白い手

増田朋美

白い手

その日は台風がくるというので、みんな用心していたのだが、台風はとんだ茶番と言うか、どこか方向がそれてしまったようで、静岡県にはやってこなかった。どこか被害を出したとか、そういうことも一切なく、台風の話はどこかへ行ってしまった。まあそれは良かったのであるが、そうなると、また何かハプニングがおきてしまうものでもある。まあそれが、生きているということなのだといえばそれまでなのだが、、、。

晴れても雨が降っても、台風でも介護というものは必要になるものだから、杉ちゃんは、いつもどおり製鉄所へ行って、水穂さんの世話を続けた。こんな雨の日は、食欲はまるで出ず、頑張って食べろと言い聞かせても、何も食べてもくれなかったが、そんな中、必ず誰かがやってくるものである。杉ちゃんがほら、食べろと一生懸命言い聞かせているその時に、

「右城くんいるんでしょ?ちょっと、お願いがあるのよ。」

と言いながら、どんどん入って来てしまうのは、紛れもない、浜島咲であった。それと同時に、まだ、声変わりのしたばかりかなと思われる少年の声で、

「本当にいいんですか?」

と、聞こえてきた。どうやら、客人は一人だけでは無いらしい。

「わかったよ。とりあえず入ってきてくれ。」

杉ちゃんがそういう前に、浜島咲は、どんどん四畳半に入ってきた。そして一緒に入ってきた人物は、たしかに、声を聞けば明らかに、少年と思われる声なのだが、、、。

「何だ?声だけ聞くと、若い人のようだけど年寄りだったの?」

と、杉ちゃんが思わずびっくりするほど、老け込んでいた。髪も白いし、後ろ姿を見れば、とても少年とは見えないだろう。でも、目が天井ばかり見つめていて、杉ちゃんたちを見つめていないため、視力がないということが見て取れた。

「年寄じゃありません。まだ、こう見えても高校生です。お母様が、あたしのお琴教室に来ていて、その好で、今日はここへ来てもらいました。」

咲は、急いで彼のことを紹介した。

「名前は、清野和樹くん。静岡の盲学校に通ってます。」

「清野和樹ね。フィンランドの作曲家で似た名前の人がいたけど、それと一緒かな。」

杉ちゃんがそういう通り、フィンランドに似たような名前の音楽家がいる。そんなに有名な音楽家じゃないけれど。

「それで、今日はどうしてここへきた?」

「ええ。実は、お母様のお願いで、彼を一度だけでいいから、オーボエで、音楽コンクールに出させたいということにしたの。それで、ピアノ伴奏者を頼みたいんだけど、曲が難易度が高すぎて、誰も名乗り出てくれる人がいないから、右城くんならできるんじゃないかって思って、お願いしに来たの。」

「はあ、課題曲は何だよ?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ラベルのソナチネ。」

と、咲は答えた。確かに、そうだなあという響きがあった。ラベルのソナチネというと、確かに難易度が高いし、ピアノ側にも難しいものになるだろう。

「はあ、なるほどね。つまり、ラベルのソナチネを誰かにやってもらいたいということか。それなら、インターネットとかで、やってくれる人を募ればいいじゃないか。ちょっと、水穂さんには、難しいかなあ。」

杉ちゃんがそう言うと、咲は残念ねえ、と、つまらなそうに言った。

「碌にご飯も食べてくれないんだもん。とても無理だよ。まあ、たしかにラベルのソナチネを弾ける人となると、かなり絞られると思うけどさ、なんとかっていうSNSを使えば見つかるんじゃないかなあ。」

「そうかあ。結局そうなっちゃうのかあ。」

咲は、困った顔で言った。

「でも、僕みたいな人に頼むよりも、上手い人に頼れば、また違う結果が得られるかもしれないし。そういう出会いだってあるんじゃないですか。それに、白化症の人だって、理解がある人であれば、ちゃんとできるんじゃないでしょうか?」

水穂さんがそういった。右城くん、やっぱりわかってくれてるのねと咲は思わず呟いた。

「それで、視力がないわけか。確かに、白いやつは、視力が極端に落ちるというのは、聞いたことあるな。まあ、ちょっとハンディがあるかもしれないけどさ。それでも、誰かできそうなやつを探すんだな。インターネットで募集するとか。」

「あーあ。残念だわ。右城くんだったら、ちゃんとやってくれると思ったのにな。あたしどうしよう。誰にやってもらおうかなあ。誰かできそうな人を探さなきゃ。じゃあ、杉ちゃんが言う通り、インターネットで募集してみようかな。」

咲は、スマートフォンを取り出して、SNSを開いて、伴走者を募集しますと打ち込んだ。流石に白化症で、目が不自由と打ち込んだときには、ちょっと咲は躊躇してしまった。障害のある人を紹介するときは、必ずそうなってしまうものだった。

「そういう大事な事実は隠さずに書くんだぜ。事実は事実だぜ。大事なところはしっかり書いて、外さないでな。」

杉ちゃんに言われて、咲は自分が、インターネットを利用して、いわゆる「出会い厨」と言われてしまうのではないかと、困ってしまった。

それから、数日後のことであった。咲の投稿したSNSに、誰かからメッセージが入っていると、スマートフォンが知らせてくれた。SNSを開いて、咲は声に出して読んだ。

「私で良ければ、ピアノ伴奏手伝えるかもしれません。白化症とか、目が不自由とか、そういうことは気にしません。よろしくおねがいします。はあ、本当に弾ける人なのかなあ。」

咲は、その投稿者のプロフィール欄を見てみたが、音大はどこどことか、そういうことは、何も書いていなかった。それでも、ピアノを弾けるということだろうか。咲は、どんな経歴の方ですか?と送り返してみた。すると、数分後に、メッセージが返ってきた。咲はまた声に出して読んでみた。

「音大は行っていませんが、一応、音楽高校には行きました。中澤と申します。ただ、ピアノを通して誰かの役にたちたいと思いまして、応募してみました、か。」

咲が返信を打とうとすると、また返事が返ってきた。

「もし、可能であれば、近いうちにお会いして、お話を詳しく伺いたいです。曲名とか、編成とか、ちゃんと聞きたいです。よろしくおねがいします。随分、積極的な人ね。」

咲は、うちかけていた返信分を打って、急いで続きを打った。

「ありがとうございます。じゃあ、それでは、明日辺り、駅前の喫茶店で、お会いしましょう。一時に来てください。」

そう打つと、

「こちらこそありがとうございます。明日の一時に伺いますので、よろしくおねがいします。」

と、中澤さんという人は返事をよこしてきた。

「よろしくおねがいします。じゃあ、明日、一時に楽しみにしています。」

咲も、すぐに文章を打った。こうして、すぐに、咲は契約を取り付けたのであるが、そのような事ができたということを、杉ちゃんにも報告しなければならないという気がしたので、すぐに製鉄所に電話をした。

「あの、すみません。」

「はい、なんでしょうか?」

出てくれたのは、製鉄所を管理している曾我正輝さんことジョチさんだった。

「ああ、理事長さんですか。あの、杉ちゃんそっちに来てませんか?」

と、咲が言うと、ジョチさんは、いえ、まだ今日は見えていませんけどといった。それなら、用事でもあるのかなと思った咲は、

「そうですか。じゃあ、こう伝えてください。無事に、清野和樹くんの伴走者が決まりました。中澤さんという女性の方です。あした、打ち合わせをすることになっています。」

と、状況を説明した。

「わかりました。杉ちゃんと水穂さんに伝えておきます。でも、浜島さん、誰でも、インターネットというものは、便利なものではあるんですが、便利すぎるものはときに変な人も、招いてしまうことがありますので、そこは、気をつけてくださいね。」

ジョチさんは、そういうことを言っていた。咲は、はあそれはなんだろうと思っていたが、

「はい、わかりました。それは気をつけます。」

とだけ言っておいた。

「本当に、気をつけてくださいね。善良な人を、潰してしまうような人も、たくさんいますからね。」

とジョチさんは、優しくそう言うが、咲は、よくわからなくて、はいとだけ言った。

「じゃあ、水穂さんたちには、伝えておきますから、浜島さんも頑張ってください。」

咲は、ハイと言って、電話を切った。

そして、翌日。一時になったので、咲は駅前のカフェに向かった。なかざわという人はどんな人なのか、あってみたいのと、ちょっと緊張しているのと、半々だった。

咲が、カフェに到着すると、まだ人気はなかった。中澤という人はまだ来ていないのかなと、取り合えず受付に、コーヒーを注文して、自分は入り口からすぐ近くの、テーブルに座った。

数分後。カフェの入口の自動ドアが開いて、一人の女性が入ってきた。年齢は、30歳くらいの若い女性だった。普通にスーツ姿で、きれいに身なりを整えている。髪は、茶色に染めていて、腰くらいまでの長さがあった。

「あの、もしかして、浜島さんでいらっしゃいますか?」

と、彼女は、咲に聞いた。

「ええ、浜島は私ですが?」

と、咲が答えると、

「はい。私、中澤と申します。中澤浩子。よろしくおねがいします。」

と、女性は言った。じゃあ、中澤さんというのは、この人なのか。咲は、とりあえず、

「どうぞ、ここに座ってください。」

と、彼女を、向い合せの席に座らせた。

「私、中澤浩子です。出身は、千葉ですが、五年前に静岡にやってきました。静岡は、暖かいですね。ピアノは、四歳から習い始めて、一応、千葉の音楽高校を出ていますが、音大は行ったことがありません。でも、ラベルのソナチネは弾いたことがありますし、オーボエ版もだいたい知っています。」

中澤さんはえらくハキハキした、口調でそういうことを言った。

「あ、あ、ありがとうございます。それで、私が頼んだのは、彼の、ああ、あの、清野和樹くんのお手伝いでお願いしたのですが、やっていただけますでしょうか?」

咲は、急いで中澤さんに言った。

「ええ、わかっております。ちゃんと、仕事はいたしますから、演奏をするのはいつですか?」

中澤さんはそういう。

「ええ。今度の一ヶ月後に演奏する、音楽コンクールなんですが、そこで、和樹くんと一緒にラベルのソナチネを弾いていただきたいんです。」

咲が改めてそう言うと、

「はい。わかりました。何楽章を弾けばいいのですか?」

中澤さんはそういった。

「はい。第1楽章です。」

咲がそう言うと、中澤さんは、

「そうですか。」

とだけ言った。その言い方が、ちょっと馬鹿にしていると言うか、なにか、軽蔑しているというか、そんな感じの言い方だった。いくら、口ではそうですかと言っても、彼女の目は、そう言っている。明らかにこの人、私の事、馬鹿にしているのかなと咲は思った。

「第1楽章では行けないのでしょうか?なにか、第1楽章では、おかしいということがあったんでしょうか?」

と、咲は言った。

「いいえ、そういうことではなくて、第1楽章は、ちょっと地味な楽章でもあるかなと思いまして。」

そう答える中澤さんは、本当は第1楽章をやりたくないということが、その表情でわかる。

「そうでしょうか。地味でもないと思いますが。第1楽章は、ちょっと古典的でとても素敵な楽章だと思いますけど。」

咲は、そう言って反論した。

「でも、私が第1楽章をやるとなると、ちょっと、難しい物があるといいますか、なんといいますか。」

「なら、今までどんな曲をやってらしたんですか?」

咲は、そういう彼女に、そう言ってみた。

「私が、今までやっていたのは、ブラームスのソナタとか、そういう曲でした。そういう壮大な曲をやっていたのですが、一番好きなのは、ブラームスの協奏曲です。」

そう答える彼女に、咲は、もしかしたら、彼女は、目的が違うのではないかと思った。咲が思っている音楽と、彼女が思っている音楽はまた違うのかもしれない。

「そうなんですか。わかりました。あなたは、どういう目的で、ここに来られたのでしょうか?私は、単に、清野和樹くんのお手伝いをしてほしくて、投稿したんですけど。」

と、咲はそう言うと、

「ええ、わかっております。その方の、お手伝いをして、私が、彼の演奏を手伝って、それで私の演奏を審査員さんたちが、聞いてくれたら、また私も、音楽業界に返り咲ける。それで、お願いします。」

と、中澤さんは言った。咲は、こういうところは、やっぱり文章だけでは、伝わらないんだなと思った。やっぱり、信用できる人にやってもらったほうがいいのだと思った。

「そうなんですか。私は、悪いですけど、あなたの演奏を聞いてもらうために、演奏者を募集したわけではありません。主役はあくまでも、私ではなく、清野和樹くんです。それを忘れないで、いてください。」

咲は、中澤さんに行ったが、中澤さんの表情は変わった。なにか、困ったような表情と言うか、助けてもらいたいという表情をしていた。

「それでは、浜島さん、もうこの話はなかったことに?」

急にガラッと違う声色で、中澤さんは言うのであった。

「ええ。だって、私が求めている演奏者と、あなたとは違いすぎますから。私は、自分の名声を上げるのを求めている人には、やってほしくありません。そうではなく、私は、清野和樹くんの演奏者を募集したんです。」

咲が急いでそう言うと、中澤さんは、

「お願いします。先程のブラームスの話は、なかったことにしてください。私、ラベルのソナチネでもいい。地味だと言っていたけど、一楽章でもいい。お手伝いしますから、私を使ってください。」

と、言ってくるので、咲はびっくりしてしまった。

「なんで?なんで、急に態度を変えるんです?」

咲が聞くと、

「だって、こんなチャンスはめったに無いじゃないですか、自分の演奏を人に聞いてもらえるなんて。私だって、舞台に出たいんです。それは、誰だってあるんじゃないですか。そういう気持ちは、誰だってあります。それはみんな同じでしょう?」

そう、彼女が答える。

「私は、同じじゃないと思います。みんな、音楽家は、自分のことばかり考えているような種族だという印象を与えてしまったら、これから、音楽家を目指すという人が、可哀想というか、不幸になってしまう人も出てしまうと思う。音楽って、そういう為にあるわけではないじゃないですか。そういう印象を与えたくないので、私は、中澤さんのような考えの人は、一緒にはやれません。」

咲は、思い切ってそう言うと、中澤さんは、そうなのねという顔で、彼女を見た。

「何なの、その目は。」

咲が思わず言うと、

「だって、音楽家なんて、自分の事だけで精一杯ってよく言うじゃないですか。音楽で生計を立てていける人物なんて、ほんとに少しだし、大多数の人は、小さな舞台にしがみついて生きていくだけで終わってしまうでしょう。人のために、音楽をやっていく人なんて、果たしているでしょうか?皆、自分の為なんですよ。人間は、自分のためだけで生きているんじゃありませんの?そうじゃありませんか?浜島さんは、そういうことを考えたことがないんだったら、よほど恵まれていることになりますね。」

と、中澤さんは、いかにも、自分のことを代弁する様に言った。

「ええ、私は、そういうことを言われても構いません。私だって、そういうことを思ったことがあるけれど、そういう考えを私は、もう捨てました。こんな事、あまり口に出して言うことじゃないけど、私は、そういうことをしようとしても、無意味だなって、知りました。利己的な考え方では、音楽は成立しないことも知りました。だから、私は、音楽は自分のためじゃなくて、人のためにやってあげるもんなんだって、ちゃんと知りましたよ。中澤さんも、そういうことを思わないで、切り替えてください。音楽は、自分が楽しむのはもちろんだけど、人が楽しむためでもあるんだって。」

咲は、中澤さんに、説得するような感じではなく、言い聞かせるような感じでそういった。それが使えるかどうかわからないけど、中澤さんに、自分のために生きるというのは間違いで、人のために生きるのが本当であると、中澤さんには伝えておきたかった。

「そうですか。浜島さんは、本当に恵まれている方ですね。きっと、挫折したとか、師事した先生に裏切られたとか、そういうことが全くないかたなんでしょう。私だけがなんで、一生懸命練習してきたのに、こんなに不運なんだろうとかは、一度も考えたこと無いんでしょうね。私だって、音楽が好きです。だから、ずっとやっていきたいから、こうして応募したのに、それをわかってくれないなんて。そんな人は、きっと、誰かの踏み台にされるか、そういうことしかできない人生しか送れませんよ。それでいいのですか?私はそんな事したくありません。だからこそ自分のために音楽するんです。それがわからない人とは、話もしたくありませんわね。こっちから払い下げだわ。音楽で、やっていくのはいかに大変かしらない人に、音楽の話なんてできることはありません!」

と、中澤さんは、椅子から立ち上がり、喫茶店を出ていってしまった。咲はその後姿を見て、中澤さんの後ろ姿が、えらく丸まっているのに気がついた。多分きっと萎縮してしまっているのだろう。そうではなくて、もっと、音楽を楽しめばそうはならないと思うのだが、それはできなかったんだなと咲は思った。

とりあえず、何の収穫もなくその日はカフェを出た。

「やっぱり、右城くんに相談するしか無いかなあ。」

咲は、思わず道路を歩きながらつぶやく。彼女はそのまま、製鉄所に向かった。こんにちはと言って、インターフォンのない玄関から製鉄所に入ってみると、ラベルのソナチネが聞こえた。水穂さんが弾いているのかな。あの白い手で、水穂さんは、誰に向かって、ピアノを弾いているのだろうか?

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白い手 増田朋美 @masubuchi4996

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