第5話

一度だけ。

たった、一度だけ。

芽ちゃんと、喧嘩した。

青い雨が、降って…断水が、終わって…青い水の、安全が、保証されるように、なった、とき。

塩素消毒で、青い水の、化学物質は、完全に消すことが、できる…だから、僕と、雪待が、勤める、浄水施設では、みんな、こんな言葉を、言っていた。

『いつも通りやればいい』。

いつも通りの、機器点検。いつも通りの、水質確認。何も、変わらない。ほんの少し、塩素の、濃度を、上げるくらい。

それで、化学物質は、死滅するから。

飲み水は、色こそ、青いものの…以前と、変わらず、安全です、って。

あとは、その原因。

青い雨の、原因。

でも、それは、僕らの、専門外で。

僕らが、言えるのは、水道水は、安全だよ、って、ことだけで。

施設に勤める、僕らが、言うのだから…大丈夫だよ、って、芽ちゃんと、菜花ちゃんに、言ったんだ。

けど。

芽ちゃんは、絶対に、菜花ちゃんに、水道水を、飲ませようとは、しなかった。

グラスに注いだ、青い水を、僕へ突き出して、訊ねてきた。

「…断言できる? この水が飲めるって、断言できるの。貴方の仕事に不備はないって、大きな声で言えるの?」

…このときの、僕は、水は怖くなかったから。

芽ちゃんから、グラスを受け取って、その、ペンキのような、青い水を…一気に仰いで、飲み込んだんだ。

大丈夫、って、言うために。

安全だよ、って、伝えるために。

毒じゃない。

死なない。

寄生されない。

ね…と、笑って。

「いつも通りやってるから、平気さ」


「だからこんなことになったんでしょう!」

そう叫んだ、芽ちゃんは。

翌朝、脱水症状で、搬送された。

僕は、信用、されなかった。

浄水施設は、今もまだ、信じて、もらえない。

今は、それが、理解できる。



「ねえ、芽ちゃん…」

振り返って、我にかえる。

いつもの、食卓。

テーブルの上の、フォトフレーム。

写真の中の、芽ちゃんと、菜花ちゃん。

僕は、お皿を片手に、呆然とした。

…なおらない。

また、夢、を…見ていた。

また、そこに。

まだ、そこに。

大好きな、妻と、娘が、居ると…思っ、て。

また。

まだ。


『……が発生し、───地方は×日から×日頃までにかけて、災害級の大雨になることが予想されます。被災地の方々は、くれぐれもパニックなどにならず、冷静に…』


…目玉焼きの、行き場を失う。

ひどく焦げて、ぐちゃぐちゃの、目玉焼き。

どんなに、芽ちゃんに、教わっても…ぜんぜん、うまく、できなくて。

菜花ちゃんが、すごく小さな頃は…お父さんの、作った、目玉焼きは、汚いって、言ってたけど。

それから、少し経ったら…お父さん、らしいね、って…気遣われる、ように、なって。

いっそ、スクランブルエッグ、でも、極めたら、って、芽ちゃんは呆れて。

なんだか、悔しくて。

僕は、意地でも、朝は、目玉焼きを、作る…って、決めたんだ。

毎朝の、ぐちゃぐちゃな、目玉焼きが、この家の、定番で…毎朝、笑われて、呆れられて。

毎朝、僕は、決まって、言うんだ。

次は、きれいに作るから、って。

……約束は、守れなかった。

芽ちゃんも、菜花ちゃんも、いなくなった。

菜花ちゃんは、死んじゃった。

芽ちゃんは、いなくなっちゃった。

……でも。

菜花ちゃんは…死んじゃった、けど。

芽ちゃんは。

芽ちゃんは。

もしかしたら。

まだ。

どこかで。


『雨奴による襲撃事件が増加しています。降雨注意報が発令された日に限らず、外出する際は、肌の露出を控え…』


行き場のない、目玉焼き。

誰も、食べないのに。

僕は、食べないのに。

貴重な、支援物資。安全地区から、届いた、食材。白身も、黄身も、青くない…きれいな、卵。

でも、誰も、食べないなら。

…廃棄、する、しか…。

「食べなさい、余花さん」

……芽ちゃん。

「勿体ないことをしないで」

……芽ちゃん。

「廃棄された食物の処理で、また何かが起こったらどうするの…貴方のせいになるのよ」

……やめて。

「お腹は空いているのでしょう。食べなさい」

……やめて。

「貴方には、生きてもらいたいの」


気がついたら、口の中に、卵が、あって。

塩と、油の、味が、広がって、いて。

片手で、フォークを、握っていて。

お皿の上の、目玉焼きが、欠けていて。

僕は、食べて、いて……。

慌てて、お皿を放り投げて、フォークを、投げ捨てて…がしゃん、って、割れて、砕ける音も、気にしていられなくて。

「ぐゔっ───‼︎ えゔ───っ‼︎」

口の中の物も、空っぽの、お腹の中、からも、とにかく、吐きたく、て、たまら、なく、て。

吐き、出して、吐、き、出し、て…。

シンクを、汚した、それを…どう、する、ことも、できずに…見下ろし、て…。

蛇口を、捻れば…流せるのに…できなくて。

……なんで。

……なんで、こんな。


……インターホンが鳴った。

「夏越、生きてるか。俺だ」

雪待。

「また洗い物が溜まっているんだろう」

そっか、休日…ああ、そん、な、の…どうでも、いいから…雪待、雪、待、だ、れで、も、いい。

たすけて。

「……たす、け、て」

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