9話 落花情あれども流水意なし①

「足音……まさか」

 

 部屋のすぐ外、廊下を歩く足音が聞こえた。慎重に歩いているようだが、静寂の中で終わらない物思いに沈み込んでいた意識を呼び覚ますには十分な物音だった。

 部屋の時計は深夜一時を指し示している。もう三時間も考え込んでいたのか。足音は部屋の前を通り過ぎ階段の方へ向かっている。トイレは反対側だし、足音の主は下の階に降りようとしている。

 夜中に足音一つ、いつもなら全く気にしない程度の出来事。だが、ゆっくりと階段を下りていくこの人物が笛吹うすいだという予感があった。反射的にベッドから体を起こし床に両足をつける。

 笛吹はこの家を出ていこうとしている。それはなんの根拠もない直感だが、自分の中では不可思議な確信に変わっていった。

 ふと、保健室で母親の名前を呼んで泣いていた笛吹が脳裏を過った。もしかしたら、笛吹は母親を追う暗い決断をしたのかもしれない。そんな不安が頭に浮かぶとその妄想はどんどん肥大化していった。

 もう足音は遠く、この部屋の中からは聞こえなくなっている。数舜の葛藤の末に部屋を出る決意を固めた。

 

—————

———


 身支度を簡単に済ませて玄関を出ると笛吹の姿は既に見えなくなっていた。我が家は、大通りから二本ほど離れた閑静な住宅密集地の一角にある。家の敷地を出たら道の選択肢は左右の二つしかない。入り込むような路地もあまりないし、初めてこの辺りを歩く笛吹がそんな道をわざわざ選ぶのは考えにくい。見失うことは無いだろう。その期待通り、家を出て右に曲がった先に街灯に照らされた笛吹の姿を発見した。

 笛吹は快活な足取り……とは言えないが、迷いのない歩調でぐんぐん進んでいく。スマホで地図でも見ているのか、街灯がない場所では液晶の光が小さく見える。その背中を呼び止めようとしたが、何を言えばいいのか分からず躊躇ってしまう。結局、なんとなく後ろめたさを感じながら笛吹の後を付いて歩いた。

 ——これじゃあただのストーカーだ。やっぱりちゃんと声をかけよう。何を話すかはその場で考えればいい。

 そう、意を決して声をかけようとしたとき、ちょうど小さな橋の上で笛吹が立ち止まった。こちらに気づいたのかと一瞬身を強張らせたが、笛吹はこちらを向くのではなく、橋の欄干に手をつき下に流れる川を覗き込んだ。その川の幅は狭いが、橋と地面の間の高さはそれなりにあったはずだ。飛び降りれば当たり所次第では死んでしまうくらいには——。『最悪の結末』というサキ姉の言葉が脳裏を過り、血の気が引いていくのを感じる。考えるよりも早く足が動き、喉から声が飛び出していた。

 

「は、早まっちゃダメだ!」

「——えっ」

「……ん?」


 絶叫に近い声に驚いた笛吹はビクッと体を跳ねさせるとこちらを振り向いた。その表情は困惑一色で、駆け寄って近くで見れば別に世を憂えた様子でも絶望したものでもない。勘違い、どうやら早まったのは自分の方だったようだと気が付いた。久しぶりの全力疾走の影響もあるが、何よりも恥ずかしさで顔が熱い。たぶん耳まで赤くなっているのが自分でも分かる。

 羞恥と安心感に全身力が抜けて、大きなため息とともに欄干に寄りかかる形で大きく項垂れた。


「ご、ごめん。とんでもない勘違いを……あー、めっちゃハズいわ」

「ぷふっ……あーあ、機を逃しちゃった」

「え、まさかほんとに!?」

「なーんて。嘘だよ、うそうそ……」


 笛吹はそう言うとこちらに顔を向けるように頬杖をついた。てっきり揶揄うような表情をしていると思っていたが、笛吹は柔らかい朗らかな笑顔で戸惑う俺を見つめていた。何を考えているのか分からないが、なんとなく極まりが悪くて下に流れる小川を見るふりをすることにした。横で笛吹も同じように体勢を変えたのを感じる。水音が火照った体に清涼感を与えてくれる。肩で息をしていたのも収まった。まるでそれを待っていたように笛吹が話し出した。


「ねぇ、私が死んじゃうかも~って思って追いかけてきたの?」

「いやそこまで考えてなかったけど……笛吹さんが急に出ていくから」

「心配した? ごめんね、落ち着かないから散歩しようかと思ったんだけど……」

「心配……かな。うん、そうだな心配した」

「——あ、敬語取れたね」

「あー、焦ったときの勢いで。ごめんなさい」

「ため口でいいよ、同級生なんだし。呼び方も、さん要らない。あ、下の名前でもいいよ」

「じゃあ笛吹で」

「えー……まぁいいけど」


 小川が軽やかに流れる音を聞きながら、互いに橋の下の暗闇に視線を落として短い言葉を交わした。夕食のときから思っていたが、笛吹は意外とフランクだ。これまでは勝手に無口な奴だと決めつけていた。しかしそれは単純に彼女と話す相手が居ないかったからだ。クラスの事情に疎い俺でも彼女がクラスメイト達から過度に避けられていることは知っている。

 ふと横を見ると月明りに照らされて萎んだ酔芙蓉が目に入った。萎んでもなおそれは強烈な存在感を放ち、一種の退廃的な美しさすら感じる。

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