第8話 パズルのピース
「どうして、あんな言い方をしたんだ」
リビングから出ると、蒜山がため息混じりに聞いた。こめかみに触れ、頭痛を抑えている。原因は、完全に天ヶ瀬だろう。呆れられている本人はというと、涼しい顔をしていた。
「これまでの関係者と話をする時に、喧嘩腰なのを許していたのは、事件解決に繋がると思ったからだ。何を調べているのかは知らないが、事件はもう解決しているだろう。どういうつもりだ?」
説教まじりの言葉にも、特に反省した様子もなく笑う。
「蒜山刑事は感じませんか?」
「なにを?」
「この事件は、本当に解決したのでしょうか。私には、そう思えないのです。納得いきません。あなたもそうでしょう?」
「しかしな。新しい被害者を殺して、自分の痕跡を消し終えた後に、家族が帰ってきたから驚き足を滑らせた。どう考えても事故だ。事件性はない。被害者を殺したのは樋口で間違いないのに、納得いかない理由が分からん。樋口がやっていないと言うのか?」
「いいえ。この事件の犯人は樋口さんですよ」
蒜山が絶句する。茶化されたと思ったらしい。ぴくぴくと口元がひきつっていて、かなり怒っている。拳が握りしめられ、今にも殴りかかりそうだ。さすがにそれは避けられないはずだ。殴る前に止めなくては。血を見ることになる。蒜山を怒らせるのも目標としているのか。もしそうだとしたら、命知らずだ。死に急ぎかもしれない。
「馬鹿な俺にも分かるように説明してくれないか? 何を言っているのか、さっぱり分からない」
理性が働いて、殴るのは耐えていた。それでも、返答次第ではいつでも殴れそうだ。そんな綱渡りの状態も気にせず、天ヶ瀬は口に手を当てる。
「この事件は、まだ終わっていません。もう少し調べる必要がありそうです。おそらくとても面白いことになりますよ」
目は爛々と輝き、かなり興奮している。この状態になると手が付けられない。本人が納得するまで終わらないだろう。
「被疑者死亡で事件は終わりだと公表するはずだし、捜査本部も解体されるだろう。調べるとしたら、非公式なものになる。今までみたいな好き勝手はできない。俺も別の事件に駆り出されれば、協力する時間もほとんど取れなくなる。それでもいいのなら、好きなだけ調べろ。ただし、トラブルだけは絶対に止めてくれ」
蒜山も止められないと判断して、許容レベルをしっかりと伝えた。昔、きちんと伝えていなかったせいで、とんでもない事態になったから念には念を入れている。
「承知しております。大人しく調査をするとお約束しましょう」
「……桃洞君、君がきちんと見張っていてくれ」
「任せてください」
言葉だけでは信用できないようで、僕に監視をするように求めてきた。これ以上、頭痛の種を増やさないと蒜山が警察を辞めてしまうおそれがあるので、僕は勢いよく頷いた。
「信用が無いですね。わざと怒らせることは、もうしませんから」
「それをしたら、もうさすがに庇いきれないからな。ただでさえ、今回の事件で風当たりが強くなっている。これ以上の失態は、俺の警察人生が危うくなる。本当に気をつけてくれ」
さらに注意を重ねると、警視庁に戻る必要があるからと言って別れを告げる。残された僕達は、どこの部屋へも入る許可を得ているので、さっそく剛の部屋を見に行くことにした。
二十四歳男性の部屋といった乱雑な様子だけではない中を見て、僕は絶句してしまった。多少の汚れは気にならないが、さすがにこれは斜め上すぎた。
「えっと……色々と凄いですね」
「恨みの闇鍋でしょうか。いい趣味とは言えませんね」
天ヶ瀬の言葉は的を射ていた。この部屋は恨みで溢れ、いるだけでも気味が悪くなった。部屋を埋め尽くす大量の写真。その全部が人を写したものだが、それが誰なのか判別できない。顔の部分が何かで傷つけられていて、白くなっているせいだ。おそらく、カッターかなにかだろう。その傷の多さが、強い感情を表していた。恨み、妬み、怒り。
「どうやら、精神科に通っている成果はまだ出ていないようですね。それとも、改善された結果がこれなのでしょうか」
「どちらにしても、いい状態でなかったのは確かですね」
天井から壁全面、隙間なく貼られた写真を見ながら、僕達はこの部屋の主に思いを馳せた。ここで数時間前に殺された。信頼されていた医者に襲われた時、彼の頭を占めたのは驚きだろうか。それとも怒り、憎しみ、負の感情だったのか。まさか自分が死ぬとは予想もしていなかっただろう。
樋口は何を考えていたのか。剛を殺したのは樋口で間違いない。彼はどうして剛を殺す必要があったのだろう。
僕はこの時、事件に似通っている小説をまだ読んでいなかった。読んだ方が事件の全貌を把握出来たかもしれないが、逆に片寄った考えに取りつかれるのではと心配した。事件が解決したら、小説を書く参考にするために、ゆっくりと読もうとしていた。しかし、今は何が何なのか分からなくて、これから起こることを知るために読みたい気分だった。
「家族仲はどうだったのでしょう。二人とも、悲しんでいるようでしたけど、これを見てしまうと違う可能性も出てきますね。この部屋に入ったことは無かったのでしょうか。散らかっているから、掃除はしていなさそうですし」
「そうですね。家族なら知っていた可能性は高いです。最近は関わりが薄かったかもしれませんが。彼の生活を調べておいてもらいましょうか。両親から聞いた話とは違う話が聞けそうです。彼の死を本当に悲しんでいるのか……」
「天ヶ瀬……あなたは、この事件をどうするつもりですか?」
思わず聞いてしまったのは、自分でもよく分からない不安を感じたからだ。このまま進んで、本当にいいものだろうかと。
「あるべき形に収めるだけです。この事件のあるべき形にね」
そのはっきりとした言葉に、余計に心配が増した。こんな気持ちになるのは初めてで、不信感を抱いた自分が信じられなかった。僕の気持ちは天ヶ瀬に伝わっていて、しかし怒りはせずに、むしろ嬉しそうに微笑んだ。
「だから君が好きです。これからも私の傍にいてください」
「あなたが嫌だと言わない限りは、ずっと傍にいますよ」
この言葉は本心だった。天ヶ瀬が嫌がらない間は、ずっと傍にいると決めていた。それが僕の役目であり、使命でもあった。僕の答えに満足したようで、彼は口元に手を当てている。
「ありがとうございます。これで安心して突き進めそうです」
僕の存在で天ヶ瀬が喜ぶのなら、どこまでもついていく。たとえそれが倫理に反するものだとしても。
剛の部屋を捜索し終えると、僕達は行きに送ってきてくれた人に乗せられて家へと戻った。天ヶ瀬が事件の整理をしたいと、そう提案し僕も異論はなかった。戻ってくれば、たった数時間のことなのに、随分と久しぶりに感じた。やはり家は落ち着く。力が抜けて息を吐き、ソファに体を預けた。精神的に疲れた。顔を合わせて、話をしたこともある人の死に、思っていた以上にショックを受けていたようだ。たとえ犯人だったとしても。いまだに死んだのが信じられない。遺体を見ていないから実感が湧かないのか。
テレビをつけた。先ほどまでいた家の外観が映る。レポーターの男性が緊張をした様子で、現在把握している情報を伝えた。
『……こちらの閑静な住宅街で、恐るべき事件が起こりました。世間を恐怖の渦に陥れていた連続殺人事件、その新たな被害者と犯人が死亡しました。詳しい状況は現在捜査中ですが、当番組のコメンテーターでもある精神科医の樋口浩三氏が関わっているという情報が入っています。そちらも分かり次第、お伝えいたします』
その他の番組もザッピングしてみたが、どの番組も事件についての報道をしていた。しかし、まだ樋口が犯人だという情報は広まっていないようだ。まあ、時間の問題だろうが。
「これから何をするつもりですか? 今日中にも事件の全容はほとんどの人が知ることになりますよね。蒜山さんの力を借りるのも難しい中では、やれることも限られます」
同じようにテレビを観ていた天ヶ瀬は、僕の質問に視線を固定したまま答える。
「そうですね。……援軍を呼びましょう。きっと手を貸してくれるはずです。このまま一気にカタをつけてしまいましょう」
そう言って天ヶ瀬が呼び出したのは、予想していた通り未央と篠原だった。樋口の身に何が起こったのか、すでに耳に入っている。ニュースでしつこいぐらいに報道されて、それに警察にも話を聞かれただろうから当然だ。二人とも不安そうな表情をしながら、その気持ちを拭うためだろうか手を繋いでいた。きっと、事件は解決したはずなのに、呼び出された理由が分からないのも不安にさせている要因だ。
「あの、私達はどうして呼び出されたのでしょう? ……もしかして、樋口さんとずっと一緒にいなかったのを責められるんですか?」
「た、たしかに今回の件は申し訳ないと思っている! でも、こうなると予想できるわけがないだろう。……未央さんは悪くないから、どうか彼女は責めないで欲しい」
未央を庇うために、篠原が一歩前に出た。どんな怒りも受け入れると、そういった覚悟である。しかし、その覚悟は不要だ。
「あなた達を責めるつもりはございません。こうなるのは誰も予想出来なかったのですから。そうでしょう?」
二人の姿がツボに入ったらしく、楽しそうに笑っている天ヶ瀬は、向こうからすれば悪役に見えたのかもしれない。安心した様子はなく、むしろ未央の姿をさらに隠した。
「話を聞いた時は驚きました。まさか、樋口さんが本当に犯人だったなんて……でも、これで事件は終わったのですから、もう安心ですよね?」
事件は終わった。もう関わりたくない。そう未央は言いたいのだ。協力はしたが、完全に心を許していない。用がなければ、そのまま関係を終わらせたいようである。しかし、天ヶ瀬がそう簡単に解放するはずがなかった。
「思っていたよりも冷静ですね。もっと怒っているかと心配していました」
「どうしてですか? 犯人は見つかったのですから、十分ですよ」
「たしかに見つかりましたが、すでに亡くなっていました。普通ならば、罪を償う前に死んだ怒りを感じて、やり場の無さに攻撃されるかと覚悟していたのですが……お二人とも、それにしては冷静な態度ですね。とても立派です」
攻撃して話を聞き出す作戦は止めたのではないか。どう考えても怒らせようとしているとしか思えない。しかし、そのやり方は今回に関して上手くいった。
「……まだ信じられないからです。突然犯人が死んだと聞かされて、それが同じ被害者家族という立場の人で、感情がぐちゃぐちゃになっているんですよ」
篠原の後ろから出てきた未央は、近くで見ると目元と鼻が赤かった。ここに来るまでに泣いたのだと、はっきり分かる。篠原も未央と同じ気持ちらしく、繋いだ手を離さない。
「現実を受け入れたくないんです。受け入れたところで、死んだ姉は帰ってこないでしょう。この件を自分の中で処理するのに、時間がかかります。それを責めますか?」
話しながら、彼女は静かに涙を流した。その涙を拭わず、天ヶ瀬を睨みつける。
「いえ、責めるつもりは全くありません。むしろ提案したいのです。受け入れるために、何があったのかを知りましょう」
「知ってどうするの? 意味なんてある? 先ほども言ったけど、知ったところで姉は帰って来ないですから」
「そうかもしれません。しかし、これから生きていく人達のために、知ることが救いになる可能性があります。亡くなった人は戻りませんが、生きている人にはこれからの生活があるのですから」
どこか冷たく聞こえる言葉だったが、未央には届いた。やっと涙を拭うと、好戦的な笑みを浮かべた。
「そうね。これからの生活があるのは私達です。前に進むために、あなたにもう少し力を貸しましょう」
「い、いいの? 今回の件でショックを受けたんだから、もうこんな人達と関わる必要はないよ。無理やり言わされたのなら、俺がこんなに奴らとは縁を切らせるから」
「いいのよ、篠原さん。あなただって本当は気になっているでしょう。この事件があっさりと終わって、同じように戸惑っていたじゃない。この人達ともう少し付き合いましょう。ね?」
篠原は渋っていたが、未央に説得されて受け入れた。二人の協力をなんとか得られた天ヶ瀬は、こうなって当然とばかりに力強く頷いた。そして二人に意味ありげな視線を向ける。
「それでは、さっそく始めましょう。時間は有限ですから」
「そうは言ってもどうするつもり?」
天ヶ瀬以外の全員が思っていることを、代表して未央が質問する。それは、僕もずっと気になっていた。僕からは、そういうことは聞けないので、質問してくれる人がいるのはありがたい。しかし答えてくれる保障はない。推理をする時まで、何も教えてくれないことだって今まで何度もあった。決して意地悪ではなく、そちらの方がスムーズにことを運べるからだ。
彼の頭の中では、常人には理解できない考えが繰り広げられている。その邪魔をすると、電池が切れたみたいに機能を停止してしまう。一度こうなると、戻るまでが大変だ。前に蒜山の代理がやらかして、事件解決に時間がかかったことがある。その時は本当に大変だったので、二度とそういう事態にならないように気をつけていた。どこが境界線かは何となくわかる。未央が越えそうになったら、その前に止めればいい。とりあえず二人のやり取りを見守ることにした。いつものことだが、篠原も僕と同じだった。我の強そうなタイプに見えるのに、実際は控えめな性格らしい。それか、事件のせいでこうなった可能性もある。もしそうなら、事件は様々な人に影響を与えている。悲しい話だ。今まで話を聞いた事件の関係者は、大なり小なり、みんな深い傷を負っていた。きっと未央もそうだ。表に出さなかったとしても。傷は、いつか癒えるのだろうか。同じような立場になっていない僕には、いつまでも分からない感情だ。幸運なことでもあるし、天ヶ瀬の傍にいるには不足でもある。それを考えると思考が良くない方向に進むので、目の前の話に意識を戻した。
「あなたは樋口聖子さんについて、どれだけ知っていますか?」
「樋口聖子さんって……最初の被害者のことですよね。……自分の奥さんを殺したなんて、本当に信じられないわ。ごめんなさい。どれだけ知っているのかと聞かれても、面識は無かったから」
「聖子さんは、昔教師だったらしいですから、教え子だった可能性はないですか? お二人のどちらでも」
「「いえ」」
即答だった。しかも声が被った。はっと顔を見合わせて、気まずそうな表情を浮かべている。
「随分と返事が早くて驚きました」
わざとらしく驚いた様子で、天ヶ瀬がすぐにそれを指摘した。どんなに小さいことでも見逃さないし、今の返事の速さは異常だった。二人も自覚しているらしい。
「姉が被害者になってから、ずっと理由を探していたの。姉には殺される何かがあったんじゃないかって思って。篠原さんと一緒に調べたのよ。特に最初の事件については念入りに。それで関係がないことは分かっていただけよ。怪しまないで」
「申し訳ありません。疑っているつもりはなかったのですが」
嘘だ。しかし一応辻褄は合っているので、とりあえず納得している。天ヶ瀬につられて、どうも敏感になって仕方がない。全てが怪しく見える。僕は新鮮かつ第三者目線でいないと。物語に偏りができるのは良くない。そう自分に言い聞かせた。
「でも、どうしてそんなことを聞くの? 警察が被害者の共通点については調べているはずよ。後はたくさんのマスコミとかが。それでも何も見つからなかった。今さら、新しく見つかるとは思えないけど……」
「よく考えてみましょう。ここにいる全員で力を合わせれば、新たな発見が出来るかもしれません。それが事件を違った視点で説明してくれるはずです」
「……それならいいけど。あなたの好奇心に巻き込まれているだけな気がしてきた」
呆れて頭が痛くなったのか、こめかみを押さえた未央だったが、そのまま帰りはしなかった。むしろ吹っ切れたのか、腕まくりをして気合を入れる。
「ここまで来たら、とことん最後まで付き合うわよ。最後までね」
そこから僕達四人は、夜が明けるまで事件についての意見を交わした。しかし、一から話合っても、新しい発見はなかった。途中で眠気に耐えられなくなった未央が横になり、そのまま寝てしまった。隣に座っていた篠原は、起こさないようにそっと彼女の髪を撫でる。心の底から愛おしいといった様子で、見ているこちらも優しい気持ちになった。
「未央さんのおかげで、俺はこうしていられるんだ。彼女がいなかったらと思うと……想像もしたくない」
「本当に未央さんのことが好きなのですね。お二人を見ていると、支え合って寄り添っていると、そう感じます」
天ヶ瀬も、二人の姿に目を細める。彼は女性に対して紳士的だが、特定の誰かと付き合っているところを見たことがない。そうとはいえ、不特定多数の人間と遊んでいるわけでもない。人と深く関わらず、どこか一線を引いているのだ。僕と蒜山に気を許していることが珍しい。そういうわけで、未央を多少は気に入っていたとしても、異性の存在に嫉妬はしない。
「ああ。彼女に会えて良かった。心の底からそう思うよ」
彼女の髪を撫でながら、篠原は幸せを噛み締める。彼からは見えないが、未央は完全に眠っているわけではなかった。まどろみの中で僕達の会話を聞いていたらしく、目は閉じていたが口角はあがっていた。しかし眠気には勝てずに、そのまま意識を落とした。
眠気に襲われている中で、これ以上話してもいい考えは浮かばない。そういう結論に至り、解散することになった。寝ている未央の体を抱きあげた篠原は、何度も頭を下げて帰っていった。その後ろ姿を眺める天ヶ瀬は、何かが違った。どこか悲しげで、しかし同時に満足そうでもあった。
「事件は解決ですか?」
その姿にピンとくるものがあり、僕は何気なく尋ねる。長年一緒にいたから、すぐに分かったのだ。
「君の目は誤魔化せませんね。あともう少し情報を掴むことが出来れば、終わらせられるでしょう。しかし今日は疲れました。明日も動きますので……というよりもすでに今日ですが、私達もそろそろ休みましょう」
大きなあくびをして、天ヶ瀬が休むことを提案した。僕も限界だったので、素直に受け入れる。明日動くと言っているのだから、事件を解決するのに大きく行動するつもりなのだ。最後までしっかりと見届けるためにも、万全の状態でいなくては。
簡単に片付けをすると、天ヶ瀬に挨拶をして自室で休ませてもらう。しかし、ベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。遠足前に、わくわくしている子供のような気分だろうか。僕は事件について自分の答えを持たないから、彼が推理するところを見るのは好きだ。その一挙一動を逃したくない。
こういう時に寝るためには、方法は一つである。僕はベッドの脇に置いていた本に手を伸ばした。これまでに書いてきた自身の小説だ。どうにか眠りたい時には、この方法に限る。とりあえず真ん中の辺りでページを開くと、文字を追っていく。そうすれば、すぐに意識が闇にしずんだ。自分の書いた小説を読むと眠くなる。今の状態にぴったりなものだった。
小説のおかげで、ぐっすりと昼まで睡眠をとることが出来たので、目が覚めると爽快な気分だった。大きく伸びをすると、すでに起きているだろう天ヶ瀬のいるリビングへと向かった。
「おはようございます」
「おはようございます」
やはり起きていた天ヶ瀬は、すでに着替えた状態で優雅に紅茶を飲んでいた。その姿からは、事件を解決しかけているようには見えない。探偵とも思われないだろう。
「今日は、これからどうするつもりですか? 動くと言っていましたよね。まず、どこに行くのでしょう。場所によっては移動手段が必要でしょうから、もしそうなら今から手配しますので。目的地を教えてもらえますか?」
今ならなんでも出来そうなので、気合を入れて指示を仰ぐと、天ヶ瀬が座るように視線で促してくる。
「まあ落ち着いてください。そう慌てる必要はありません」
「そうだ。それよりも、おにぎりを握ってくれないか?」
「蒜山さん! 来ていたんですか」
キッチンから聞こえてきた声に、驚いたがそれ以上に嬉しくなった。昨日はしばらく一緒にいられないと言われていたので余計にだ。忙しいとしても、時間を割いて来てくれたのだろう。天ヶ瀬が最優先事項だからだ。それが分かって嬉しい。
「ああ。事件の重要な話があるから来てくれと言われれば、駆けつけないわけにもいかないだろう。後処理は部下に任せたから、二、三日だけならここにいても平気だ。優秀な部下がいて、本当に助かった」
その哀れな部下は、今頃恨み節を吐き出しているのではないか。平気だとは言っているが、おそらく調整するのは大変だっただろう。目の下にあるくまが物語っている。数時間も仮眠をとってなさそうだ。そんな状態の中で来てくれた蒜山を労るために、僕は腕によりをかけておにぎりを作った。一気に食べた蒜山は、食欲が満たされたために眠気に襲われた。しかし話を優先する。
「頼まれていた資料だ。……しかし、これが本当に事件に関係があるのか?」
「パズルのピースです。全てを完璧にした方が達成感があるでしょう。それに、重要な情報ですから用意していただき感謝いたします。こんな短時間でここまで。やはり蒜山刑事はとても優秀ですね」
「褒めても何も出ないぞ」
「本心です」
「どうだかな」
素っ気なく切り捨てているが、実はかなり喜んでいる。引きしめようと意識している口元が、歪な形になっていた。蒜山が渡してきた書類を受け取った天ヶ瀬は、パラパラとページをめくっていく。流し見をしているようで、全ての情報は頭の中に入っているのだ。一センチほどの厚みがあったのだが、数分もしないうちに読み終えた。そして口元に手を当てる。
「予想通りでした。これで全てのピースが揃いましたよ」
「本当か? 俺には信じられないが」
「蒜山刑事が用意してくださった資料が素晴らしかったおかげです」
「そういうのはもういいから、早く説明してくれ」
眠気で苛立ちもあるのか、蒜山はすぐに答えを求めた。しかし、彼は天ヶ瀬の性格をまた忘れていた。こういう時にどうする男なのかを。僕は予想出来たので、あらかじめ耳を塞ぐ。すぐに、蒜山の怒鳴り声が塞いだ耳越しに聞こえてきたから、大体こんなことを言ったのだろう。
「それは、後でのお楽しみにしましょう」
蒜山が怒るのも無理はない話だ。警察の立場なので余計にである。その後、怒り心頭の彼を何とかなだめた。僕の作ったおにぎりがいい仕事をしたので、天ヶ瀬には感謝してもらいたい。
さて、天ヶ瀬がパズルのピースだと絶賛していた資料なのだが、事件解決において重要なものであるのは確かだったので、簡単にまとめて載せておく。まずは、公園内で起こった殺人事件について。
○○公園内絞殺事件について
被害者氏名:
年齢:三十二歳
性別:男
職業:近隣カフェ店員(正規雇用)
死因:絞殺
凶器:マフラー(青)、既製品ではなく手製。天ヶ瀬氏の指摘通り、連続殺人事件とは材質が異なる。DNAも検出されず。一つ結びにもされていなかった。
死亡推定時刻:午後三時から三時二十一分の間(被害者が最後に目撃されてから発見されるまで)
足取り:樋口浩三主催による集会に参加し、デモが起こった際に姿をくらます。公園で発見されるまでの動きは不明。
殺害方法:後頭部に打撲された痕跡あり。意識が混濁していたところを絞殺されたと考えられる。この方法も今までとは異なっている。以上より、連続殺人事件とは別件というのが捜査本部の結論である。
被疑者について:被害者とトラブルがあったとして、
次に、連続殺人事件最初の被害者、樋口聖子の経歴について。ここでは、蒜山が用意したものと、前に天ヶ瀬が頼んで篠原が用意したものを載せておく。
《蒜山の資料》
樋口聖子、六十八歳。茨城県出身。
△△大学教育学部卒業後、教員採用試験に合格し、茨城県にある小学校に赴任。それから定年退職するまで、各地の小・中学校を点々としていた。四十代で学年主任、五十代で校長にもなる。同僚や保護者、生徒からの評判は良く、辞める際は教え子が集まって慰労会が開かれた。通夜、葬式は身内のみで行われたが、今でも各地からお悔やみの手紙が届いている。
夫となる樋口浩三と出会ったのは、聖子が三十歳の時、知人の紹介だった。二人はすぐに意気投合し、半年の交際期間を経て結婚。子供は出来ず、というよりも仕事があるために、あえて作らなかったとのこと。結婚生活は良好だった。
教師を辞めてから、犯行現場となった東京の家に引っ越す。近所では評判のおしどり夫婦で、喧嘩している姿を目撃されたことは無い。殺害動機を挙げるとするならば、金銭が最有力候補とみられる。家の購入費用は、全て聖子が負担していた。彼女の父親がとある会社の役員で、資金を援助してもらったのだ。父親の死後、会社は弟が引き継いだが、聖子も一般人なら目が飛びでるほどの遺産を相続した。その財産目当てで殺害した可能性が高い。
樋口浩三が死亡推定時刻にアリバイがあった件だが、その後の捜査によりアリバイの信ぴょう性が無くなる。たしかに樋口はテレビ局にいた。しかし、実はそこに聖子もいたのだ。呼び出したわけでは無い。自宅で睡眠薬を飲ませ意識を失わせて、車のトランクに詰め込み、何食わぬ顔でテレビ局に行った。そして収録の合間に、あらかじめ用意していたマフラーで首を絞めた。妻に手をかけながらも、平然とした様子でカメラの前で笑っていた。収録後、家に帰った樋口は遺体を中に運び入れ、今発見したばかりに警察に通報。第一発見者を装った。再捜査したところ小細工をした証拠が出た。樋口の所有している車のトランクに、聖子の毛髪や凶器であるマフラーの繊維とDNAが見つかった。
それ以降の事件では、樋口にアリバイはなし。つまり犯行は可能で、樋口が犯人だということに疑いようはない。これが事件の流れだと考えられている。
《篠原の資料》
樋口聖子(旧姓 山下聖子)
1954年8月24日生まれ68歳
茨城県水戸市出身
長女、弟一人(太一)、父八郎(山下株式会社社長)、母みよ
△△小学校、××中学校、○○高校、△△大学卒業
元教員、60歳で定年退職後は、近所の住人を集めて趣味だった生け花教室を開く
樋口浩三とは見合い結婚、子供無し
51歳の時に母が、55歳のときに父が死去、遺産は弟と折半(推定5億)、聖子の死後は遺言で夫の浩三に全て相続
浩三はマネージャー(28歳)と再婚予定
茨城県水戸市□□霊園に納骨(山下家所有)
聖子が殺された日は結婚記念日で、毎年恒例であるお祝いの準備をするために家にいた。荒らされた形跡はなく、顔見知りの可能性が高い。侵入されたように見せかけたか。防犯カメラに姿が映っていなかったことからも、土地勘があるか、入念の下調べをしたと考えられる。
その時間、樋口浩三のアリバイは確認されている。ーいつもと異なる点をあげるとするならば、毎年結婚記念日に浩三は必ず休みをとるのだが、今年に限っては仕事を入れた。そして仕事に行く際は、マネージャーに迎えに来てもらっているのだが、その日は自身の車で現場に向かった(聖子名義)。
車は事件後、一度も乗っていない。ガレージに放置されている。
要点だけをまとめると、だいたいこういった感じである。小説を書く際に、参考のために見せてもらったので抜けはない。この資料から、天ヶ瀬は事件の全貌を把握した。
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