!しっかりしてください!!依様ーっ!!」

 ボディーガードさんが苦しそうに息をしているものだから…心配で心配で…残して死ねないじゃない。まったく、あなたは…。

「私のボディーガードさん…お願いだからそんなに泣かないでよ。目一杯深呼吸もしないと…」

 こんなにも言葉を発することに苦戦したことはなかった。言葉を声にのせて発することが当たり前だと思っていた。でも今はもう、当たり前ではないらしい。

 私にはもう時間がないと直感が働く。

「多分私はもう…」

「だめです、依様…!」

 強く抱きしめられ、ここはもう天国かと錯覚するほど幸福に満ちていた。

 だけど、このに及んでそれ以上を望む死す直前の私…。

 以前本で読んだことがある。”幸せホルモン”と呼ばれ、精神を安定させる働きがあるセロトニンの分泌が、今まさに凄まじいのかもしれない。ありがたい。

 瀕死状態ではあるが、精神が最後に頑張ってくれていて助かる。

 だけど体は…正直なところ、この状況が続くと心臓にも悪いらしい。

 抱きしめられたドキドキ感と息苦しさの狭間はざまで、呼吸が乱れ始めていた。それに気付いたボディーガードは心配そうに私の顔を覗き込む。

「すみません、依様…」

 体への強いしばが愛情の深さと比例しているのだと感じて、むしろ嬉しかったんだけどなあ。

 ボディーガードさんの呼吸が落ち着いた頃、人だかりにいようが関係ないと最後の力を振り絞り、叶えたい願望を打ち明けた。


「お願い。はなむけに…キスして。頬にじゃなくて……唇に」


 ちゃっかりキスする場所まで指定する死す直前の私…。

 キスする時はちゃんと目をつぶらないと…。そんなところに重きを置きつつ実行したであろうぎこちなくそっと触れただけのキスが、あなたらしくて…もう、気が狂いそう。

 もちろん、可愛すぎてだからね。

 周りから女性たちのすすり泣く声が、リズミカルに聞こえてくる。

 いや、泣きたいのはこっちなのよ…。初めての抱擁とキスが死ぬ直前ってさ、悲恋すぎて伝説級じゃない?

 茶化す気力もここまでらしい。

 麻酔にかかったように意識が朦朧もうろうとし始める中、宝物のような思い出たちが、やはり走馬灯のように駆け巡るものなんだなあと実感中。

 こんなことになってしまったのは私のせいで、あなたには心を痛めてほしくない。

 だけど、あなたはきっと自分を責めてしまう。私を守れなかったと…。

 ごめんなさい。あなたが私を守れなかったのではなく、私が自分自身を守らなかったの。

 これも私の重罪であって、最良の選択だったと自負しているのだからそれで良し。だって、あなたを守れたらそれで良かったのだからーー。


「また…キスしたい…」


 この期に及んでさらなる私の要求に、ボディガードさんは泣きながら首を左右に振った。


「…体に障ります」


 あなたらしくてハハッと笑ってしまった。


「じゃあ、また会った時に…キス、しようね…」


 どうしたらこれからあなたは心穏やかに過ごせるのだろう。

 もしも、来世で再び巡り合えたなら、あなたは私の運命の人です。

 私があなたに与えてしまった前世での心の傷を、私が来世で癒せる日が訪れることを強く願います。

 では、一旦あなたのもとを去ります。どうか元気でいてください。

 あなたの姿を瞳に焼きつけ、眠気に誘われるがままに、ゆっくりと意識を手放した。


 こうして私は、最期さいごの整理を終えたーー。

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