第1話
木曜日 13:58
俺は大学の薄暗い廊下に佇み臙脂色の350ml缶を一気飲みしていた。
背中のリュックサックから伝わる冷気に身震いする。
リュックサックには左手に持っているのと同じ缶があと16本入っている。一人暮らしのアパート近くにある激安自販機で購入してきたものだ。
湿布臭いゲップをして二酸化炭素を体外に追い出しつつ腕時計を確認するとちょうど14:00。
覚悟を決めて版画研究室の扉をノックする。
…何の反応もない。
恐る恐るドアノブを回して扉を開ける。
「こんにちは…学部3年の瀬尾です。猫田先生はいらっしゃいますか…」
室内に入ると心地よいコーヒーの香りと古い紙の香りが鼻腔をくすぐる。
版画研究室とは言っても木版画工房・銅版画工房・石版画工房・リトグラフ工房とは別に設けられた資料室とサロンを兼ねたような部屋なので薬品臭はしない。
壁に作り付けられた本棚と大判の紙を収納するための巨大な引き出し、いくつかの事務机、他に置き場所がなく仕方なくここに設置されているという少し変わった機構のプレス機、古びた応接セット、この学校ではどこの部屋にも設置してある無骨な流し台、コーヒーマシンと薄汚れた旧式の冷蔵庫。室内の様子は2ヶ月前に訪れた時と変わりない。
「おお!瀬尾くん!よく来たね。体調はどうです?まあまあ座って!」
もじゃもじゃの白髪頭に壜底眼鏡をかけた老人が薄型のノートパソコンから顔を上げ、陽気な声で対面のソファを勧めてきた。
版画科教授の猫田先生である。
他には人はいないようだ。
「失礼します…」
予想していなかった歓待に拍子抜けしつつも柔らかいソファに腰を沈める。
教授は立ち上がり、コーヒーマシンからマグカップにコーヒーを注ぐ。
「瀬尾くんはブラックでしたっけ?」
「あ、いえ、僕はこれがあるので」
俺はリュックサックから臙脂色の缶を取り出す。
教授は俺の手元を一瞥すると意味ありげな笑顔を浮かべ、
「まあまあ、今日のは良い豆なんですよ。飲んでみて。それはこれから必要になるかもしれない。取っておきなさい」
相変わらず意味のわからないことを言うじいさんである。以前からおかしな言動の目立つ人であった。
幸いさっき飲んでからさほど時間は経っていない。芳しい香りに惹かれるところもあったのでありがたくコーヒーをいただくことにした。
マグカップを受け取り口に含むと、特に美味しくもない、何の変哲もないただのコーヒーだった。ここ2ヶ月薬品臭のする炭酸飲料を浴びるように飲んでいたせいで味覚がおかしくなったのだろうか。
ちら、と教授に目を向けると、教授はわかっていますよ、とでもいうように頷いた。
「味は普通でしょう。でもこれは君の鞄に入っている飲み物と同じなんですよ」
マジでこの人の言うことはわからない。
「さて、落ち着いたところで本題に入りましょう。君の単位取得の話です。助手の田中さんから聞いたところによると、君はこの2ヶ月間、無断欠席を続けているね?」
「はい。急に酷い頭痛に悩まされるようになって…」
「うんうん。そこでね、私としては君に二つの選択肢をあげようと思うのです。
一つめは、今日持ってきてくれていると思うけれどこの2ヶ月君が制作した作品を見て、それを以って単位認定とする方法。
もう一つはここで単位は出さず、後期も休学して留年し、来年もう一度3年生をやるという方法。どちらがいいと思いますか?」
「…できれば、一つめでお願いできましたら…」
実家の手前、留年は避けたい。
俺はリュックサックとは別に持ってきていた手提げ鞄からA4ファイルを取り出し教授に差し出す。
教授はファイルの中身をパラパラと確認し、顔を上げた。
俺は教授と目を合わせることができず下を向いてしまう。
「うん。やはりね。
君、1年生と2年生のときもこうやって進級してきたでしょう。
夏と冬、決まって期末近くの2〜3ヶ月ほど謎の頭痛により無断欠席。
そして今回のような完成作品とは言えないようなドローイングを提出し辛うじて進級」
そうだよな。
俺だってわかってるよ。これじゃダメだって。
怖くて先生の顔が見られない。
この少々頭はおかしくても優しくて善良なおじいちゃん先生にとうとう見捨てられてしまう。
猫田先生は今までこのダメ人間の極みである俺に対しても他の学生と分け隔てなく接してくれた。
先生は今どんな表情でこちらを見ているのだろうか。
迷惑を掛けられて不愉快だという顔、失望したという顔、駄目人間を憐れむ顔、…色々な顔が想像の中を駆け巡る。
あ、なんか涙出てきた。
俺だってどうにかしたいと思う。
でもどうしようもないんだ。
大学に入学してから、6〜8月と11〜1月の期間、動けなくなるレベルの激痛が強さの波こそあれ絶え間なく襲ってくるようになった。
この世の終わりの如き痛みの合間を縫って医者に行っても「偏頭痛の一種でしょうね」と他人事のように診断され頭痛の程度と頻度を記録するシートと効きもしない頭痛薬を渡されるのみ。
頭痛薬は処方薬・市販薬・漢方薬・サプリメントに至るまであらゆる種類を試したし、整体、鍼、果ては特殊な繊維でできた座布団に座っているだけで頭痛が治まるといったような怪しげな民間療法(というか詐欺)にまで手を出したがなんの効果もなかった。
以上がはじめてこの地獄の頭痛を経験した大学1年の夏と冬に行ったことである。
ちなみに1年生の前期は出席管理の基準が緩かったのか担当教員がテキトーな性格だったためか、何の連絡もしなかったにも関わらず単位取得したことになっていた。
何が起こっているかもわからず解決策も見出せず絶望していた俺は、ある冬の日、偶然にも臙脂色の350ml缶に出会った。
その日俺は頭痛専門医院からの帰り道、新しく処方された痛み止めを一刻も早く試すために道端の自販機で水を買おうとし、突如強度を増した痛みのために手を滑らせこの怪しげな炭酸飲料のボタンを押してしまったのである。
薬を水以外で飲んではいけないことは重々承知、しかしこの極限状態で背に腹はかえられぬと、俺は個包装の1錠600円もする錠剤を不健康の極みのような液体で流し込んだ。
するとなんということでしょう、あの頑固な頭痛が一瞬で消え去ったのです。まるではじめから存在していなかったように。
すごい薬に巡り合ったぞ、お値段は少々痛いがこれで助かった、と小躍りしながら帰宅し、そして俺は再び絶望することになった。
その薬は二度と効果を発揮することはなかったのである。
ある種の直感により、俺は自販機まで走り、間違えないよう慎重にあの臙脂色の350ml缶を購入、その場で一気に飲み干した。
これが俺と臙脂色の350ml缶との出会いだ。
巷では液体杏仁豆腐だとか液体湿布だとか呼ばれ少々マニアックではあるが、普通に自販機でも買えるただの清涼飲料水。何故こんなもので頭痛が抑えられるのかわからないがとにかくこれを飲めば確実に数分〜数十分間頭痛を感じなくなるのである。
「正直ね、私個人としては大変もったいないと思うのです」
現実逃避の回想を遮って教授が言葉を続ける。
「この大学の中で君の完成作品を見たことのある人間はいない。
このドローイングね、面白いんですよ。
でもね、いくら可能性を感じるドローイングでもドローイングはドローイングなんです。
きちんとした作品ではない以上、私たちは君を正当に評価することができない。
今までこういったドローイングを見て単位をあげてきたのもね、大学側に進級率を上げたいという事情があったからに過ぎず、君を評価したからではありません」
俺は目を白黒させた。
え、面白い?面白いって言った?
でも評価してない。
そ、そりゃそうだよな。作品作ってないんだから。
ジェットコースターのように上下する俺の感情など知ったことではないとばかりに猫田先生は続ける。
「それにね、今ここでまた単位をあげたとしても後期も来年も同じことを繰り返す可能性が高いでしょう?
ですから私としては君に二つめの選択肢を選んで根本的な解決をしてから戻ってきてほしいと思っているのです。
どうです?瀬尾くん」
先生の言うことは確かに正しい。
でもそれは「根本的な解決」ができればの話だ。
「お、おっしゃる通りだと思います。
でも…僕にはたった半年で解決できる自信がないのですが…」
「それについては私に考えがあります。
この面談が終わったら騙されたと思って私が指示する場所に行ってみてください。
あ、それと。
休学手続きは私の方でしておきますから、この書類に必要事項を記入してください」
手渡された書類は休学届だった。
あまりの用意の良さに本当に騙されてるんじゃないかと思いながら学籍番号や住所、氏名を記入していく。
「休学理由は病気療養のためとすると診断書等が必要になって面倒ですから自主研究のため、とでもしておいてください。
印鑑は持ってきていないでしょうからサインのみで構いませんよ」
適宜先生の指示を聞きながら記入を終える。
書類を渡すと、先生はどこからともなくみかん箱くらいの大きさの木箱を取り出した。
酒屋で見たことがある、ワインボトルを輸送するための箱みたいにも見える。
「これは餞別です。
何かと役に立ちそうなものをまとめておきました。
あ、まだ開けないでね。開けるのは現地に着いてから。
これを持ってこの建物の10階へ向かってください。エレベーターは使わずに、必ず階段で。
10階の一番奥の部屋に坂梨くんという人がいます。
彼も君と同じなんだ。今後は彼と一緒に行動するように。
それじゃあね、来年度、また会えることを楽しみにしていますよ」
言うだけ言って猫田先生は俺に木箱を押し付け、休学届を持って部屋から出て行ってしまった。
「せ、先生!待ってください…」
急いで後を追うが既に廊下に先生の姿はない。
どうなってるんだ?
渡された木箱は何も入っていないみたいに軽い。
というか、この建物に10階なんてあっただろうか。
せいぜい8階建てくらいだったような気がする。
しかしずっとここにいても仕方がない。
長いこと無断欠席していただけに誰か来てしまったら気まずいし。
狐につままれたような気分だが、とりあえず先生の指示に従ってみることにするか。
すっかりぬるくなってしまったコーヒーを飲み干すと、マグカップをシンクで軽く洗い水切り棚に置く。
自分のリュックサックと手提げ鞄を持ち、木箱を抱えて部屋を後にした。
落ちこぼれ藝大生、異世界で本気出します! 玄太郎 @guentaroh
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