第2話

いちいち、降雨注意報なんて、出されなくたって…僕らは、傘と雨合羽を、持って歩くのは、当たり前になっている。

いつかの、ウイルス騒ぎの時のように…マスクではなく、雨具を持ち歩き…或いは、常に、傘をかぶって歩く。

ただの一滴でも、雨に当たっては、いけない…あの青い雨に、当たってしまえば…僕らは、意識を、乗っ取られてしまうから。

快晴すら、安心できない、夏が怖い。



仕事に、向かう途中…当たり前のように、そいつと、出会してしまった。

艶やかな、大きな滴のようなもの…そんな見た目の、ひとがた、人間…もともと、人間だったもの、人…真っ青な、大きな…人の形をしたスライム、って例えが、当てはまる。

それは、青い雨に当たってしまった人だ。

青い雨に当たって、呑み込まれて、寄生されて、意識を乗っ取られた、公害の被害者だ。

青いスライム人間…雨の感染者…誰が言い始めたかは、知らないけど…それのことを、僕らは、『雨奴あめやっこ』って、呼んでいる。

それで。

その、雨奴は…雨奴じゃない人間を、地面に押し倒していた…女の人を、組み敷いていた。

なら、この雨奴は…男の人だ。

…どうしたもんか。

道端で、そんなものを、見せつけられたら、呆れ果てて、困り果てて…目を逸らしたくなる、見ないふりをしたくなる。

そんなものは、こいつが、雨奴になったから、許されるものなんだ…いや、いくら雨奴でも、許されやしないし、気色悪いけれど。

…だから、僕は。

組み敷かれた女の人を、どうにか、助けてやりたくて…傘を構えて…無我夢中の雨奴に向かって、走って。

思い切り、傘を、叩きつけた。

べちん!

そんな、手応え。

雨奴の、スライムのような、柔らかい体は…叩きつけられた衝撃で、腹のあたりに、傘がめり込むように、ぐにゃりとゆがんで…びちゃっ、と、青い滴を飛び散らせて…。

やがて、その、傘を叩き込まれて、へこんだ腹から、広がるように、スライムの体に、穴が広がって、目に見えるほどの、大きな滴を飛ばして。

そうして、弾け飛んで、跡形を失った。

僕は、雨奴から飛び退いて、顔を腕で庇って、滴が当たらないようにする。

長袖と、手袋…長靴、帽子…防水の素材…僕は目が悪いから、眼鏡…死にそうな猛暑でも、肌の露出はできない…青い滴に当たれば、肌から染み込んで、寄生されるから。

…雨奴の、死に際の飛散の青い滴に、害は残っていないと、証明されてはいるけど…誰もが、その青い水を恐れ、嫌悪するから…僕も当然、それを避けて、躱して、身を守る。

当たり前だろ。

さて。

雨奴に襲われていた、女の人は…。

当たり前だけど、とっくに、手遅れだった。

とっくに、死んでいた。

雨奴に触れられて、溶かされて、下半身が、液状になって、なくなっていた。

雨奴の青い水と、女の人の、溶けた体の赤い水が、美しく混じり合って、あざやかな紫色の水たまりが、広がっている。

こんなに美しく、死んでいる。

まるで、現実的じゃない。

はあ…。


「雨奴に出会しても手出しはするなという指示が出ているだろう、夏越なごし


夏越…僕だ…僕の名前、夏越余花…僕を呼ぶ声…人。

振り返れば、仕事先の、同期が居た。

雪待ゆきまち

雪待蔓也つるや

「おはよう、雪待」

「おはよう」

「朝から、雨奴に会うなんて…気分は、あまり、良くないねえ」

「だから…せめて手出しはするな。襲われたわけでもあるまいし」

「…だって、ほら、人が、襲われていた」

僕は、紫色の水に浸る、下半身が溶けた、女の人を、雪待に見せた。

雪待は、とくに表情を変えずに…鞄から、携帯電話を、取り出して、肩を竦めた。警察を、呼ぶんだ。

「…とっくに死んでいる」

「でも…可哀想、じゃないか」

「雨奴に生殖機能はない」

「そういう、問題じゃ、ない、と思うけど」

青い雨に、呑み込まれて、意識を奪われて、寄生されて…雨奴になってしまった、人は…寄生前の、元の性別に従って、『異性を襲う』、という行動を、取っていた。

雨奴の目的は、繁殖。

よくある話だ。

けど、雨奴になると、生殖機能は、失われる…ただの、スライムになるし…雨奴に触れられた生物は、青い滴に触れられても、感染せずに、触れた先から、溶け殺されるし…どちらにしろ、繁殖は、不可能だった。

だから…異性として、雨奴に、襲われそうにならない限り…雨奴に、手出しをしてはいけない。

危険な行為は、するべきではない…たとえ、目の前で、知人が、襲われていたとしても。

「…それでも、さ、可哀想、だろ」

「誰がだ、夏越」

「…この人も」


「雨奴も…」

溶けた女の人は、別に、僕の知人でも、なんでもない…他人だ、知らない人だ…それでも、出来ない繁殖のために、化け物に、襲われるのは…恐ろしくて、苦痛だろう…それは、同じ人間でも、化け物相手でも、おんなじことだ。

だから、可哀想だ。

けど。

僕の、視界の先に…彷徨う、雨奴が居た。

全身から、真っ青の滴を、ぼたぼたと、滴らせて…全身を、引き摺るようにして、歩く…歩く、というより…這う…引き摺る…溶けながら…手探りで。

あれは、今際の際だ。

今に死ぬ。

雪待は、ため息をつく。

「…放っておけ」

「放って、おくよ」

「それで…あれが」

「ん…可哀想、だなあ…って」

「馬鹿を言え」

雨奴の、向かう先は…川だ。

真っ青の水が、流れる…増水した、青い川。

降り注いだ、青い雨が、水面に衝突して、死に果てた…死んだ水。

そして。

命の終わりを、悟った、雨奴が…入水自殺、して、染め上げた、遺骸の水。

彼らは…雨奴は、最期に、自死する。

水に、身を投げ…水面にぶつかって、弾け飛んで、死んで、溶けて、流れて…巡る。

「…彼らは、どうして、自殺、するのかな」

「蒸発して空に帰れば、また生と意思を持った青い雨として再生されるから…それを本能的に理解しているからだ、と言われているが」

「地上に、居たって、蒸発、されるのに?」

「…宗教家たちの妄想では…雨奴になっても、僅かに残っている元の人間の意識が、醜い姿で死に果てるのを拒絶して、身を投げている…などと言っているが」

「…へえ」

「いずれにしろ…こっちとしては余計な仕事が増えるからな。降り注がれること自体が害悪だが、入水自殺もいい迷惑だ…ああ、悪い迷惑だよ。最悪だ」

僕らが、眺めているうちに…滴る雨奴は…川沿いの、ガードレールと、金網を、必死によじ登って…そして。

真っ青の川へ、身を投げた。

僕は…川を、覗いてみる。

けど…雨奴の姿は、すっかり、青い川との、境目を失って…死んで、溶けて、消えて、流れていった。

「…可哀想…だと、思わない?」

「元々が同じ人間だからか?」

「…意識が、残っているなら、なおさら。そうでなくとも…やっぱり、自分で、命を捨てるって…よくないと、思うんだよねえ」

「少なくとも…雨奴に、元が同じ人間だったという観念は持たないほうがいい。境界を失えば、ろくな目に合わない」

「…そだね」


菜花ちゃんは…この目で、居なくなるところを、見た。

だから、菜花ちゃんが、戻ってくることは、ない、って、わかってる。

けど。

芽ちゃんは…見つかって、いない。

雨の日に、居なくなって、帰ってきていない。

もう、生きていない、のは…確かで…わかって、いるけれど。


「薄い、希望…なんだよ、ねえ」

境界を、失う。

死に果てた、彼らの、ように。

僕も。

僕は。

「…というか夏越。まだ無飲薬むいんやくを打ち続けているのか。副作用がひどいぞ…その喋り方」

「…水とか、飲まずに済むから…生きてるだけ、じゅうぶん、だろ」

「自分の仕事を信用しろよ。お前がそれじゃ、むしろ一般人の方が被験者じゃないか」

「うちで、害は、出てない…でしょ」

雪待が、ため息をつく。

そういう、問題、じゃない、って?

てめえが、言うなよ。


水恐怖症と、脱水症状は…青い雨の、被災地域の、公害病の中に、含まれた。

僕を含めた、数百人の、水恐怖症患者は…水を飲まずに済む、無飲薬という、海外製の薬を、注射して…命を、繋ぐ。

一滴も飲まずに、生きられるなんて、ちょっと怖いし…少し、喋るのと、思考能力が、落ちるけど。

生きてるだけ、ましだから。

まあ。

いっそ死んだ方が、楽って、人も居るけど。

ね?

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