第2話
いちいち、降雨注意報なんて、出されなくたって…僕らは、傘と雨合羽を、持って歩くのは、当たり前になっている。
いつかの、ウイルス騒ぎの時のように…マスクではなく、雨具を持ち歩き…或いは、常に、傘をかぶって歩く。
ただの一滴でも、雨に当たっては、いけない…あの青い雨に、当たってしまえば…僕らは、意識を、乗っ取られてしまうから。
快晴すら、安心できない、夏が怖い。
▽
仕事に、向かう途中…当たり前のように、そいつと、出会してしまった。
艶やかな、大きな滴のようなもの…そんな見た目の、ひとがた、人間…もともと、人間だったもの、人…真っ青な、大きな…人の形をしたスライム、って例えが、当てはまる。
それは、青い雨に当たってしまった人だ。
青い雨に当たって、呑み込まれて、寄生されて、意識を乗っ取られた、公害の被害者だ。
青いスライム人間…雨の感染者…誰が言い始めたかは、知らないけど…それのことを、僕らは、『
それで。
その、雨奴は…雨奴じゃない人間を、地面に押し倒していた…女の人を、組み敷いていた。
なら、この雨奴は…男の人だ。
…どうしたもんか。
道端で、そんなものを、見せつけられたら、呆れ果てて、困り果てて…目を逸らしたくなる、見ないふりをしたくなる。
そんなものは、こいつが、雨奴になったから、許されるものなんだ…いや、いくら雨奴でも、許されやしないし、気色悪いけれど。
…だから、僕は。
組み敷かれた女の人を、どうにか、助けてやりたくて…傘を構えて…無我夢中の雨奴に向かって、走って。
思い切り、傘を、叩きつけた。
べちん!
そんな、手応え。
雨奴の、スライムのような、柔らかい体は…叩きつけられた衝撃で、腹のあたりに、傘がめり込むように、ぐにゃりとゆがんで…びちゃっ、と、青い滴を飛び散らせて…。
やがて、その、傘を叩き込まれて、へこんだ腹から、広がるように、スライムの体に、穴が広がって、目に見えるほどの、大きな滴を飛ばして。
そうして、弾け飛んで、跡形を失った。
僕は、雨奴から飛び退いて、顔を腕で庇って、滴が当たらないようにする。
長袖と、手袋…長靴、帽子…防水の素材…僕は目が悪いから、眼鏡…死にそうな猛暑でも、肌の露出はできない…青い滴に当たれば、肌から染み込んで、寄生されるから。
…雨奴の、死に際の飛散の青い滴に、害は残っていないと、証明されてはいるけど…誰もが、その青い水を恐れ、嫌悪するから…僕も当然、それを避けて、躱して、身を守る。
当たり前だろ。
さて。
雨奴に襲われていた、女の人は…。
当たり前だけど、とっくに、手遅れだった。
とっくに、死んでいた。
雨奴に触れられて、溶かされて、下半身が、液状になって、なくなっていた。
雨奴の青い水と、女の人の、溶けた体の赤い水が、美しく混じり合って、あざやかな紫色の水たまりが、広がっている。
こんなに美しく、死んでいる。
まるで、現実的じゃない。
はあ…。
「雨奴に出会しても手出しはするなという指示が出ているだろう、
夏越…僕だ…僕の名前、夏越余花…僕を呼ぶ声…人。
振り返れば、仕事先の、同期が居た。
雪待
「おはよう、雪待」
「おはよう」
「朝から、雨奴に会うなんて…気分は、あまり、良くないねえ」
「だから…せめて手出しはするな。襲われたわけでもあるまいし」
「…だって、ほら、人が、襲われていた」
僕は、紫色の水に浸る、下半身が溶けた、女の人を、雪待に見せた。
雪待は、とくに表情を変えずに…鞄から、携帯電話を、取り出して、肩を竦めた。警察を、呼ぶんだ。
「…とっくに死んでいる」
「でも…可哀想、じゃないか」
「雨奴に生殖機能はない」
「そういう、問題じゃ、ない、と思うけど」
青い雨に、呑み込まれて、意識を奪われて、寄生されて…雨奴になってしまった、人は…寄生前の、元の性別に従って、『異性を襲う』、という行動を、取っていた。
雨奴の目的は、繁殖。
よくある話だ。
けど、雨奴になると、生殖機能は、失われる…ただの、スライムになるし…雨奴に触れられた生物は、青い滴に触れられても、感染せずに、触れた先から、溶け殺されるし…どちらにしろ、繁殖は、不可能だった。
だから…異性として、雨奴に、襲われそうにならない限り…雨奴に、手出しをしてはいけない。
危険な行為は、するべきではない…たとえ、目の前で、知人が、襲われていたとしても。
「…それでも、さ、可哀想、だろ」
「誰がだ、夏越」
「…この人も」
「雨奴も…」
溶けた女の人は、別に、僕の知人でも、なんでもない…他人だ、知らない人だ…それでも、出来ない繁殖のために、化け物に、襲われるのは…恐ろしくて、苦痛だろう…それは、同じ人間でも、化け物相手でも、おんなじことだ。
だから、可哀想だ。
けど。
僕の、視界の先に…彷徨う、雨奴が居た。
全身から、真っ青の滴を、ぼたぼたと、滴らせて…全身を、引き摺るようにして、歩く…歩く、というより…這う…引き摺る…溶けながら…手探りで。
あれは、今際の際だ。
今に死ぬ。
雪待は、ため息をつく。
「…放っておけ」
「放って、おくよ」
「それで…あれが」
「ん…可哀想、だなあ…って」
「馬鹿を言え」
雨奴の、向かう先は…川だ。
真っ青の水が、流れる…増水した、青い川。
降り注いだ、青い雨が、水面に衝突して、死に果てた…死んだ水。
そして。
命の終わりを、悟った、雨奴が…入水自殺、して、染め上げた、遺骸の水。
彼らは…雨奴は、最期に、自死する。
水に、身を投げ…水面にぶつかって、弾け飛んで、死んで、溶けて、流れて…巡る。
「…彼らは、どうして、自殺、するのかな」
「蒸発して空に帰れば、また生と意思を持った青い雨として再生されるから…それを本能的に理解しているからだ、と言われているが」
「地上に、居たって、蒸発、されるのに?」
「…宗教家たちの妄想では…雨奴になっても、僅かに残っている元の人間の意識が、醜い姿で死に果てるのを拒絶して、身を投げている…などと言っているが」
「…へえ」
「いずれにしろ…こっちとしては余計な仕事が増えるからな。降り注がれること自体が害悪だが、入水自殺もいい迷惑だ…ああ、悪い迷惑だよ。最悪だ」
僕らが、眺めているうちに…滴る雨奴は…川沿いの、ガードレールと、金網を、必死によじ登って…そして。
真っ青の川へ、身を投げた。
僕は…川を、覗いてみる。
けど…雨奴の姿は、すっかり、青い川との、境目を失って…死んで、溶けて、消えて、流れていった。
「…可哀想…だと、思わない?」
「元々が同じ人間だからか?」
「…意識が、残っているなら、なおさら。そうでなくとも…やっぱり、自分で、命を捨てるって…よくないと、思うんだよねえ」
「少なくとも…雨奴に、元が同じ人間だったという観念は持たないほうがいい。境界を失えば、ろくな目に合わない」
「…そだね」
菜花ちゃんは…この目で、居なくなるところを、見た。
だから、菜花ちゃんが、戻ってくることは、ない、って、わかってる。
けど。
芽ちゃんは…見つかって、いない。
雨の日に、居なくなって、帰ってきていない。
もう、生きていない、のは…確かで…わかって、いるけれど。
「薄い、希望…なんだよ、ねえ」
境界を、失う。
死に果てた、彼らの、ように。
僕も。
僕は。
「…というか夏越。まだ
「…水とか、飲まずに済むから…生きてるだけ、じゅうぶん、だろ」
「自分の仕事を信用しろよ。お前がそれじゃ、むしろ一般人の方が被験者じゃないか」
「うちで、害は、出てない…でしょ」
雪待が、ため息をつく。
そういう、問題、じゃない、って?
てめえが、言うなよ。
水恐怖症と、脱水症状は…青い雨の、被災地域の、公害病の中に、含まれた。
僕を含めた、数百人の、水恐怖症患者は…水を飲まずに済む、無飲薬という、海外製の薬を、注射して…命を、繋ぐ。
一滴も飲まずに、生きられるなんて、ちょっと怖いし…少し、喋るのと、思考能力が、落ちるけど。
生きてるだけ、ましだから。
まあ。
いっそ死んだ方が、楽って、人も居るけど。
ね?
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