8話 蕾を散らす②


「あら、叔母さま寝ちゃったわ」

 

 食事を終え、笛吹を風呂に入れるにあたっての諸々を準備したあと、母さんは居間のソファで寝こけてしまった。

 テーブルには自分とサキ姉が真正面に対面する形で座っている。今しかない、いつ言おうかと喉まで出かかっていた言葉を吐き出すのは。

 

「で、どういう意図?」


 サキ姉に尋ねると、サキ姉は「そうね」と相槌を打つ。来ると分かっていた、という感じだ。手に持ったグラスの水をぐいと飲み干すと、サキ姉は一層真剣な表情になった。顔の赤らみはもう引いていている。この人は酔うのも覚めるのも早い。さっきまでの酔いっぷりが嘘のように、いつもの養護教諭の顔になっていた。

 

「昨日、偶然見ちゃったのよね」


 サキ姉は怪談でも話すように懇々と語り出した。思わず口の中に溜まった唾を飲み込む。嫌な粘り気だけが口の中に残った。


「……なにを」

「火葬場の前で一人佇む彪香ひょうかを。骨壷抱えてね」

「えっ」

「保健室で聞いたらほんとに急に亡くなって週末中大忙しだったって。それで倒れちゃったみたいね」


 母親の急死。それだけでも彼女の身に起きた不幸に同情をしてしまう。しかも、そんな状況でさえ周りに人が居ない彼女の身の上も……。とすると、さっき親の話題を振ってしまったのは拙かった。思い返すと笛吹は”親”という単語を聞いたとき少し身を強張らせていたような気がする。

 しかしなんと言ったらいいのか、言葉が全くまとまらない。そんな俺の心を知ってか知らずか、サキ姉が続ける。そのハッキリとした語り口からは覚悟のようなものを感じる。


「あんたが彪香を連れてきたとき、運命だと思った。今でもそう思ってる。私は彪香を助けたいと思ってたけど、ただの養護教諭に過ぎない私だけじゃ彪香に会話の場を作ることも出来なかったし、もしかしたら近いうちに最悪の結末になってたかも……実際保健室でお母さんが亡くなったことを話してくれたときのあの子は相当キてた。だから、結果論だけど機会をくれた結城には感謝してる」


 いつも飄々としている従姉から真剣に感謝を伝えられるのは非常にこそばゆかった。そして同時に、最悪の結末という言葉に背筋が寒くなる。

 しかし笛吹を助けたのは席が前後だったからで、反射的なもので、偶然だ。そう言おうとしたが「運命」という言葉を使う相手に言えば、その偶然も運命の一部にされるだけだと思い至って止めた。それよりも聞くことはまだある。


「それは、分かったけど……サキ姉の家じゃダメなわけ? なにもうちじゃなくても」

「うちじゃ狭い。彼女の状況的にも年頃を考えてもプライバシーの守られる環境が必要よ。この家は部屋が沢山余ってるし、私も出入りしやすいわ。それに、ここには私が信用してる人しかいないから」


 サキ姉はこちらと、それからソファの方へ目くばせしながら、問い掛けに淀みなく答える。養護教諭——もしくは花人研究者——としての意見、客観的事実に程よく主観を混ぜ合わせた返答。反論がしにくく、内容も納得がいく。信用されることも素直に嬉しい。しかし、まだ心のモヤモヤは晴れない、飲み込み切れない。それを自分でも言語化できないことがもどかしくて仕方がなかった。

 俺の表情から不安を察したのだろう。サキ姉は椅子から立ち、こちら側にきて、俺の頭を後ろから抱き寄せ、髪を撫でる。甘い香りが鼻腔をくすぐり、心臓の音が頭蓋に伝わって聞こえる。サキ姉の心臓は速く、大きく脈動していた。


「——髪と共感覚だけじゃなくて、性格までおじいちゃんに似てきちゃって……。結城の合意を取る前に決めたのは悪かった。ごめんね。でも、あなたの意志を蔑ろにしたわけじゃない。さっきはああいったけど結城は無理に協力してもしなくてもいい。彪香の移転先も他にも当てがない


 サキ姉は俺の頭を離し、今度は俺の横にしゃがみこむ。そして、サキ姉は俺の顎に手を当て、自分の方に振り向かせた。なんだか久しぶりにしっかりと顔を見た気がする。——サキ姉ってこんなに大人だったっけ。そんな関係のない考えが浮かんだ。


「あの子を救うことはあなた自身を救うことになる。私はそう考えてる」

「……傷をなめ合えって?」


 笛吹を助けると俺も助かる——そんなこと、ピンとこない。『傷の舐めあい』という言葉しか思いつかなかった。サキ姉がそんな底の浅いことを言うとは思えなかったが、つい口答えのように言ってしまった。すると唐突にソファの方から声が飛んできた。


「似たもの同士だから、でしょ?」

「……母さん、いつから聞いてたの」

「ず~っと」


 ソファの背もたれからニョキっと顔を出す母さんは悪戯が成功した子どもみたいだった。


「お母さんは賛成よ。うん、大賛成。彪香ちゃんのことは二人ほど知らないけど凄くいい子だってことは分かるし、放っておけないのもわかる。とっても可愛いし。それに、可愛い姪っ子が頑張りたいことも手助けしたいね。結城も、心の底では彪香ちゃんの力になりたいと思ってるんじゃない? 私が言うのは情けないかもしれないけど、あんなに表情豊かな結城久しぶりに見た」

「——俺は……ごめん、まだ纏まらない。それに笛吹の意志もちゃんと聞きたい。サキ姉経由じゃなく、本人の言葉で」

「それも、そうね……明日、また皆で集まって話し合いましょうか」


 サキ姉が話をまとめると、ちょうど風呂場で湯舟から上がる音が聞こえた。それを聞いた母さんが思い出したように「そうだ、彪香ちゃんの寝室準備しなきゃ!」と二階へ駆け上がっていった。サキ姉はリビングで笛吹を待つために残るようだった。

 俺はサキ姉に何か言おうとしたが、出すべき言葉が見つからなかった。結局、母さんの後に続いて階段を上り、収納から布団を出すのを手伝ったあと、自分の部屋で悶々とする感情を処理しようと試みたが結局その複雑さを悪化させるだけだった。

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