5

 いつの間にか、依様との一日の終了時間は変化していた。


『お願い。お酒飲もうよ!』


 この”悪魔の誘い”を断ること数十回。粘り勝ちの依様が功をそうしたと言うべきか、依様の晩酌ばんしゃくに付き合うこととなった。

 いたずらに迫るか、晩酌ばんしゃくの誘いをするかの2パターンで、依様は一日の終了時間を楽しんでいるのだと感じた。

 それは…心の中でのみ吐露すると、”僕もしかり”なのだった。

 依様への高揚こうようした気持ちを恋だといさぎよく認めた数日前のこと。その始まったばかりの淡い気持ちをただちに封印すると決断したにも関わらず、封印は容易に解かれ、再び高揚こうようしてしまった。


 豪華なリビングに移動し、晩酌の会はスタートする。

 依様とあまり歳の変わらない住み込みのお手伝いさんが、おつまみのお菓子やピーナッツ類をあらかじめ用意してくれていた。笑みを浮かべながら手際よくテーブルに並べ、おいとま時間となった。

 彼女が退室する寸前、何やら依様と目配せをし合っているように見え、僕は首を傾げる。もしや、二人はだったりするのだろうか…。

 依様はすこぶるお酒が強い。ウイスキーや日本酒が好きらしく、すぐにグラスを空け、僕におかわりを強請ねだる。

 晩酌ばんしゃくに付き合うと言っても、僕は決して飲むことはなかった。

「はい。私を一日中ずーっとずーっと守ってくれてる従順なボディーガードさんも一緒に飲もう!」

 早いタイミングで出来上がっていく依様を見るのは、とても滑稽こっけいだった。だが、そんな感情は改めるべきだと思った。

 きっと依様にとって酔っぱらうという行為は、脳裏から離れない鬱々うつうつたる出来事からの逃避を図る手段だと気付いたからだ。

 ひたすらにお酒を飲む手が止まらないらしく、お手洗いに行く頻度が増していく。

 デリカシー云々うんぬんを言っていては対象を死守できない。よって、ついて行こうとするのだが、当然のごとく阻止される。

「何かあったら大声で呼ぶからここで待ってて」

「必ず、ですよ」

「了解、約束する。あなたも一歩も部屋を出たらダメだからね?」

 背を向けた依様は、手をひらひらと振り、ドアを開けっ放しで出ていくのが常だった。

 依様が無事に帰還するまでの間、僕はそわそわしたまま、素早くテーブルの上のおつまみを皿に補充したり、テーブルを拭いたり、せわしなく動く。

 一通り終わると、大きく深呼吸を繰り返したり、1・2歩部屋から出て、およそ10メートル先の御手洗場周囲を警戒する。

 その約束破りはとても軽い罪なのかもしれない。

 なぜなら僕は別の日、この待ちの時間にある種、重い罪を犯してしまっていたからだ。


 その日は、コップに着いた口紅の色がいつもに増してくっきりと着いていて、普段のベージュ系ではなく、甘い印象の強いピンク系だった。

 3段階の疑問が脳裏に浮かぶ。


 些細ささいだとしても、目立つ行為は控えるべきだと伝えるべきだろうか。

 どうして今日は色を変えたのだろうか。

 大学でその変化を見せたい相手でもいたのだろうか。


 最初の疑問が、いつもの立場上から出てくる言葉だとわかってからは、そのあとの2つの疑問が頭を占領した。

 色を変えた率直な理由と、変化を見てほしい対象の有無を早急に知りたくて、もやもやとした得体の知れない悪の感情を生み、罪を犯してしまった。

 僕はそっと口紅のついたコップを持ち、思い切ってその跡と、俗に言う間接キスをしてしまった。

 即座に自分の犯した行為にハッとし、慌ててコップを置いたが、この時、さらなる追加罪ついかざいが加わった。

 再び依様が口紅跡と対峙たいじする形で、コップを置いてしまったのだ。

 うっかりしていた。そう置いてしまっては、依様が僕と間接キスをするはめになってしまうのに…。

 数日前、車内の窓ガラス越しに映った依様を盗み見てしまい、そのことが依様にバレた瞬間と同じぐらいの動揺か、それ以上の動揺を覚えた。

 好きな相手がいるのなら…。いや、そんな謙虚さはないはずだ。

 なぜなら僕は、初めてのモヤモヤとする変な気持ちに気付いてしまったのだから。

 おそらく無意識ではなく、そうなるようにコップを置いてしまったのだ。に。

 狂って抑制が効かない今の自分ならば、そうであってもおかしくはない。

 自分の咄嗟とっさの行動が理解できていないようで、そうではないところがすごく厄介だ。

 そう。自分は策士さくしなのだと気付いてしまっていたのだ。


『無心の境地。これぞすべて』ーー


 最近詩にしたためた悟りは、なんの意味も成さなかった。

「ただいまー。…ん?どうしたの?そんな驚いた顔をして」

 依様が部屋に戻ってきてしまった。いや、大いに喜ばしいことなのに、どうしたことだろうか。

 今自分が驚愕した顔だということに気付かず、息をするのが精一杯だった。そんな自分に幻滅した。

「あ、いや、無事でよかったです」

「うん。顔色悪くない?部屋に戻ってもいいよ。私はもう少しこのままーー」

「いえ。お付き合いします」

「飲まないくせに?」

「時間をともに、お付き合いしますという意味です」

「そう?じゃあよろしく」

 依様は心が穏やかな時、決まってある楽曲の鼻歌を歌う。その楽曲は。


 ーー『主よ、人の望みの喜びよ』


 バッハを好んで聴いているのかもしれない。

 今もそう。酔って気持ちよさそうに鼻歌を歌っている。

 ……そういえば。

 ふと僕は、夕方の落ち込んだ様子だった依様を思い出した。

 すると、タイミングよく依様がそのことについて話し始めた。

 これにより、僕の犯した出来事については、一旦忘れることにした。


「…今日ね、好きな友達に嫌なことを言われちゃった」


 ”好きな友達”ーー

 数少ない友達の中でも、きっと心を許した貴重な友達なのだろうと察しがついた。

「喧嘩をされたのですか?」

「うん。私が一方的に不機嫌になって、その場を立ち去ってしまったの」

 その後、その友達と廊下ですれ違う際、お互いに意地を張ってしまい、そっぽを向いたまますれ違ってしまったそうだ。

 おそらくそのことが、今日の下校時に様子がおかしかった原因となった出来事なのだろう。

 そして、喧嘩の理由を告げられた。

 僕には予想すらできなかったことで、驚愕してしまった。真相はこうだった。

 放課後、何度かお迎えに上がった僕を目撃していた依様の友達・恵衣美えいみさんが、『依のボディーガードさん、私の理想の彼氏像にピッタリ』と言ったことが発端らしい。

 だけど、その程度のことで仲違なかたがいをするとは…。そんなに怒ることではないと知らせるべきだろうか。

「嫉妬って、みにくいよね…」

「嫉妬が…ですか?」

 依様が正直に言葉で表した『嫉妬』という言葉。その言葉を聞いた瞬間、僕は理解に苦しんだ。それと同時に、くすぐったいという得体の知れない感情に見舞われた。

 僕にとって嫉妬心とはどんなものだろう。

 無縁だと思っている感情だが、答えはすぐに出てしまった。

 僕は仕事柄、洞察力や武道など、お守りする信念において100%の自信を身につけ、この仕事に就いていると自負している。

 ”自信”こそ、警護の真髄しんずいだと言っても過言ではないはずだ。

 よって僕が思う”嫉妬心”とは、自分に自信を持てない者が優れた者をねたみ、コンプレックスを抱く者が完璧人間をねたむこと。そいうふうに思っている節がある。

 すなわち、無縁であるべき感情なのだ。

 では依様は、一体何に自信を持てなかったのか。どんなコンプレックスがあったのか。

 いや、何かが違っている気がする。

 僕の嫉妬の固定概念と、依様が経験した嫉妬は別物なのかもしれない。

 そして僕はなぜ、唐突にくすぐったさを覚えたのか。

 おおよその見解はこうだ。

 依様の友達が僕のことを理想の彼氏像だと祭り上げ、そのことで依様が不機嫌になった。ということは、僕の存在ありきで友達への不機嫌が成立したということになる。

 率直に言うなら、その依様のくすぶった感情が、僕に対する特別感の表れだと感じたのだ。

 だから、特別感を得た”嬉しい”に似た感情が、”くすぐったさ”だったような気もするのだ。

 つい先ほどの、間接キス事件の直前にいだいた”モヤモヤとした得体の知れない悪の感情”こそが、”嫉妬心”であることに気付くまで、あともう少しーー。

 依様は急に眠気に襲われたのか、テーブルに顔を伏せ、再び『主よ、人の望みの喜びよ』の鼻歌を歌う。

 依様は今、決して心が穏やかではない。

 ”心穏やか”を装うために、あえて『主よ、人の望みの喜びよ』を歌っているのだ。僕にはそう思えた。

 なぜなら、髪で顔を覆い隠しているため表情は見えないのだけれど、声がかすれ、震えているからだ。

 悲しい鼻歌は、僕の心を締め付けた。

みにくくはありません。ただ、大切なご友人との縁が永遠であることを願います」

 伏せていた頭部をゆっくりと起こし、濡れた瞳で僕を見据みすえる。

「ありがとう。今度恵衣美に会った時、ごめんねって言ってみる」

 僕はお礼を言われることなど何もしてはいない。けれど、少しでも役に立てればそれでいい。

 僕の仕事は本来、依様の身を守ることのみ。それなのに、それ以外のことで役立ったことに、至福を感じている自分に気付く。

「ご健闘を祈ります」


 泣きっ面に蜂。悪いことは、どうしてこうも重なってしまうのか。

 翌日依様は、仲直りすることなく、大切な友達を失った。交通事故だった。

 そしてその事故は、現場の様子から崖から車ごと転落させた故意による事故だった。

 恵衣美さんの父親の会社が破産し、倒産。自宅から遺書が見つかり、将来を悲観した果ての一家心中だとみられている。

 依様はその事実を知り、泣き崩れ、とても見ていられないほど悲しみに暮れた。そして、恵衣美さんの心のり所どころか、一層悲しませる事態におちいらせてしまったと慨嘆がいたんした。

「あの時私が感情を隠せてたら…。恵衣美が心の奥にひそめていた悲しみに気付けていたら…。私は取り返しのつかないことをしてしまったの…」

 もしかすると、依様は一生後悔の念が消えることはないのかもしれない。そんな消極的な感情にさいなまれた。

 それは、依様の悲痛な心の叫びが、そばにいる僕にまで聞こえて来たような気がしたからだった。

 憔悴しょうすいしている依様は、僕に体を預ける。それを合図に、僕は依様の頭を遠慮がちにそっとでる。

 これ以降、何度もこのお決まりな行為を繰り返すことになる。

「恵衣美に会いたい」

「きっと彼女も同じ気持ちでいるはずです」

「じゃあ、また来世でも友達になってくれるかな」

 泣きつつも笑顔の依様につられ、僕も笑顔で伝えた。

「依様が笑顔でいれば、きっとそんな日は訪れますよ」

 正直、本当にそんな日が訪れるかはわからない。無責任であろうがそう断言することで、大切な人の心が救われるのならそれでいいと思った。

「あなたがいてくれること、私にとっては奇跡のような幸運だよ。あの財閥の息子に感謝しなきゃね」

「依様。それとこれとは別ですよ。引き続きあの者への警戒は厳重にしてまいります」

「だよね」

 僕に気を使って元気そうに話す依様だが、少しの間無理して笑顔でいたせいか、その後は終始伏し目がちで、心身ともに衰弱していった。

 お酒が入ると恵衣美さんへの懺悔ざんげの念を吐露とろし、ひっそりと泣く日もあった。

 それでも少しずつではあったが、元気を取り戻していった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る