6話 酔芙蓉の花が咲く
独り、高校からの帰り道、予定外の居眠りのせいですっかり夜虫が鳴く時間だ。いつもなら解放感で多少なりとも浮つく足取りもさすがに今日は重い。
「大丈夫かな……色々と」
さっきから頭の中には
サキ姉に叩き起こされたときには笛吹はもう居なかった。俺が寝ている間に笛吹の簡易診察と応急手当は済み、先に保健室を出たことを聞いた。容体は『しばらく安静に療養する必要はあるけど一先ず緊急性はない。でもこれからも経過観察は必要』とのことだった。一先ずホッと息を吐いたが、続く発言を聞いてその安堵はどこかへ吹き飛んでしまった。
『とは言っても援助があるに越したことは無い。いつまた倒れるか、もしかしたらもっと悪くなるかもわからない。——花人医療はまだ分からないことが多いんだ。結城はこれからも笛吹を
なんで俺が、という言葉は外に出せなかった。昔から無茶は言うが意味のないことはしない人だ。笛吹に関しても、考えがあって俺に何かさせようとしているのだろう。
——とはいえ、しばらく安静なら学校も来ないだろうし、今日のことも有耶無耶にして何とか逃げよう。今日は成り行きで、というか反射で助けた形になったけど、面倒事も目立つのもごめんだ。
平穏に、穏便に日々をやり過ごせればそれでいい。確かに笛吹を特別視しているが、とは言え他人、しかも花人という良くも悪くも目立つ存在と過度に関わるのは……難しい。
ふと、保健室で見た笛吹の涙が脳裏に過り、心の底をチクリと刺した。
とかく考えていると、いつの間にか見慣れた玄関扉が目の前にあった。ズボンのポケットから鍵を取り出すと、家の中が珍しく騒がしいことに気づいた。テレビではない。こもった音ではあるが、女性がおしゃべりをする声だということは分かった。
——母さんの仕事仲間とかか……? 今日は店ごと休みだからあり得るな。
前に母の同僚に捕まって意識を半分飛ばしながら二時間強可愛がられたことを思い出すと今すぐ逃げ出したくなる。だが、もう鍵を開けてしまった。鍵を回す音が中にも聞こえたのか、家の中から玄関の方へ近づいてくる足音がする。今から逃げるのは無理があるだろう。諦めて扉に手をかけようとしたがそれは空振りに終わった。
「お~う、おかえり結城」
「なんでいるの」
「んー?」
中から扉を開けたのは仕事着を着崩し——なぜか白衣は羽織ったまま、片手に缶ビールを持ったサキ姉だった。反射的に口から飛び出した疑問はビールを口に当てながら適当な頷きで流された。
「言ってなかったっけ」
「聞いてないよ」
従姉だし、定期的に家に来るが、事前に何も言わずにというのは初めてのことだ。別に悪くはないけれど、なにかあったのだろうかと邪推してしまう。そして思い当たるのはついさっきのこと、つまり笛吹のことくらいだ。学校では出来ないような内密の話でもあるのか。
——考えても仕方ないか。とにかく疲れた。お腹もすいた。
玄関に入り、何故か酒を煽るサキ姉に見つめられながら靴を脱いでいると、リビングから母の話し声が聞こえてきた。テレビに話しかけるタイプの母親ではあるがテレビの音は聞こえない。
「まだ誰かいるの?」
「ん? あー、あんたもよく知ってる人よ。だいじょーぶだいじょーぶ」
そう言うとサキ姉は空いた手で軽く頭を撫でてきた。酔っている。
さすがにもう高校生にもなると安心感などよりは恥ずかしさが勝る。軽く頭を動かして手を避けるとサキ姉は少し寂しそうに笑った。
「——ま、入んな入んな」
「客そっちだよな」
そう明るく言ってリビングの扉を開けるサキ姉の後に続いていく。するとさっきまでは聞こえてこなかった母親の話し相手の声が聞こえてきた。
それは聞き覚えのある声だった。だが、それはこの場で聞くことになるとは想像だにしていなかったものでもあった。体に緊張が走る。
——いや、聞き間違いかもしれない。とにかく自分の目で確かめてみないことには……。
「
「い、いえそんな……少な目でお願いします」
「そうよね~、ごめんなさいね私ったら女の子のお客様初めてではしゃいじゃって!」
勘違いや聞き間違いではなかった。我が家に、どう見ても、間違いなくあの笛吹彪香がいる。すでにうちの母さんに気圧され、ダイニングテーブルの一角に縮こまって所在なさげに座っている。あの笛吹が。
胸がキュッと締まるような思いがする。この苦しさが自分のテリトリーを侵されたことに対する嫌悪感か、それとも別の何かなのか。自分では判断がつかない。とにかく困惑が頭を埋め尽くす。
浮かれた様子を隠そうともしない母さんはキッチンにいながらも終始笛吹に話しかけている。対する笛吹は困惑したように曖昧な相槌を打つのに必死でこちらにもまだ気づいていないようだった。
「な、なんでいるの……!?」
「りょーよーのためにつれてきた!」
思わず漏れた声に横のサキ姉が無駄に元気な声で答える。こちらに気が付いた笛吹と目が合った。振り向いて初めて分かったが笛吹は少しだけいつもと違っていた——花が完全に萎れている。いつもは薄桃色の鮮やかな花びらがたわわに広がっているのに、シワが寄って茶色に変色した花びらは今にも落ちそうだ。つい視線がそれに向いてしまうが、なんとなく凝視するのは失礼な気がして努めて焦点を外した。
「お邪魔、してます」
おずおずと会釈する笛吹は今まで見たことがない申し訳なさそうな、助けを求めているような、ひ弱な小動物じみた顔をして体を縮めていた。そんな顔されても——。
助け船を求めようにも、おそらく彼女をここに手引きをしたであろうサキ姉はもう席について酒を煽っている。本当にこの人は酒飲んでるときはダメだな。混沌とした三人の様子を見ていると、なんだか緊張が一気に抜けていってしまった。こんな空気でまさか「帰れ」なんて言えるわけもない。それにサキ姉は療養と言っていた。
「あら、おかえりゆーちゃーん、ねぇねぇお客様用のお箸どこだっけ~? ゆーちゃんってば~」
ハイハイと力ない返事をしてキッチンへと向かう。ここ数年でキッチンはすっかり自分用に配置換えが済んでしまっている。母さんにとっては使いにくくなってしまっているのだろう。少し申し訳ないとは思うが、それはそれとしてクラスメイトの前でゆーちゃん呼びは今すぐ止めてほしい。
その場に荷物を置いてキッチンへ。煮魚がのった皿を運ぶ母さんがすれ違いざまにニヤつきながら「やるじゃない」と囁いてきたが聞こえなかったフリをした。キッチンには母さんの十八番であるおつまみ料理たちが並んでいる。——こんなことだと思ったけど、病人に食わせるものじゃない。多分母さんは今日のことをまだ聞いてないのだろう。
味の濃い酒の肴たちを病み上がりの笛吹に食べさせるのは気が引ける。母さんは酒の肴以外ほぼ作れない。サキ姉はキッチンに立たせたくないくらい料理ができないし、なにより酔っ払いだ。笛吹の分は俺が用意しなければならない。
まず母さん達に先に食べてていい旨を伝え食器類を運ぶのを手伝う。そして落ち着かない様子の笛吹に話しかけた。
「食欲、ある?」
「あんまり……あの、私、なにか手伝えることあるかな。昼間も迷惑かけて急にお邪魔しちゃって、その上さらに私なんかの為にご迷惑かけるのは——」
そう言って立ち上がろうとする笛吹を制止する。
「さすがに昼間あんなに派手に倒れたところを見てるから……ね」
やばい緊張する。いつも後ろ姿は見ていたが、正面から向き合って話したことは無かった。しかし不思議と嫌な感じはしなかったし、意識が遠のいたり視点が切り替わることも無かった。
説得された笛吹はしぶしぶ、といった感じではあるが大人しく座りなおした。
すると一連のやり取りを聞いていた大人達が口をはさんでくる。
「倒れたって、大変だったのね……彪香ちゃん。ここを自分の家だと思って寛いでいいからね! 気を遣うこともないし、何でも言って頂戴。精一杯サポートするからね……主にゆーちゃんが」
「そうだぞ~彪香、あなたはりょーよー最優先。今は栄養とってよく寝ること! 大体のことはやるから、いくらでもたよりなさい。結城を」
そう言いながら笑う二人の手には缶チューハイが握られている。いつの間にか母も飲み始めていたらしい。この二人の酔っ払いが揃うととにかく騒がしい……いや、賑やかだ。三人集まるまでもなく姦しい。
笛吹はどう反応したらいいのか分からないようで、二人の顔と俺の顔を伺いながらまごまごしている。「適当に相槌しとけば大丈夫。ほんとごめん」とだけこっそり耳打ちする。
「あー、笛吹、さん。お粥なら食べられそう?」
「うん……ありがとう。えっと、結城くん」
確認を取ってすぐにキッチンへ引っ込んだ。笛吹に下の名前で呼ばれたことで感じる照れをかき消すように料理に没頭した。
それにしても、どういう流れで笛吹はここにいるのだろうか。驚きが収まってくると心配が勝ってきた。『一人で帰らせるのが不安だったから養護教諭のサキ姉が家まで送る』だったら分かる。でもなぜ笛吹の家ではなく我が家に連れて来たのか……笛吹も居づらそうではあるが強い抵抗を示していないところを見ると合意の上ではあるようだ。何かうちである必要性があると考えるのが自然か。——考えているうちにキッチンタイマーが鳴る。お粥が煮えた。鍋に溶き卵を流し入れ、最後に小気味よく刻んだネギを卵粥にまぶし、完成したそれをテーブルへと運ぶ。
「食べきれなかったら残して大丈夫なので」
「凄い、美味しそう……! いただきます」
笛吹は一口食べると「美味しい」とこぼして夢中でレンゲを口に運び続けた。これなら残す心配なんてなさそうだ。ただレシピ通りに作ったお粥が想像以上に好感触で面食らいながらも自分の分のご飯を用意して、四人で食卓を囲んだ。いつもは静かなリビングがこんなに明るいのは何年振りだろう。楽しそうにしている母さんやサキ姉を見ていると変に緊張しているのが馬鹿らしくなってきた。
「ゆーちゃん他のクラスメイトにも敬語なの? それとも彪香ちゃん相手だからかしら、意識しちゃってるのかしら!」
「母さんほんとそういうのは気まずくなるからやめて……」
「か~っ! こ~のコミュ力皆無むっつり思春期め!」
「ぷふっ」
母さんがしょーもないことを言って俺やサキ姉がそれに同調したりツッコミを入れたり……BGMもないのに終始賑やかな食事だった。横に座る笛吹は周りのくだらないやりとりを笑って聞いていたが、時たま話題を振られると困ったようにしていたが終始にこやかだった。母さんは笛吹を相当気に入ったようでたくさん話しかけられた彼女も徐々に打ち解けていった。
ただ席が前後なだけのクラスメイトでは絶対に見ることがなかったであろう笛吹の表情がいくつも出てくる。笑い顔、困り顔、照れ顔……それに寝顔と泣き顔。今日だけでいくつも新しい笛吹を見た。俺が知る教室での彼女はずっと無表情で、人間味がない——まさに観葉植物のようだったのに。
「結城くん、この布巾使っていいのかな」
「はい、それで軽く拭いてそこに立てかける感じで……ほんとに無理はしないでくださいね」
食事もあらかた終わり、皿洗いや残り物の片付けをする。どうしても何かしたいと言って聞かなかった笛吹には食器洗いを手伝って貰っている。さっきの団欒で喋ること自体は多少慣れてきたが、いつの間にか定着していた下の名前呼びはどうも慣れない。鼻の奥がムズムズする感覚がする。これから学校でも呼ばれるのか……? というか学校でもこんな風に喋るのか、どうもその想像は現実味を帯びなかった。
「……あ、今更だけど笛吹さん、時間大丈夫? 親御さん心配しない……?」
「——ッ! えっと、その」
「あ」
最中、横で洗った皿を拭いている笛吹に尋ねると、食卓に座ったサキ姉が思い出したように言った。
「結城には言ってなかったけど、彪香しばらくここでお世話になるから。よろしく」
「……はぇ?」
唐突に、俺の人生を大きく変えることになる、笛吹彪香との奇妙な同居生活が始まった。
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