3

 僕は君のそばから離れなかった。


 君しか視界にれないこの世界を、永遠に独占したい。

 こうしてずっと君だけを見つめ、君だけしか触れたくない。

 我慢していた欲望が、今こうしてあふれ出す。


『みんなにこんなスッピンを見せるなんてありえない』

『そうですか?それも十分素敵ですよ』

『あなたは本当にいい人ね』


 決していい人ではない。君に言われてしまうと、僕は泣き崩れてしまいそうになる。

 僕は君を見つめながら、慣れないお化粧をほどこしている。

 スッピンを嫌う君のために、今僕にできることはこれくらいしかなかった。

 少し震える手で、いつも君が愛用しているお化粧道具を使う。

 ファンデーション。眉。口紅は薄いピンク色。そして、ようやく目元の番がきた。

 君は何も言わず、まぶたを閉じている。

 君に褒めてもらえるよう、アイシャドウは君が好きなベージュを使い、目元を色づける。

「もう目を開けてもいいですよ。僕を見てください」

 けれど、閉じられたまぶたの奥の綺麗な瞳に、もう僕は映らない。


 簡単なお化粧を終わらせたタイミングで、同僚で友人のA氏が部屋に入って来た。

 彼が隣にそっと座り、僕の肩にぽんっと手を乗せた。

「うん。綺麗だ」

「だろ。さっき声が聞こえてきたんだ。『スッピンなんてあり得ない』って憤慨ふんがいしてた」

「…そうなんだな。でも今は、彼女の満面の笑みが目に浮かぶよ」

「彩りのある旅立ちをさせてあげたい」

 先ほど僕は、確かに君と会話を交わした。

 けれど、それは幻だった。いや、正確には、以前の会話を思い出しただけだった。

 強烈なむなしさと自責の念が、波のごとく押し寄せる。

「もうすぐご家族がお見えになる。その前に部屋を出よう」


 彼女のご家族にお化粧をほどこすことのみ許された僕は、心の中で君に最後の挨拶をする。


『僕のあやまちが許されるなら、このまま一生あなたを好きでいさせてください』


 当然返事はない。眠る君を、今一度この目に焼き付ける。


 感情がとぼしいのかと思えば、とても意外なキュートさも見せる在りし日の君が、僕に語りかける。


『焦らない方がいいですよ。あなたは交際には向いてなさそうだから』

『守る対象に心を開かない気?それって失礼すぎない?』

『私のこと、意識し始めちゃったかな?』

『困ってる顔がね、小さくて可愛いワンちゃんみたいで大好きだよ』

『あなたがいてくれること、私にとっては奇跡のような幸運だよ』

『恋について雄弁ゆうべんにアドバイスされても、過去の恋愛経験が気になって困っちゃうでしょ』


 A氏に支えられ、僕は君がいる部屋をあとにする。



 私は、あなたのもとから不本意ながら去ってしまったーー。


 もう涙が出きってしまったような感覚で、まぶたが腫れ上がり、だいぶ重い。悲しみが酷すぎるって、生きている心地すら感じなくなるんだなあ。

 そんなことをつくづく感じていたのだが、あっ…と気付く。


 私、生きている心地も何も……もう、死んでるんだ。


「今度はいつあなたに会えるの?」

 ここにいもしない大切なあの人に、今一番知りたいことを問う。

 ほら、人は死ぬと新しく生まれ変わるって言うでしょ?


 ーー「当分無理だ」


「えっ、急に誰?」

 あたりを見渡しても姿がない。


 ーー「神だ。君は亡くなって49日を経て、最近この天国にやって来たのだよ」


 声だけが周囲にこだましていて、神秘的空間がここには存在していた。

 ここがあの有名な天国?殺風景に見えるけれど、移動すればにぎやかな場所もあるのかな…。

「あ〜あ、わかってはいたけど、気を失っただけ…ってオチじゃなかったか」


 ーー「確実に君は亡くなっている。それも最近ってことなら、当分は転生しない」


「だから、好きな人にはもう会えないかもしれないのか…。ショックすぎて寝込みそうです…」


 ーー「思う存分寝込むがいい。ところで、どういう経緯でここに来ることになったのか、君は覚えているのかい?」


「それは、まあ…」


 ーー「思い出すだけでもつらい作業だが、君の最期さいごを改めて整理することが、ここでの生活を始める第一歩としておる。過去の清算作業だ」


 天国とは、ふわふわした居心地のいい場所ってだけではないらしい。

 時間がある分、現実と向き合うことから始めようというコンセプトはいいとして…。

 思い出せば出すほど、あの人のことが恋しくなって、もう一度死んでしまいそうだ。


 ーー「それはあり得ない。死者が再び死すということは、死者の道理に反する以前に、とっくに死んで天国にいる者をどう死なすというのか…」


 どうやら神様には、私の心の声まで聞こえるらしい…。


「神様…今のは言葉のあやで、それだけ悲しみが深すぎるということなんです」


 ーー「理解できた。君の愛する彼との最後は、辛かっただろう。私にはすべてお見通しだ」


 ええ、それはもう…。


 私は神様にうながされるままに、私の最期さいごを整理し始めたーー。



 あの日。

 パーティー会場の庭園で、各々おのおの食事と団欒だんらんを楽しんでいた時だった。

 こちらに向かって歩み寄る会いたくない人物が、否応いやおうなく私の視界に入って来た。

 私は咄嗟とっさに友達に問う。

「失礼なことを聞くようだけど、あなたはごく普通の会社員宅のお嬢さんだったよね」

「え、うん。そうだけど」

「お父様の勤務してる会社名は?」

「峯岸重工業よ」

「そっか。財閥系企業だから安泰あんたいね。いい会社で勤務されててうらやましいな」

 間違いない。きっとこの庭園の持ち主は、峯岸財閥だ。

 今日誘ってくれた友達の父親はその峯岸財閥下の会社勤務であることから、峯岸財閥のあの気色の悪い御曹司の差し金に、私はまんまとはまってしまったのだ。

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