第1話
「ちょっと飲みすぎたかな…」
大学3年生の冬、12月。
同じ学科の友人数名で飲みに行った帰り、あと30分ほどで日付も変わるという頃。
私は徹夜組と別れ、駅に向かい1人で歩いていた。
飲み放題だから、せっかくだし元を取らなきゃ。
そんな貧乏性と、久しぶりの飲み会に浮かれ、いつもより調子に乗ってお酒を入れた。
昨日も睡眠時間を削って課題に取り組み、土曜日の今日も朝から夕方までバイトをこなす。
その疲労が溜まった体内に流れるアルコールは、普段の何倍も早く、酔いを全身に回していった。
吐く息も白く、夜は一段と冷え込みも厳しくなっているというのに、
何度冷たい空気を胸に送り込んでも、全く酔いが醒める気配はない。
かといって、ふらふらで1人で歩けないわけでもなかった。
ほんの少し、頭が回らなくてぼんやりするくらい。
遅い時間に1人で歩いていても、怖い目にあった事もない。
だからいつも通り、終電の時間を気にしつつ、私はスマホを片手に歩く。
向かってくる人とぶつからないように、手元の画面と前を交互に見つつ歩みを進めた。
まだまだ夜の街を楽しもうと腕を組む恋人、スーツ姿のサラリーマン達……
明日も休みという土曜日の余裕からか、この時間でもそれなりの人通りがあった。
その中で、1人の若い男の人とすれ違った。
1秒…いや、それにも満たないほどだったかもしれないけれど目が合ったような気がした。
私はもともと、すれ違う人の顔などをよく見てしまう方だった。
だからたまに目が合ってしまう事はよくある出来事。今回もそれと同じ。
すぐに視線を手元に戻し、気にすることなく歩き続けていた、その時。
「ねぇ、そのコート、俺が着てるのとすごい似てる」
「……………え?」
思わず足を止め、かけられた声の方へ体を向ける。
勘違いなんかじゃなく、呼び止められたのは間違いなく私のようだ。
その証拠に、その声の持ち主と私の視線が交わっている。
あぁ、さっき、すれ違った、おにいさん。
私はそのままおにいさんの顔から彼が着ているコートへ、それから自分が着ているコートへ視線を移した。
「……ほんとだ、」
ブラックのロングコート。
細かなデザインこそ違えど、シルエットはほとんど同じものだった。
私とおにいさん、互いのコートの裾が、冬の風に吹かれてはためく。
身長は175cmくらいだろうか。
コートを着ていても、手足の長さや体格からスタイルの良さが垣間見える。
黒髪によって、白い肌が際立っていて。
この人の外見を悪く言う人なんていないと確信できるほど、整った顔立ちをしていた。
「コート、同じだ」
私は笑顔でそう返答していた。
笑顔を作ったのは自分なのに、内心は自分自身が一番戸惑っていた。
声をかけられる事は初めてではなかった。
だからどう対応すればいいか分からなかったわけじゃない。
黙ってその場から立ち去るのが正解だと、そんな事は分かっていた。
相当酔っているのだろうか。
ただ、おにいさんの外見に惹かれて浮かれているだけなのだろうか。
でも、こんなの、私がありえないと思ってる人達と同じ事をしてるじゃないの。
色々な思いが心の中をぐるぐる回る。
それなのに、心とは裏腹に口からは言葉が飛び出していく。
「そのコート、俺の真似したの?」
「違うよ、おにいさんが真似したの!」
くだらない言い合い。
寒空の下、白い息と共に私とおにいさんの笑い声が響く。
コート1つでここまで距離を詰めるなんて、この人、こういう事慣れてるんだろうな。
私を見て笑う瞳を見ながら、そんな事を考えた。
「寒いし、どこかお店入ろうか」
「あ…、」
終電が、もうすぐなの。
そもそも、私には恋人がいるの。大切で、大好きな恋人なの。だから…
思う事はたくさんあった。
このままペースに流されたらどうなってしまうかも、容易に想像できた。
それなのに、頭の中で答えを出す前に、おにいさんと並んで私の足は駅と反対方向へと歩みを進めていた。
・
・
・
「…おにいさん、女の子誘うの、慣れてるでしょ。」
深夜を過ぎても営業を続けるお店で、私達はグラスを傾けていた。
おにいさんも、嘘か本当かは分からないけれど、友人と一緒に飲んでいたらしい。
飲み足りない分、1人で飲もうか迷っていた所で、私に会ったと話してくれた。
「私知ってるよ、おにいさんは嘘しかついてない。ほんとは誰かを見つけようと思って、歩いてたんでしょ」
「そんな事ないよ」
「それも嘘」
もともと酔っている所に、追い打ちをかけるように私はお酒をあおって同じ言葉を繰り返す。
「こうやって声かけて、お酒飲んで、ホテルに連れ込もうとしてる」
「そう見える?」
「うん、そう見える」
「そっか」
おにいさんは否定も肯定もせず、綺麗な顔で微笑むだけ。
その余裕さに、よく分からない焦りのようなものを感じ、かき消すかのようにグラスに残った飲み物を一気に飲み干した。
大きく息を吐き、目の前に座っているおにいさんの顔を改めて見つめる。
芸能人といってもおかしくないくらい。
こんな人が、何てことなく街に存在しているなんて。
アルコールのせいなのか、おにいさんもまた私をじっと見ているからか、一気に頬が熱を帯びた。
「見つめ過ぎ。襲いたくなるよ」
テーブルに身を預けながら、ふとおにいさんがそう言った。
ついさっきまで柔らかい笑顔だったおにいさんとは一変し、妖しい雰囲気を一瞬で纏う。
目を逸らしたいのに、離せない。
「…もう飲めないでしょ、お店出よ」
おにいさんの提案に、私は黙ってうなずく事しか出来なかった。
終電なんて、とっくに終わっていた。
外に出ると、相変わらず冷たい風が体を包むけれど、頬の熱が冷める気配も、酔いが醒める気配も全くない。
ただ、そんな頭で考えてもこれからの展開は分かっていた。
私だって大人だ、子供じゃない。
それじゃあタクシーに乗って家に帰りましょう、さようなら、なんてわけがない。
「おにいさん、このままホテル行こうっていう魂胆なんでしょ、分かってるんだから…」
「…そうかもね」
また曖昧な返事。
でもそんな事を気にしてられない程、頭が回らずどこを歩いているのかも分からない。
少しふらつきながら歩く私の手を握る、おにいさんの横顔だけを見ていた。
歩きながら、私とおにいさんは言葉を交わす。
「名前は?」
「…あおい。王に白に石の漢字の碧。ちょっと男の子みたいな名前でしょ」
「ううん、宝石を表してる漢字でしょ。綺麗な名前だね」
「そう?…ありがとう」
何のためらいもなく喜ばせる事が言えるんだ、と思いながらも、
赤くなった頬を隠すように、私は首に巻いたマフラーに顔をうずめた。
「碧ちゃん、着いた」
「……うん」
その後も軽くおにいさんと話しているうちに到着したのは、思った通りの場所。
受付を済ませるおにいさんを私はじっと眺めていた。
今ならまだ間に合う、走ってここから出て、タクシーを捕まえて、そしたら、
……そこまで考える理性はまだ残っているのに、私はおにいさんの手を握りエレベーターに乗り込む。
腰におにいさんの手がするりと回った。
久しぶりに訪れたラブホテルの一室。
大きすぎるベットが、誘うように間接照明で浮かんでいる。
その光景に、私はごくりと唾を飲んだ。
「おにいさん、私……っ、」
"やっぱり帰る"。
伝えたかったその言葉は、口に出す事が出来なかった。
私の唇に、おにいさんの唇が重なっていたから。
私の体を抱き寄せた後、再び重なる唇。離れて、また重なって。
その隙に、おにいさんは私のコートを脱がせ、いつの間にか自分のコートも脱いでいた。
「…っ、やっぱり」
「何が?」
「初めから、これが目的だったんでしょ」
「………」
おにいさんは無言のまま、私を抱きしめた。
香水と、おにいさんの匂いに包まれる。
そしてそのまま、私達はベッド倒れ込んだ。
私を見下ろすおにいさんの表情は、柔らかいまま。
「…彼氏、……っ、」
何の意味もない、最後の抵抗だった。
私がそう言ったところで、おにいさんは答えをくれない。
このまま流されても、この一夜だけなら。
そう思った瞬間、おにいさんの事以外、何も考えられなくなった。
罪悪感も嫌悪感も迷いも、なくなってしまった。
再開されたキスを求めるかのように、おにいさんの背中に手を回す。
おにいさんの手がゆっくりと下におりて、服にかかった。
スカートの裾から、おにいさんの手が入り込み、太ももをするりと撫で上げる。
「……っ、ふ、ぁ…」
お酒が入っているせいか、それだけでびくりと体が跳ねる。
キスの合間に体を触れられ、いともたやすく服を脱がされ下着姿になってしまった。
「……綺麗な身体してるね」
「っ、そんなこと……、な、…っい、」
私の全身を、細くて長い指が舞う。
初めて会った人なのに、初めて体を重ねようとしている人なのに、何もかも分かっているかのごとくおにいさんは私に触れる。
まるで、付き合って日に経つ恋人のようだった。
直接的な強い刺激は何も与えられていないのに、私の呼吸はどんどん乱れていく。
荒い息を整える間もなく、おにいさんも上半身に纏っていたものを脱ぎ捨てる。
細身なのに引き締まった男らしい体が、薄暗い部屋の中視界いっぱいに広がり、全身が熱くなるのを感じた。
「……限界まで抱いてもいい?」
微かに首を縦に振ったその瞬間、私はおにいさんから与えられる快楽の底へと沈んだのだった。
おにいさん 紫月 @yopu1818
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