12話 落花情あれども流水意なし④
自分が
「笛吹さ、やっぱり勘違いじゃなくて本当に飛び降りをしようとして家を出たんじゃない?」
「ぇ………」
「そしてそれは、うちの——”幸せな家族”を壊しちゃうのが怖かったから……でしょ」
「………」
笛吹は押し黙っている。無言の間が少し続くと、下を向いて右手で自分の左腕を上下にさすり始めた。これから怒られると分かった子どものようだ。「何言ってんの」と笑われたり怒られたりすれば、それはそれで良かった。でもそういった言葉が飛んでくる気配はない。このまま無言のまま過ごしても仕方がない。返事がないのが返事と決めつけて話を進めることにする。
これからするのは俺たち二人の間に転がる重大な認識の祖語をなくす重要な作業。必要なのは論理と、勢いだ。
「笛吹は一つ大きな勘違いをしてる」
「え……?」
——笛吹は”幸せな家族”というものを夢に描き、憧れている。だが、憧れとは裏腹に現実では唯一の肉親は死に天涯孤独の身だ。そして彼女はそんな境遇を自分のせいだと思い込んでいる節がある。だからいざ”幸せな家族”に触れるとそこから自分を排除したくなる。——だから家を出た。そしてこの世からも去ろうとした。今にして思えば橋の上に居たときの彼女はもうすべてを捨てる覚悟を決めて達観していたのだ。
大きく息を吸う。期待している返事が来なかったらどうしよう、という不安を必死にかき消す。自分の選択一つ、発言一つが彼女の命に係わるかもしれないのだ。緊張で吐きそうだ。
弱気を打ち消すように、震える足膝を軽くたたいてブランコから立ち上がった。
「うちの家族さ、笛吹も遺影とかは見たかもしれないけど、父さんも爺ちゃんも婆ちゃんも五年前に事故で急死してもう居ないんだ。それがきっかけで母さんは一昨年まで鬱気味で精神科医に通ってたし、俺は生活費のためにバイト三昧だし共感覚っていう変なものに悩まされてる。おまけに学校でも浮いてる。サキ姉はそんな俺たちのために色々苦心して動いてくれてるけど、年々酒の量が増えてる。——自慢でも何でもないけど、我が家の実態は正直よく家庭崩壊しなかったなって感じだ!」
「え? 急になに、ていうかそんなこと、え……?」
喋る笛吹を制止する。普段誰にも語れなかった不幸自慢に多少興が乗っていらないことまで話した気がするが、本当に伝えたいことはこの先だ。
——笛吹は何かにつけて「私なんて」「私なんか」と口にした。それは花人という難しい立場にあり、差別と畏怖に晒されて、数多のトラブルに巻き込まれてきた彼女の自己肯定感の低さ、自信のなさ、そして肥大する加害妄想から自己を防衛する意思が露骨に表れた言葉だった。
ならば、まずはその防衛を突破する必要がある。
「つまり、蜂谷家は”不幸な家”なんだ。表面をどんなに繕っても、誰が見ても、”幸せな家族”とはかけ離れているんだよ。笛吹が夢見てた理想の家族でも何でもないんだ」
諭すようにそう言うと、さっきまで体を縮こまらせていた笛吹は勢いよくブランコから立ち上がり、こちらに詰め寄ってくる。不規則な動きで暴れるブランコから錆びた金属が擦れる音が鳴る。笛吹は顔を赤くし、歯を食いしばってこちらを睨みつけている。その目の端には今にもあふれ出してしまいそうな涙がたっぷりと溜まっていた。彼女は何か言葉を発しようとするが上手く声にならないのか、口を何度か開けたり閉めたりを繰り返している。今度は制止することはせず、ゆっくりと彼女の言葉を待つ。
「うそ……嘘だよ、だってあんなにっ! ぇ?……ほ、本人たちは気づかないだけだよ! だって、だって今日の私は、やっと私がずっとずっと思い描いてた”幸せな家族”の一員になれたと思ってたんだよ! やっと夢が叶って、今なら悔いなく死ねるって、お母さんに向こうで謝れるって……なのにそれが全部嘘だったなんて、そんなこと——」
「笛吹」
「嫌、もうなにも分かんない、聞きたくない!」
「いいから、聞いて。 笛吹の勘違いはそこなんだ! 本当に伝えたいのはここからなんだよ」
——俺は彼女から漏れ出ていたその卑屈な自負が気になっていた、否定したかった。方向性は違うがその自己防衛の意思には身に覚えがあったから。それは辛いものを見るのを拒否する俺の共感覚に似ている。
自分の世界に入ってすべてを拒絶せんとする笛吹の両肩を力強く掴み、無理矢理こちらが話す主導権を握る。本当はこんなに乱暴なやり方は心が痛いが、今初めて俺と笛吹が同じ景色を見ている。
突然のことに驚いたのか、怯えてしまったのかは分からないが笛吹は黙って俺の「本当に伝えたいこと」を待っている。
「確かに客観的に見たうちは不幸だよ、でも笛吹が見たうちは間違いなく”幸せな家族”なんだよ」
「—— どういうこと?」
「つまり、笛吹がうちに来てくれたから、我が家はその”幸せな家族”ってのになってたんだよ。うちの家を明るくしたのは、枯れ木に花を咲かせてくれたのは紛れもなく笛吹なんだよ! 少なくとも俺はそう思ってる。それにさ、同級生とこんなに沢山話したのも、仲良くなったのも初めてなんだよ。……だからさ、無理にとは言わないけど笛吹さえ良ければ、生きて、うちに帰ってきて欲しい」
正面から顔と顔を突き合わせて思いの丈をぶちまける。17年生きてきてこんなことをしたのは初めてかもしれない。今日初めて喋ったはずなのに、自分の中で笛吹彪香という存在は不思議なくらい大きく、愛おしくなってしまっていた。いや、色を失った視覚で見る教室の中で目の前に座る彼女の花だけが美しく色づいて見えていた。きっと俺は一目見た時から彼女に——。
当の笛吹は目の端に溜めていた涙をぼろぼろと地面にこぼしていた。その涙に込められた感情が何なのか、それは俺には分からなかった。彼女の泣き顔はまだ一度しか見たことがないから当たり前だ。
しばらく、笛吹は何かを話そうとして嗚咽で中断されるのを繰り返していた。俺は肩に置いていた手をどけて黙って彼女の応えを待つ。
やがて嗚咽の頻度は下がり、涙も零れるほどではなくなった。笛吹は真っ赤に充血した目で俺を見据え、いかにも辛そうに語りだした。
「でも、でも私は周りの人を不幸にする。私が結城くんたちの所に居続けたらきっとそれを壊しちゃうの。それが一番辛い。愛し合ってたはずのお父さんとお母さんが別れたのも、お母さんがノイローゼになっちゃったのも、死んじゃったのだって!……もう私のせいで誰かが不幸になるのは見たくない! だから、今日貰った幸せな記憶を最後の思い出にしてこの世から綺麗さっぱり消えるんだって思ってたのに——!」
彼女はおもむろに右手を振り上げると俺の左頬を目掛けて振りかぶった。説得するためとはいえ、その過程で彼女を傷つけたのは確かだ。これくらいされるのも当然だ。目の端に笛吹の白い腕を捉えて反射的に目をつむる。
しかし実際に頬に伝わったのは痛みではなく彼女の手のぬくもりと柔らかさだけだった。目を開くと、笛吹はただ柔らかく微笑んでいた。
「これで私が死んだらきっと結城くんは悲しんでくれちゃうよね」
「まぁ、うん……そう、かも」
笛吹はいたずらっぽい笑顔を浮かべる。なぜかそれを見ると胸が苦しくなって直視することが出来なかった。さっきまで胸の中を渦巻いていたものに似た複雑な何かがまた体を、頭を埋め尽くしていく感覚がする。これを言語化することが出来る日は凄く遠い、そんな感じがする。
「なんでこのタイミングで照れるかな? プロポーズじみたセリフはすんなり言えるくせに」
「プロポッ!? え、うそ俺いつそんなの言った……!?」
「……知らなーい。ほら、いいからもう帰ろ? なんか泣いたら眠くなってきたかも」
すたすたと来た道を戻っていく笛吹を追いかけるように公園を出た。マイペースというかなんというか……。不思議と帰り道は今までのどんな時よりも心が軽く、晴れやかだった。
ふと。『あの子を救うことはあなた自身を救うことになる』というサキ姉の言葉を思い出した。大人たちにはこうなることが分かっていたのかもしれない。
しばらく互いに何も喋らず、例の小川の橋に差し掛かったところでずっと少し前を歩いていた笛吹が足を止めて振り返った。反射的にこちらも足を止める。彼女は後ろ手を組んでもじもじしながら言う。
「私さ、実はまだ全然不安で、今も『ほんとにこのまま帰っていいのかな?』って凄い思ってる。多分これからも今日みたいになっちゃう日があると思うんだ。正当化するみたいでなんかよくない言い方だけど……私は私のままだから」
「……うん」
「だからその時は、また散歩に付き合ってよ」
「それくらいなら、いくらでも」
俺の返事を聞いた笛吹は満足げに頷くと軽やかに踵を返し、また少し先を歩きだした。
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