15話 朝花の露②
「……うん、触診しても痛みはなし。頭痛の方はもう大丈夫そうね。それに——」
食事を終えると先生による軽い診察が行われた。自覚していた通り頭の痛みはすっかり無くなった。そしてなによりも……。
「花の色……ちょっと戻ってる?」
手鏡に映る自分の姿を何度も角度を変えて確認する。どこから何度見ても、昨日は茶色く変色していた
「でも、まだ花弁は萎んだままか……。正直花人の症状は植物の種類ごとに千差万別だから、彪香と似た症例はあるけどそれと同じ原因かどうかは分からない。今は過去の症例に在った精神状態の線で考えているけど、もし体調に変化があったりしたらすぐに連絡頂戴ね」
先生はそうまとめると「はい、じゃあ診察はおしまい。お大事にしてください」とおどけて私の頭をわしゃわしゃと撫でた。どうやらこの人には撫で癖のようなものがあるようで、事あるごとに私や結城くんを撫でようとしてくる。結城くんは恥ずかしいからと嫌がっていたが、私はこれがとても好きだった。
——あっ、結城くんといえば。
「あの、急だし、変なこと聞くかもしれないんですけど……結城くんはなんでそんなに頑張るんでしょう」
聴診器などを片付けている先生に、さっき浮かんだ純粋に疑問をぶつけてみる。本人に聞いた方が早いかとも思ったが、なんだかはぐらかされそうな気がしてまずは先生の意見を聞こうと思ったのだ。
先生は少し考えた後こう言った。
「あいつは、人の為に何かやってないとなんというか……ダメになっちゃうのよね。頑張ってないと、不安になっちゃう。きっかけは優しさと責任感かもしれないけど……一周回って今では義務とか、エゴになっちゃってるかもね」
「エゴ……」
一瞬、エゴという表現に引っかかりを覚えたが、先生の申し出を拒否して自分を押し通して心配をかけているところは確かにエゴイスト的な行動なのかもしれない。でも優しさなんて大なり小なり独りよがりではないだろうか。本人は善意のつもりでやったことが余計なお世話だったなんてことは世の中に沢山ある。エゴというとむしろそういった行動を思い浮かべる。それと結城くんの行動はまた別モノな気がした。
「そ、おまけに色んなことが噛み合っちゃって今の結城は周りとの交友がちょっと難しいから……
「なるほど……?」
「だからって、彪香は変に影響されずに間違っても『何かしないと』とか焦って無断で家のことしないよーに。アナタの今の仕事は?」
「うっ……大人しく休むことです」
「よろしい」
うむと頷く先生はまた私の頭を撫でた。今度は凄く優しい手つきで。
ふと、昨夜結城くん本人が言っていた『正直よく家庭崩壊しなかったなって感じ』というフレーズを思い出した。先生ですら分からないことが多いのだ。この家族にはまだ私には見えていないところが沢山ある。もちろんそれは結城くんのことも含めて。——あるいは家族とはそういうものなのかもしれないが、少なくとも私は少しずつでいいから知っていきたい。と素直にそう思った。
「あっ、昨日結城君が”共感覚”っていうのに悩んでるって言ってたの思い出したんですけど、それってどんなものなんですか? もしかしたら”色んなこと”に含まれるのかなって思ったんですが……」
結城くんが捲し立てるように喋っている中でサラっと出てきた言葉だが、あまり聞き馴染みがなくて違和感として頭に残っていた。昨日は自分のことで精一杯だったから聞く余裕が無かったが、今は結城くんの悩みをよく知りたい。
先生は「へー、そのこと話したんだ」と少し驚いたあと、医療従事者らしい明瞭な口調で答えてくれた。
「共感覚って一口に言っても種類は色々あるんだけどね。結城のは簡単に言うと『特定条件下で色が認識できなくなる』ってのが分かりやすい表現かしら。その感覚は本人にしか分からないけど、白黒テレビの映像みたいに見えるって言ってたわね。ちなみに特定の条件っていうのはストレス。家以外の場所、学校とかはほぼずっと作用してるみたい。不特定多数の他人がいる空間がまずダメって言ってたかな」
「なんというか、それは……」
結城くんの共感覚は、名前から受ける印象以上に深刻な症状だった。色のない世界なんて想像したことも無い。しかも私のように目に見えて人と違う特徴があるという訳でもない分、その苦痛が理解されにくいだろう。種類は違うが誰にも共感されることのない苦しみには身に覚えがある。
——私のこともそう見えているのかな。
それはなんだかとても寂しいことのように思えた。
「おっと、私もそろそろ行かないと……そうだ彪香、一つだけお願いしたいことがあるんだけどいい? アナタがこの家で過ごす上で療養することの次に重要なこと」
先生はそう言うと壁に掛けてあった白衣を取って袖を通した。白衣一つで一気にOLから医者に早変わりしたように感じるから不思議だ。
お願い——結城くんではないが頼られることは確かに『ここに居てもいい』と承認されている感じがして安心する。
「もちろん、私にできることなら」
「うん、いい返事。これはアナタにしかできない仕事よ。——この家の人とたくさんお喋りして欲しいんだ。私含めてね。できそう?」
「そんな……いえ、わかりました」
『そんなことでいいのか』と聞きたくなる気持ちをグッとこらえた。先生の表情も口調も至極真面目なものであったし、なによりもそのお願いは私のしたいこととも合致していた。
——私はこの人たちと本当の家族になりたい。
それこそ私がこの家に来た運命の最終目標地点だと思うから。そのはじめの一歩として彼らのことをもっとよく知りたかった。
「……結城くん、大丈夫かな」
学校へ向かう先生の車を見送り、玄関先から爛々と太陽が照りつく空を薄目で見ながら思わず声が漏れた。
私が知る前からの事と分かっていながら、聞いたからには共感覚のことも心配になってしまう。それになによりも、昨日のことがどんな噂を生んでいるか分からない。少しでも火種があれば嬉々として薪をくべようとする人たちがいるのは短い人生の経験則で嫌というほど学んでいる。私と関わりを持ったことで余計なトラブルに巻き込まれないといいのだけれど。
——早く帰ってこないかな。
聞きたいこと、話したい事が沢山ある。誰かの帰りをこんなに待ち遠しく思うのは生まれて初めてのことだ。
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