第3話
水が、恐ろしい。
濾過池を見下ろす…青い水槽の中は、以前は、水を透き通って、見せていた…けど、今は、水槽の底を覗くのも、やっとなほどに…水自体が、青く、濃く青く、染まっている。
濾過しても、水の青は、消えない。
その青い水が、恐ろしいと…みんなが言う。
「水が怖いなら覗くなよ、夏越」
「……ああ、うん」
僕が、ここで出来る仕事は、少なくなった。
▽
直接、水の傍で、長居することは、難しい。
というか、耐えられない…見たくもない。
それは…この地域で、公害病に含まれた、水恐怖症の症状で…何人か、辞職した子達が、居る。
…僕も、本来なら…辞めたいところだった。
「ならどうしてここに居る」
「人手が、減ったら…困る、でしょ?」
「そりゃあな。だが無理をしてまでここに居る必要はない…特にお前のような、無飲薬を打って生活しているような病人はな、夏越」
「病人じゃ、ねえよ」
昼食を取る雪待を、眺める…瑞々しい野菜を挟んだ、サンドイッチ…琥珀色の、レモンティー…水分、水、水…僕らの身体に、必要不可欠なもの。
「…相変わらず食べないのか」
「食べなきゃ、しんどい、って、思ったら…少しは、食べるよ…二日に一度、とか?」
「無飲薬に加えて栄養剤まで使うようになったらいよいよだぞ、夏越。案外重度じゃないか」
「まあ…安全地区から、届く、食材なら…食べるけど。この状況だと、支援物資が、届いても…人に対して、数は少ない、し…すぐに、なくなるからさ」
「みんな同じ考えだからな」
食物を育てるには、どうしたって水が要る。
野菜、果物…肉、魚…水が必要で、水で生きる。
僕らだって、水を飲まなきゃ、生きられない。
けど…僕らが住む地域は、青い雨に、汚染されて…池、川、湖…水道水まで、真っ青に染まった。
まるで、絵の具を溶かしたような…透き通らない、青い水。
でも、別に…飲料水として、害はない。
池や川も…青い雨は、衝突した瞬間に、死に果てるから…害はない。
雨に、直接、当たらない限り、害はない。
だから…室内で育てた、野菜とか、家畜とかには、何の影響もないし。
それに。
青い雨は…塩に触れれば、衝突同様、即死する。
だから、海水魚なんかにも、影響はない。
ちょっと、肉が、青っぽく、なるくらい。
だから、食物には、ほとんど、害はない。
それでも。
それでも、青く染まった水、というものが、受け入れられない…だから、水を飲むのも、水分を得て育つ食物も…恐ろしくて、不快で…僕を含めた、何百人もの人たちが、飲食を拒否した。
「気持ちはわからなくはない…蛇口を捻って出てくるものが、ペンキのような青い水なら、確かに飲むには躊躇するさ」
「濾過しても…色は、消えないから、ねえ」
「普通は無色になるはずなんだがな」
「未知の、物質さ」
「工業廃水だからな…工場側も排水処理施設の方も、予期できなかったことだ。知らぬうちに生まれた得体の知れない化学物質。そんなものは、いつでも突然現れるものだ」
「だが夏越…もう水は飲めるんだぞ。大学や研究者が試験を行なって…青い雨は塩で完全に無害になると証明されたんだ。これまで通り塩素消毒を行えば、青い水でも…」
「そう言う、君だって…支援物資の、飲料水を、飲んでるじゃないかよ」
琥珀色のレモンティー…あざやかな緑茶…太陽のようなオレンジジュース…そんなものは、とっくに、この地域から、なくなっている。
買い占められて、争奪戦で…どこの店の、棚からも、消え失せた。
無論、飲めるものなら、酒ですら。
自宅で、コーヒーや、お茶を淹れる…なんて、ここでは出来ない。
水道水は、真っ青だから。
米だって、炊けない。
そんな人が、何百人、何千人と居る。
害がなくとも、その色を割り切れない、そんな人が。
僕を含めて。
「それは…いや、飲みたかったから飲んでるだけだって」
「君の、奥さんなら…レモンティーだって、自宅で、作れるだろうに」
「溝みたいな緑色した水でレモンティーの味がしても不味く感じるだろう…」
青と、琥珀色…混ぜれば、溝色。
あはっ。ははっ。
「それが、雪待の本音、なんだねえ」
「どうして笑う…お前ならむしろ理解するところじゃないのか」
「ええ、なら、米は。米は、炊けるの? 真っ青に、なるじゃないか」
「サプリメントを飲むときとかは水道水を飲めるという話だ。俺だって嫌だよ、青い米とか変な色の味噌汁とか…食欲なんか湧くものか」
「まあ、ねえ」
「排泄物まで青くなって…はじめはぞっとしたよ」
「そう。そう、かい」
ははは。
軽い息切れのように、僕は、笑う…無飲薬の、せいで、笑うことも、難しくなった。
それでも、水を、飲まずに済むのなら、多少…喋るのに、時間が、かかったって…笑うことが、苦しくなったって…少なくとも、僕には、どうでもいい。
青い水。
水に恐れなんか、抱かなくても…害なんか、なくても…その色が、受け付けない…その色が、すでに害だ。
昔から、青い食物は、食欲を落とす、って、言うだろ。
だから…水が恐くなくても、みんな、支援物資を必要としている…白い米、透明な水、その他、飲料水、嗜好品。
そりゃあ、普段通りに、買い物をする程度なら、争奪戦にも、ならなきゃ…店頭から、消えたりもしない…地元で揃う、商品なんて、限られているし…普段から、外の工場から、作られて、並べられている…そんなもんだ。
「だから…これは、一種の、パニック、ってやつ、なんだよね」
「そうだな。市販の天然水やお茶なんかも、以前の通り、必要な分だけ買い揃えて、なくなったらまた買いに来ればいい…それでじゅうぶんだと言うのに」
「最初の、断水が…余程、恐ろしかった、ん、だねえ…」
「そもそも、水道水なんて滅多に使わない家もあるだろう」
「お風呂の、お湯まで…ペッドボトルの、天然水にした、って、話も…あったねえ」
「放射能じゃあるまいし」
「でも…災害が、起これば…いつも、みんな、そんな感じさ」
「怖がりなんだよな…お前も」
「ははっ…」
怖がり、か。
生きるために、みんな、必死で。
命を繋ぐ、最大の頼りの…水が、汚染されて…空から、降り注ぐものが、化け物になって…そんな、まるで、非現実的なことに…恐れるのは、誰だって同じ。
雨を恐れて。
水を恐れて。
生きるのが、難しくなって。
「助かったのは…青い雨が降るのが、どうしてかこの地域だけで済んでいる、ということだな」
「…わかんない、よ…雲や、空気なんて、風に流される。汚染された、雨雲が、流されて、いったら…いずれ…」
「まあな」
「…そしたら、どうする」
「やむを得ないさ。海の向こうの化学に頼るよ。無飲薬。お前のように」
「最悪は…渡る?」
「それでもここの方が、余程、まだましだと思うがな…」
「同じ、さ」
大気汚染、で…有害物質が、空気中に舞う、外の国…視界が霞んで、ガスマスクをして、外を歩く、人たち。
陽の光は、強くなって…雨が降れば、大災害が起こって…化け物になって。
大気汚染が、人間の、環境破壊が、原因であるように。
この地域に、降り注ぐ青い雨も…未知の化学物質から、発生した、公害で。
得体がしれない、とか、非現実的、とか、そう言って、逃避して…神様のせい、になんか、しているけれど。
「結局…人災…なんだよ、ねえ」
「今回ばかりは、本当にな」
生きるのが、難しくなった。
それでも、生きようと、必死になって。
物資の争奪戦。
自分さえ良ければ、それでいい、なんて。
どこが、安全だ。
どこが、安心だ。
どこへなら、逃げられる。
いずれ…近いうち…青い雨の被災地は、広がるだろう、なんて、言われているから。
僕は…支援物資だって、信用できないから。
「食べないで動けるか。午後は機器点検だ」
「ああ、薬、打ってくるよ」
わかってるさ…この無飲薬にだって、水が使われている、って、わかってる。
だから僕は。
死んだ方が楽だ、と、思ってしまう。
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