やあ、にや。

モリナガ チヨコ

おじいさんちの庭は

広くはないけれど

風が気持ちいい。


この夏は特に暑いらしい

ぼくはまだ3回目の夏だから

この暑さがどのぐらい暑いのか

わからないんだけど。


おじいさんが、今年はどういうわけか夏が早くやってきて、紫陽花が枯れてしまったよ。と悲しそうに半分カサカサになった花を鳥のくちばしみたいなハサミでパチンパチンと切って落としていたんだ。

もう90回も夏を過ごしたというおじいさんが、今年の夏は異常な暑さだ というぐらいだから、特別なことなんだろう。


ぼくは涼しいところをいくつか見つけているし、暑い日は長く寝そべって過ごすようにしているから、おじいさんが言うほどこの暑さに参ってはいないよ。


おじいさんちには去年の秋までおばあさんが住んでたんだ。優しそうなおばあさんで、おばあさんはいつも庭を綺麗にしていたんだけど、秋頃から姿が見えなくなった。

その頃から、なんだか朝に夕にお線香の匂いがするようになって。

春が来るとおばあさんの代わりにおじいさんが庭に出るようになったんだ。


ぼくは人間が嫌いなんだ。

生まれてすぐの頃に捕まって、ぼくは大事なタマタマを取られてしまったから。

怖くて悔しくて悲しい。ぼくはもう一生恋もできないし家族を作れないんだ。

そりゃあ恨むさ。人間という恐ろしい生き物を。


でもそんな人間の中にも良い人もいて。

ぼくはぼくの かわいい という魔法を使って、その良い人間からいろいろ分けてもらっている。この辺りでは、ぼくとあと2匹で、なんというか人間と距離を保ちながら共存しているんだ。

その中でもおじいさんは特別。

おじいさんはけっしてぼくを捕まえようとしたりはしないし、とてもゆっくりゆっくりと動くからぼくを捕まえたりできない。安心して近寄れる。

背が高くて痩せていて少し腰を曲げてゆっくり歩く。麦わら帽子、花の図鑑、虫眼鏡、ノート、ボールペン。庭の草木の手入れをしながらおじいさんは庭にある植物のリストを作っている。

その様子をぼくは日陰からじっと見ているんだ。

おじいさんはどうして自分の庭の研究を始めたんだろう。


「やあ、にや」おじいさんはぼくを見つけるとそう言う。そしていろいろ話しかけてくる。ゆっくりゆっくりと。

「おまえ、暑つくないのかい」「そうか、そこは涼しいんだね、日陰のコンクリートは冷たいんだろうか」「お前はよく寝るな。うらやましいよ。わたしは、寝ていられないんだ。すぐに目が覚めちゃうし、トイレは近いし、体が痛くて…」「おまえに話したところで、わからないか…ははは」「さて、お昼か…今日はここまでとするか」 わかるよ。ぼくはおじいさんの話しがわかるんだよ。応えているのに…おじいさんに伝わらないだけ「にゃぁん」

麦わら帽子で陰ったおじいさんの顔が一瞬夏の日差しのフラッシュを浴びて白くとばされた。ちょうどその上をセスナ機がゴーゥと爆音で通り過ぎた。

「まだセミが鳴かないのにこの暑さ…」おじいさんは1つため息をついて縁側から家に上がって行った。


おじいさんのお昼ご飯のいい匂いが漂ってきて、ついぼくはお勝手口からおじいさんの様子を見る。お粥と焼き鮭。ぼくはこの匂いが大好き。お勝手口の網戸に鼻の先をつけてクンクンと匂いのご馳走に酔いしれているとおじいさんが笑いながら鮭の皮をお箸でつまんだ。そして「行くぞ 、にや」と立ち上がってこちらに向かい網戸を開けて「ほれっ」とそのご馳走を投げてくれた。

ぼくは「にゃ!」とお礼を言って鮭の皮をくわえて縁側の下に潜り込む。


ぼくは幸せな気持ちで日陰でスヤスヤ。

おじいさんも涼しい部屋のソファーでウトウト。


ぼくはおじいさんの家が気に入っている。

できればずっとおじいさんと暮らしたい。

だけど、おじいさんのくれるごはんだけじゃお腹いっぱいにならないから、仕方なく、大きな公園の先の家までエサってのをもらいに行っている。ぼくの仲間はここの奥さんに気に入られ、ほぼこの家の猫になったらしい。

首に輪っかをつけられて犬みたいななまえで呼ばれている…。

彼はうまい。ゴロニャン、ゴロニャン 、と奥さんにすり寄ってあの家の中で暮らすようになったんだ。奥さんは他の人に「新しい家族」と彼を紹介するらしい。

彼に言わせれば「飯と寝床を確保した」なんだけど。「楽でいいぜ。お前もここの家の猫になっちゃえよ」とも言われたけど、ぼくはごめんだ。女の人はしつこく追いかけ回すから苦手なんだ。

そうだなぁ…ぼくがなるとしたらおじいさんの家の猫だなぁ…。

「にゃお にゃお にゃお」おじいさん起きて! ぼくおじいさんと一緒にソファーに寝転がりたいよ。おじいさん、ここを開けて「にゃお」

おじいさんはぐっすり眠ってぼくに気づかない。

仕方なくぼくはまた公園の向こうの家にエサをもらいに行くんだ。




おじいさんはどうやら耳が遠いらしい。

ぼくがおじいさんを呼んでも呼んでもすぐに返事がないんだもの。

向こうの家の奥さんは「あら、ハチちゃん、お腹すいたの?」と網戸の前でウロウロしただけで気づいてくれるのにな…。

雨がポツポツ、、、雨が、、、「にゃおー にゃおー、にゃおー」おじいさん雨だよー。

やっぱりおじいさんは気づかない。

仕方なくぼくはおじいさんちの玄関前に置かれた椅子の下に潜り込む。


太陽が西に傾き始めた頃にやっと扉が開いた。

「おや、、雨が降っていたんだな」とおじいさんは濡れた門を見ている。

ぼくが椅子の下から出て行くと「そこにいたのか。お前は賢いな」と、ぼくの八の字に黒く塗られたおでこを撫でた。この柄のおかげでぼくのことを「ハチ」と呼ぶ人は多いのだけど、ぼくは好きじゃない。おじいさん、おじいさんならぼくの名前をなんて付けてくれる?

おじいさんにもっと甘えたいのに、おじいさんは「よっこら、、あたた、、、」と庭に行ってしまった。

ぼくはまだ雨粒で濡れた草を踏みながらおじいさんを追いかけた。

おじいさんはまた庭の研究だ。

「ぁぁ、これは、白いハイビスカスじゃないんだなぁ…」誰に話す訳でもない独り言を言っている。ぼくが、にゃおと返事を返してみると「知っているかい? この花はむくげ というんだよ」とぼくの目を見た。「わたしはね…。家内が生きている頃は、この庭を当たり前にそこにあるものと思っていたよ。 愛しているつもりだったけど、何も知らなかった。 久子が大切にしているもの…本当に好きな物。何も見ていなかったんだよ」「久子の葬儀の時に、娘に言われてね。お父さん、お母さんの事何もわかってない、、って。 まさか誰よりも長くそばで暮らしていて、そんなはず無いだろう?」「でも、娘の言う通りだったよ。 明るい人だったから。久子を色とりどりの花で飾って送り出してあげたかった。 そしたら娘がお母さんといったら白い花でしょう っていうんだよ」

おじいさんちの庭の花は全部白い花なんだ。

おじいさんのノートにはずらずらとたくさんの花の名前が書いてある。

おじいさんは奥さんの植えて育てた花を調べて書き出しているんだ。

「久子が庭の事をしている時は気が付きもしなかったよ。家の庭に白い花以外植わってないだなんて。 娘が言うには、、ホワイトガーデンって言うんだって」

おじいさんは悲しい目をしていた。

おじいさんの窪んだ目の奥に緑色と白の影が揺れて透明な雨水がつーっと頬を伝って地面に落ちた。

おじいさんの雨。とても静かに流れる雨。

「むくげの花は朝に咲いて夕には落ちるんだってさ。それも気が付かなかったかった…こんなにそばにいるのにな」

「にゃぁ…」

おじいさんぼくだってこんなにそばにいるんだよ。



最近のおじいさんはコンコンと咳をする。

庭にいる時間も短くなった。

元気がないな…

窓の外からおじいさんを探していると外に車が止まって、バタン!!とドアが閉まる音の後に女の人が現れた。

「お父さん、クーラーつけてないの??」と大きな声で話す。怒ったように歩き回りおじいさんの部屋を片付けている。

「もー、お父さん、ちゃんとしてよ」

「ぁぁ、わるいな。後でやるから置いといてくれよ」

「クーラーもつけないでダラダラしてるからよ」

「うん、コンコン、コンコン」

「もう、そうやって都合が悪くなると咳をして誤魔化すんだから」


娘さんらしいこの人はおばあさんに似ている。話し方とか大きな声が。ぼくはやっぱり女の人は苦手だ。

だけど、いい匂い。

ぼくは美味しそうな匂いにつられて台所の網戸に近づいてしまう。

今日のお昼はごちそうだ!!

女の人がぼくに気づいて「あら、猫が来たわよお父さん」とおじいさんに言っている。

おじいさん、ぼくだよ 、「やあ、にや」って言って、いつものように。

ところが、おじいさん、なんだかそっけないんだ。「可愛い猫じゃない。おいで」って女人が戸を開けてくれたからぼくはおじいさんのそばに行きたくて台所の床に上がろうとしたんだよ。

その時におじいさんが「ダメだ、猫を家に上げたりしちゃ!」と見たことがない怖い顔でぼくを追い払ったんだ。

ぼくは怖くて悲しくて寂しくて逃げた。

走って走って公園の木陰まで走って止まった。辛いなぁ。ぼくおじいさんに嫌われちゃったんだ。ぼくはおじいさんがとても好きだったのに。急に何故だろう。






それっきり。

ぼくはおじいさんに会えなくなった。

気持ちが通じないまま。






「結局私、お父さんが何を考えていたのかわからなかった」

「自分は家族のために仕事一筋に真面目に働いて来たつもりだったんだろうと思う。私たちは、、お母さんが可哀想と思ってたからね。お父さんの気持ちは見えていなかったのかもしれないね」

「だって、お父さん、お母さんの事、何も知らないんだもん」

「あー、行かせてあげたかったよね。イギリス」

「ずっと言ってたもんね。お父さんが定年したら一緒にシシングハースト ・カースル・ガーデン見に行きたいってね」

「でも、あの定年の年にお父さん病気になっちゃったじゃない。お母さん、おばあちゃんに言われたらしいのよ。建康管理がどうのって」

「ああ、知ってる。お母さん、あれから減塩だとか油だとかすごく気を使ってたもんね。おばあちゃんの一言で責任感じちゃったのよ」

「そうよ。結局自分の方が先に逝っちゃって…」

「ね、お母さんは、お父さんに人生捧げたようなもんよ」

「でもさ、もしかしてお母さんそれで幸せだったんじゃない?」

「そうかもね、お母さんらしいかもね。自分のことはさておき、大事なのはお父さんっていう人だったからね」

「そうね…。でもさ、なんだか虚しいね。どんなに大切にしてきたものでも、、、」

「仕方ないでしょ。もう住む人がいないんだから」

「正孝兄さんが同居してくれれば良かったんだよね。お父さん、そう思って2世帯に増築したんだから。こんなに大きな家に結局1人で住むことになっちゃって。可哀想だったな」

「でも、、難しいわよ。あのお嫁さんだったら、もし一緒に住んでみたとしても

いずれなんかしらの問題はおきてたでしょうから」

「はぁ、、。年をとってからの一人暮らしには小さい家で充分ってこと、、今から自分の事も考えなきゃね」

「動物なんかも飼えなくなるのよね。うちのマルオももうけっこうな歳だし。マルがいなくなったら…次はもう飼えないな」

「マルチーズだっけ?」

「トイプードルよ」

「…、そう言えば、この家に可愛い猫がよりついていてね、私がそこの網戸を開けてあげたのよ。そしたらお父さん、猫を家に上げちゃダメだ!って追い払った事があったのよ」

「へぇ、お父さんらしくないね。好きだったでしょ、動物」

「そうなのよ。…だからね。こうなることわかってたんじゃないかなぁと思って」

「うん、そうだね。結局また野良になるんだもんね、猫。」

「お父さんも残される者の寂しさを考えてそうしたんだと思う」

「私達こそ、お父さんがあんなに弱っていたなんて気づかなかったもんね…。考えてみれば90歳なんていつ何があっても…という歳だったのよね」

「分からないのよ。なんでもね。その時は分からないんだと思う。後で、ああそうだったのかと思うことってよくあるじゃない? そんなに簡単じゃないって事と、意外と単純なこと、って繰り返しながら生きている気がするわ」

「そうね。その時の精一杯だったと思う事にするわ。いろんなことを」








ぼくはあれから時々、こっそりおじいさんの庭に行ってみている。

草がぼうぼうになって、お花が見えなくなった。

枯れ葉が枝から離れて落ちて木の足元に降り積もる。

もうすぐ色のない寒い季節がやってくる。

ぼくはおじいさんの温かい手を思い出す。

小さな明かりさえもつかなくて、何も音がしない家を見上げて。ひとつ鳴いてみる。

「にゃぁ」おじいさん、ぼくだよ。

おじいさん、ぼくを見つけて「やあ、にや」と言ってくれないかな。

      もうぼくを 忘れてしまったのかな。。。

冷たい北風がぼくを慰めるようにサワサワと撫でて通り過ぎた。

        〔おわり〕
























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やあ、にや。 モリナガ チヨコ @furari-b

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