第7話 最悪な事態


「じょ、冗談ですよね? ……そんな、まさか」

 起床してすぐに天ヶ瀬から伝えられた事実を、僕はすぐに理解できなかった。理解するのを拒否していた。それぐらい、今言われた話が信じられない。意味が分からない。冗談を言ってからかっているのだとも思ったが、さすがにこんな悪質な嘘はつかないはずだ。それに、冗談を言っている顔でもなかった。しかし、とにかくもう一度聞きたかった。

「ほ、本当に……樋口さんが亡くなったのですか?」

 口にしてもなお、現実味が湧かなかった。樋口というのは、僕の知っている人物で合っているのか。もしかして違う樋口がいるのではないかと、現実逃避しかけた。すぐに意味が無いと、現実を受け入れたが。

 樋口が死んだ。事件現場で別れてから、数時間しか経っていないうちに。

「まさか殺されたのでしょうか。連続殺人犯によって? それとも、彼が犯人だと気づいた人が他にもいて、被害者の関係者が復讐をしましたか?」

 僕の問いかけに、天ヶ瀬は首を横に振った。

「話はもう少し複雑なのですが、とりあえずは事故ということになっています。階段から落ちて頭を打ち、病院で死亡が確認されたと蒜山刑事が教えてくれました」

「……事故」

 なんていう結末だ。僕は昨日見た樋口の顔を思い出す。自信満々に人を操り、デモを引き起こしていた。絶対にその時には、数時間後に階段から落ちて死ぬことになるとは考えていなかっただろう。きっと、一番生に貪欲だった。それなのに、すでにこの世にはいない。いまだに実感ができていない。昨日感じていた不穏さが、予想していなかった形で現実になってしまった。

「それでは事件はどうなるのですか? うやむやなまま終わってしまうのですか?」

 どんなにアリバイを崩しても、動かざる証拠が見つかっても、樋口に直接突きつけられない。もし証拠が見つからなければ迷宮入りするかもしれない。

 どうして昨日、こんなタイミングに事故で亡くなったのか。文句を言いたくても、相手はもうこの世にはいない。やりきれない気持ちで吐き捨てれば、天ヶ瀬は僕の肩に手を置く。

「事情が少し複雑だと言ったのは、樋口さんがただの事故死ではないからです。どうやら、彼は新たな犯行をした直後に亡くなったようなのです」

 その言葉も、理解するのに時間がかかった。しかし頭の中で噛み砕くと、思わず叫んでしまう。

「やっぱり、犯人だったということですか!?」

 天ヶ瀬が大きな声をあまり得意としていないと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。現行犯なら犯人で間違いない。疑いようのない事実だ。すっきりとしない終わり方ではあるが、事件は解決したと言ってもいい。

「とにかく現場に行ってみますか」

「はいっ」

 昨日、僕がぐっすりと寝ている間に何が起こったのか。事件がどのように終わりを迎えたのか、とにかく知りたい。僕は勢いよく提案に頷く。そして、今までで一番の早さで準備を終えた。


 新たな殺人事件が起き、そして樋口が階段から落ちて亡くなった現場は閑静な住宅街だった。最後に樋口を見た場所からは県をまたいではいたが、車で二時間、交通機関を使えば二時間もかからない距離だった。移動するのは不可能ではない。

 疑問なのは、何故わざわざここに来て殺人を行ったかである。天ヶ瀬に疑われているということは、警察も疑いを抱いていると察したはずだ。監視をつけられる前に殺しておこうと考えたのか。

 デモの時に起こった殺人は、おそらく模倣犯の仕業で間違いない。つまり一週間ごとのルーティンを繋げるために、焦っていたのかもしれない。そのせいで足を踏み外した。最後の瞬間、彼は何を考えたのだろう。後悔したのか。自分の犯行を。殺した人に懺悔の気持ちは感じたのか。いや、きっと死ぬと分かっていたとしても後悔しそうにない人だった。

 僕は、特に目立つこともないクリーム色で二階建ての家を見上げる。外観では、ここで二人の人間が亡くなったようには思えなかった。隣に建っている家と変わりがない、ごく一般的な家だった。しかし今は規制線がはられていて、その周りでは事件の匂いを嗅ぎつけた報道陣と野次馬たちが群れを生していた。何か面白いものを見ようと、必死に首を伸ばしている。好奇心で血走る目。それぞれの手に持っているカメラやスマホのレンズが、無機質にこちらに向けられていた。どんなに生前有名だった人でも、亡くなると人の好奇心を満たすためだけの存在になりさがってしまう。

 しかも今回は殺人事件で、被害者も犯人も同時に亡くなっているから注目を集めていた。まだ知られていないが、犯人が樋口だという話が広まれば、さらに注目されることとなるだろう。それぐらいセンセーショナルである。今日の午後にでも、人の数は倍増しそうだ。できる限り顔を映されないように気をつけながら、規制線の中に入っていく。警察には見えない僕達に向けられる視線を無視して。

 話をしないが顔は知っている制服の警官が、軽く一礼して規制線のテープをあげてくれる。その横を通り抜けると、腕を組んで仁王立ちしている蒜山が出迎えた。きっと昨日から慌ただしかったのか、全体的にくたびれている。僕達の送迎を部下に任せたぐらいだ。一睡もしていない目の下にくまが浮かび上がっていた。充血もしていて、それが寝不足のせいなのか、事件で興奮しているせいなのか読み取れなかった。

「まんまとやられたよ。まさかこんなことになるなんて。警備をつけるべきだった。いや、監視か。とにかく少し考えれば、こうなることは予想出来た。完全に不手際だ」

 苛立ちを抑えきれず、頭をかきむしる。容疑者の次の犯行を止められず、そして死なせてしまった。全てが後手に回ってしまったと、自分を責めるのも無理はない。最悪の場合、蒜山が責任を取らされる可能性もある。そうすれば、今までのように天ヶ瀬が事件に協力しづらくなる。悪いことだらけだ。

「遺体はすでに運び出している。どちらのもな。どっちの話を先に聞きたい? 新しい被害者? それとも犯人だった樋口か? 好きな方を選んでくれ。昨日からずっとかかりきりだったから、そらで言えるぞ。一言一句間違えずにな」

 どれだけストレスが溜まっていたのか、口角を片方上げて凶悪な笑みを浮かべた。元々、どちらかと言えば威圧的な雰囲気があるのに、これでは人一人ぐらい殺していそうだ。周りの人も怖がっている。そんな怖さをものともせず、天ヶ瀬はいっそ場違いなぐらいに明るく、間の抜けた声で言った。

「それでは、お言葉に甘えて。時系列で何があったのか教えてください。二人分の話を同時に聞きたいです」

 天ヶ瀬らしい言葉に気が抜けたのか、蒜山が少しだけ柔らかい表情になった。肩の力も抜ける。天然か確信犯か、どちらでもありえた。とにかくリラックスした蒜山は、そこから昨夜何が起こったのかを説明し始めた。


 公園で遺体が発見され、そうそうに天ヶ瀬が帰ったあと、樋口は未央と篠原と共にしばらく現場にとどまっていた。しかしその後、警察の調べが終わると、彼はテレビ中継をしているなじみの顔を見つけた。そして警察が止める暇なく、彼らの質問に答え始めてしまったのだ。間に入る前に、連続殺人事件が起こったと言ってしまった。もちろん生中継だったので、全国放送で流れた。一度言ってしまったものを取り消すのは難しく、その時点で蒜山を含む警察は樋口に対して怒り心頭だった。

 まだ容疑者になっていなかったが、彼は怪しかった。それに、天ヶ瀬の指摘で公園での殺人は、連続殺人事件との関係が薄いという判断が下されていた。しかし樋口が勝手な憶測を、さも事実のように話してしまったから、その話が事実無根であると否定して回るはめになった。後始末にかかる時間や労力を考えて、樋口に対する抗議の声が高まり、協力関係を終了すべきという声もあがった。これ以上捜査の邪魔をされたら困るので、蒜山は次の捜査会議で進言するつもりだった。

 とにかくすぐに樋口をカメラの前から移動させ、厳重注意をした。本人はどこ吹く風で全く反省せず、むしろデモを収束するのに時間がかかったこと、新たな犠牲者を出したことを逆に責め立てた。その言い方は完全に警察を馬鹿にしたもので、おそらく理性を働かせなかったら一発殴っていたかもしれないと、蒜山は苦々しげに言った。この場にいさせたら、警察が暴行事件を起こす。そう心配して、樋口をさっさと家に帰らせることにした。もちろん安全のために警察が家まで送ったのだが、彼が家に入ったのを確認すると、その場から離れてしまった。職務に不真面目だったからではない。デモの始末をするために、とにかく人手が足りなかったのだ。タイミングが悪かった。それに尽きる。

 送った警察がいなくなったのを確認して、すぐに樋口は外に出た。そして直接、被害者の住んでいる家へと向かった。つまり行き当たりばったりの犯行ではなく、あらかじめ被害者にあたりをつけていた。

 その事実を、天ヶ瀬は全く驚いていなかった。蒜山に、樋口が精神科医として働いていた時の患者を調べるべきだと伝えた。それを聞いてすぐに、蒜山は近くにいた部下の一人に樋口の病院に行けと命令した。

 とにかく狙いを定めて被害者の家まで行った樋口は、訪ねるには微妙な時間であるのにも関わらず、話術で上手く丸めこんで中へと入った。被害者は、宮川みやがわつよし二十四歳。県内の大学に通う大学院生だった。両親と共に住んでおり、昨日は残念なことに家に一人でいるところを襲われた。

 主治医の樋口にまったく警戒心を抱いておらず、剛は多少の抵抗はしたが、彼は樋口に比べて華奢だった。一気に首を絞められ、数分もしないうちに息絶えた。もちろん凶器はマフラーで、色は青だった。夕方に起きた事件で使われたものとは違い、今度は本物だ。首のところで一つ結びもされていた。マフラーに付着していたDNAも一致したので、連続殺人事件のものである。つまり、樋口が犯人だという動かぬ証拠だった。

 それから何が起こったのか。複雑な話ではない。犯行を終えた樋口は、自分の痕跡を隠すために現場を隅々まで掃除をした。それはもう、指紋や髪の毛、細部に至る所まで全てだ。徹底的に消して満足すると、その場から逃げようとした。犯行現場は二階にある剛の部屋だったので、階段からおりてである。しかしそこで、樋口にとっては最悪のことが起きた。剛の母親である宮川みやがわ朋子ともこが、パートを終えて家に帰ってきたのだ。

 玄関の扉が開いた音に驚いた樋口は、階段から足を踏み外した。階段の造りは、二階から一階へ一直線にのびるものだった。ほとんど上の方から落ち、逃げるために勢いをつけていたせいで、朋子の証言によると転がるというよりも飛ぶように落ちたらしい。突然の出来事に受け身も取れず、頭から地面に着いた。首の骨が折れ、全身打撲の重傷。

 朋子は訳が分からなかったが、とにかく警察と救急車を呼んだ。十分もかからず警察と救急隊がたどり着き、樋口は近くの病院に搬送された。必死の治療も虚しく、意識不明のまま午前一時十三分に息を引き取った。

 樋口が空き巣に入ったと考え、家の捜査をしていた警察は、そこでようやく二階で亡くなっている剛を発見した。首に巻かれたマフラーを見つけて、すぐに世間を騒がせている連続殺人事件と結びつけた。午後のニュースで色々な局がとりあげていたから、余計に印象に残っていたのだ。樋口の発言のせいもあって、大きな騒ぎになっていた。そういうわけで自分達の手に余ると、すぐに応援を要請した。


「……といった具合で、応援の連絡を受けて昨日の十一時過ぎに俺は現場に到着した。先生にも連絡したから知っているよな」

 周りに僕達以外の人がいないのを確認して、蒜山はあくびをした。被害者家族はもちろん、同僚や部下の前ではこういう気の抜けた行為は出来ない。目尻に涙をにじませて、さらに凶悪な表情になった。

 昨日もデモを止めるのに大変だったのに、それからすぐにこんな事件が起きてしまって、身体的にも精神的にも疲労しているはずだ。僕達には気を許してくれているので、こうした面も自然と見せる。少しでも疲れが取れればいいと、僕は持ってきていたおにぎりとお茶を取り出す。きっと、忙しくてご飯を食べる暇もなかったはずだ。梅、おかか、昆布とありきたりな具なのだが、受け取った蒜山は嬉しそうに顔をほころばせた。

「助かる。昨日の昼から、ずっと何も食べていなかったんだ。買いに行こうとしても、外はあんな騒ぎだ。下手に外に出れば一気に囲まれて、それこそ昼食を買いに行くどころじゃ済まなくなる。桃洞君は気が利くな。いつもありがとう」

「お役に立てたのなら、なによりです。簡単なものですが、こうして話している間に召し上がってください。仕事は体が基本ですから、休める時に休むのが大事ですよ」

「分かっている。それでは遠慮なくいただく。……うまい」

 かなりお腹が空いていたようで、おにぎりは十個ほど用意しておいたのだが、一気に半分はなくなった。拳大の大きさに握ったのに、二口で食べるなんて凄い。その食べっぷりの良さに、こちらとしては作り手冥利に尽きる。五個食べ終えると、お茶を勢いよく半分飲んだ。

「あー、身に染みる。おにぎりは、どうしてこんなに美味いんだろうな。何個でも食べられる。生き返った気分だ」

 大きく息を吐いて、蒜山は肩の力を抜いた。おにぎりでこんなに喜んでくてるのなら、用意したかいがあった。

「昨日から、色々なことがいっぺんに起こって頭がパンクしそうだった。被疑者死亡なんて笑えない」

「蒜山刑事のせいではありませんよ。あの時、仮に拘束していたとしても証拠不十分で、すぐに解放することになっていました。相手には腕のいい弁護士と、声を上げる世論がついていたのですから」

 落ち込む蒜山を天ヶ瀬が励ます。

「しかし、拘束しておけば昨夜の犯行は阻止できたかもしれない。怪しいと分かっていたのに……」

「あなたは何も悪くありません。さあ、気持ちを切り替えて事件の捜査に戻りましょう。ここで二人の方が亡くなりました。分かることも、その分増えるでしょう」

「ああ、そうだな。反省は後でゆっくりする。それで? 他には何が知りたい?」

 残りのおにぎりは後で食べることに決めたのか、大事にしまい込むと蒜山の目が鋭くなった。仕事モードになったのだ。

「そうですね。今回の被害者は、昨日樋口さんに連絡を受けていたのでしょうか。それとも完全に約束はしていなかったのでしょうか」

「家の電話、被害者のスマホの着信履歴を確認したが、現在のところは電話をかけたりかけられた様子はない。被害者が所持していたパソコンも調べているが、ざっと見た感じではメールのやりとりもなさそうだ。ただ、今は連絡をとるのに色々な手段があるからな。SNSなどで秘密裏に連絡をしていた可能性は残っている」

「樋口さんは、どうやってここまで来たのでしょう?」

「電車、というよりは特急とタクシーを乗り継いで来たようだ。所持していた交通系電子カードに履歴が残っていた。それに、乗せてきたタクシーも見つかった」

「早いですね。さすがです」

「変な客だったから、よく覚えていたらしい。それに、昨夜のことだったおかげで記憶もしっかりしている。最寄り駅から乗ったらしいのだが、帽子、マスク、サングラスと明らかに怪しい格好だった。強盗でもされるのではないかと心配していたから、よく目に焼き付けていたとのことだ。目的地を伝える時に、声が小さすぎて聞き返したぐらいで、樋口は自分の正体がバレないようにしていたみたいだな。向かっている最中も会話は一切なく、ずっとどこか落ち着きがなかった。車載カメラの映像があるらしいから、後で確認する」

「そうですか。この家までおろした際に、何か気になることはあったか聞いていますか?」

「いや。残念なことに、おろしてすぐに会社から無線を受けて別の客を迎えに行ってしまった。しかし、バックミラーで、樋口が家の玄関に向かうところまでは見ていた」

「なるほど。被害者の母親とはお話できそうですか? ショックを受けているのなら仕方ありませんが、記憶が薄れる前に早めに話をしたいです」

「ショックを受けてはいるが、おそらく大丈夫なはずだ。すぐ話ができるように手配する」

 蒜山から話を聞いているうちに、天ヶ瀬の中でなにかひらめくものがあったらしい。その目が輝く。しかし被害者家族に話を聞くので、すぐにその輝きをおさめた。このぐらいのことが出来ないと、余計な争いをうむ。そういうところは器用だ。

 朋子はリビングで休んでいた。仕事から帰ってきたら子供の主治医がいて、階段から落ちるのを見てしまった。それだけでも衝撃なのに、子供が死んでいたのだ。しかも殺されて。

 精神的にショックを受けて取り乱してもおかしくないのに、唇を引きしめ背筋をのばし気丈にふるまっていた。しかし、人がいないところでは泣いたのだろう。その目元は赤い。

 そんな彼女の隣で、夫で剛の父である一夫かずおが、手を繋いで寄り添っていた。彼は昨夜、大阪まで出張中だったらしく、連絡を受けて急いで帰ってきた。突然のことに一睡も出来ていないようで、くたびれたスーツのままだった。二人とも五十代前半だろうか。普段はもっと若々しくしていそうだが、今はどちらとも疲れきってくたびれている。

 一夫に手を握られながら、朋子は背筋をさらに伸ばして天ヶ瀬を見る。その強さが、逆に痛々しくうつった。

「事件の捜査をしている方だとお聞きしました。私に質問があるとか。どうぞ、なんでも聞いてください」

 憔悴しているが、それでも話をするのに協力的だった。強い女性である。弱さを見せようとはしない。

「私は捜査協力をしている、名探偵の天ヶ瀬と申します。犯人とみられる方が亡くなっていますが、何があったのかを知りたいので、質問することを許可してくださり感謝いたします」

「天ヶ瀬さん、ですね。たしかテレビで見たことがあるような……私は剛の母、宮川朋子です。よろしくお願いします。こちらは夫の一夫です」

「妻はショックを受けている。話は手短に頼む」

「あなた」

 一夫は、どうやら話をするのに賛成していないみたいだ。自己紹介もせずに、顔をしかめて天ヶ瀬を睨みつけた。うさんくさいと思っているのかもしれない。名探偵という肩書きが、余計に拍車をかけていた。夫の言葉を朋子がたしなめる。しかし鼻を鳴らすだけで、謝罪はなかった。

「すみません、夫も動揺していて。私は平気ですから」

「それでは、さっそく質問させていただきます」

 普通なら一夫の存在は邪魔になるが、天ヶ瀬にとっては障害にならない。本人の許可はあるので、遠慮せずに質問を始めた。

「昨夜、帰宅したのは午後九時過ぎとのことですが、いつもこんなに遅い時間まで仕事をしているのでしょうか?」

「ええ。剛も成人して手がかからなくなりましたし、家にいるとどうしても時間を持て余してしまいますので。いつもだいたい九時過ぎに家に帰ります」

「剛さんはどうですか? いつもこの時間にいることが多かったでしょうか? それとも昨夜は偶然いたのでしょうか?」

「そうですね……大学の方でやらなければいけない何かがあれば、遅くまで帰ってこないことはありましたけど。基本的には九時前には家にいたと思います」

「お父様はどうですか?」

「……昨夜はたまたま出張していたが、いつもは八時ぐらいには家にいる。……まさか疑っているわけじゃないよな」

「とんでもありません。形式的な質問ですよ。あなたのことは疑っていません。物理的に不可能なのは明らかですから」

 物理的に可能だったら疑っていたかのような言い方に、一夫が立ち上がりかけたが朋子が止めた。握った手に力を込めるだけだったので、二人の力関係が読み取れた気がした。

「剛さんは、いつから樋口さんの病院に通っていたんですか?」

「一年ほど前になるかしら。大学での人間関係で色々あって、少し塞ぎこんでいたの。それがしばらく続いていたから、評判のいい先生だというので診てもらうことにしたのよ」

 朋子は頬に手を当てた。そして思い立ったように、一夫の手を外して立ち上がると、部屋にある棚の引き出しを開けてファイルを取りだした。

「これが剛の診断書です。返却いただけるのであれば、持って行ってもらって構いません。これが参考になるかどうか分かりませんが」

「ありがとうございます。ぜひ貸してもらいます」

 天ヶ瀬が受け取った診断書の中身が、一瞬だけ見えた。そこから鬱という文字を確認した。診断書をもらって何に使うのか不明だが、天ヶ瀬は喜んでいた。それに剛の話を詳しく聞いて、意味があるのだろうか。樋口が犯人で、すでに亡くなっているから事件は解決したのに。何が気になっているのか、知らないが、きっと僕には考えつかないことである。

 この場所に来てから、異常なほどに彼は興奮している。まるで犯人を追い詰める前のようだ。しかし、今ここまで興奮する必要はない気がする。

「朋子さん、一夫さん。お聞きしたいことがあるのですけど、よろしいでしょうか?」

「いいですよ。なんでも聞いてくださいと言ったでしょう」

「……ふん」

 朋子が元の位置に戻ると、天ヶ瀬は食い気味に確認した。わざわざ聞いたということは、これからする質問は相手を怒らせるものだ。何をしでかすのかと、蒜山も警戒している。しかし、まだ誰も止めはしない。

「剛さんは、どうして狙われたと思いますか?」

 その質問に、一瞬で場が冷えた。聞かれた意味が理解できないのか、朋子も一夫も口を開いて固まっている。

「今日、わざわざ県をまたいで移動してまで、樋口さんはここを訪ねました。剛さんを選んだのです。その理由を知っているのか、お聞かせいただけませんか? 二人とも、なにか心当たりがある気がするのですが……私の気のせいだったら申し訳ありません」

 下手に出ているが、どこか確信を持った言い方に一夫が眉間にしわを寄せた。しかし怒鳴ったりしなかったのは、朋子にたしなめられると考えたからだろう。心の中では、天ヶ瀬を殴っているかもしれない。

「剛が狙われる理由なんて……そんなの心当たりはありません。私の方が聞きたいぐらいですよ。どうして剛が狙われなければいけなかったのですか? 患者だったから? そんなの納得出来るわけありませんよ。あなたは知っているの?」

 背筋を伸ばしていた朋子だったが、その瞳には様々な感情が渦巻いているのが読み取れた。困惑、怒り、悲しみ、そしてどこかに後ろめたさがあった。何故なのかを考える前に、顔を伏せてしまったので目を見られなくなった。しかし彼女が何かを隠しているのだけは分かった。それが、どんな種類なのか。事件と関係しているのか。きっと天ヶ瀬は知っている。

「私は、剛さんに選ばれた理由があったと、そう考えています。彼自身のものなのか、それとも家族のものなのか。どうでしょう?」

 そこで、我慢できなくなった一夫が天ヶ瀬に向かって拳を振り上げた。僕も蒜山も、特に一ミリも動かなかった。拳のスピードを見て、何もする必要は無いと判断した。予想通り、天ヶ瀬は最小限の動きで避ける。

「き、さま! ふざけるのもいい加減にしろっ!」

 完全に頭に血がのぼった一夫は、避けられた拳に舌打ちをして汚い言葉を罵る。息子の死に関係しているのでは、と言われたのが許せなかったらしい。一回だけでは収まらず、再び腕を振りかぶった。次の攻撃も天ヶ瀬なら避けられると思っていたが、万が一のこともあるので身構えておく。

 頬をめがけて向かっていく動きは、まるでスローモーションのようだった。じっとしている天ヶ瀬の視線は、拳でも一夫でもなく、朋子に集中していた。

「あなた」

 その声は、決して大きくなかったのにも関わらず場に響く。一夫は、一時停止ボタンを押されたみたいに止まった。

「あなた。暴力は絶対に駄目ですよ」

「あ、ああ」

 たったそれだけの言葉。しかし効果的で、彼の体から力が抜けた。

「ごめんなさい。この人、カッとなりやすくて。さすがに暴力沙汰を起こしたことはありませんけど、今は息子を亡くして取り乱しています。どうか大事にはしないでください」

 きっかけを作った天ヶ瀬にも非はあるのに、朋子の方から謝罪をしてきた。一夫は、きまり悪そうに床を見ている。謝る気は無さそうだ。

「こちらこそ申し訳ありません。少し言いすぎました」

 少しどころではないが、天ヶ瀬も一応は謝った。発言を取り消しはしないが。とりあえず場はおさまった。

 朋子は、一夫以上に取り乱してもおかしくないはずなのに、あまりそういったようには感じられない。悲しくないのか、我慢しているのか。前者だとすれば、剛とは上手くいってなかったのかもしれない。

 家に入った時からずっとあった違和感の正体に、僕はようやく気がついた。ここでは、三人の家族が生活をしていたはずだが、剛の存在を感じさせるものが全くない。今いるここはリビングで、テーブルやソファ、テレビ、その他の日用品や雑貨などがおいてある。しかし、そのどれもが朋子や一夫のものだった。剛の写真は一枚もなく、未だに亡くなった彼の顔を知らない。二十四歳だから、一緒に過ごす時間がほとんどなかったとしても、ここまで存在を感じられないのだろうか。家族仲は良くなかった可能性が高まった。

「どうして、剛が連続殺人事件の被害者になったのか。それが分からないのは、他の人も同じではありません? これまでの方達のように選ばれた。そういうことです。彼と関わってしまった時点で、どうしようもなかったとしか言えない。……それとも私のせいだと?」

 朋子は冷静なだけではなかった。その目には、敵意がありありと浮かんでいた。一体どの段階か不明だが、彼女は天ヶ瀬を受け入れてはいなかった。一夫以上に拒絶している。

 それを知っていてなお、天ヶ瀬は全く気にせず話しかけた。

「情報が少ないので、まだ結論は出せません。しかしその可能性を否定する材料が見つかれば、すぐにこの考えは捨てますよ」

「あなた、人に嫌われませんか? こういうふうに人に殴られそうになるのは初めてではないでしょう?」

 今回の天ヶ瀬は、人を怒らせるのを目的としているので達成していると言える。しかし事件は解決しているのに、どうしてまだこの作戦を実行しているのか。蒜山も少し戸惑っていた。それでも間に入らないのは、天ヶ瀬を信用しているからだ。

「ここまで直接的に力で訴える方は初めてです。衝動的な犯行では無いので、一夫さんは私の中で疑わしい人物から排除しても良いでしょう」

「その言い方ですと、私は排除されていないように聞こえますね。……ちょっと疲れてしまいました。そろそろ、お話は終わりにしてもらえますか? 失礼な人に会ったせいで、さらに疲れんです。いいですよね?」

 有無を言わさない様子に、反対する人はいなかった。本人が話したくないのなら、無理強いはできない。彼女は遺体を、しかも二人発見したばかりで、精神的な部分で疲弊しているから尚更だ。

「とても有意義な話で、とても興味深かったです。お辛い中、お付き合いいただきありがとうございました。ゆっくりとお休みになってください。また、お会いしましょう」

「私は、もう会うことはないと願いたいですね」

 それだけ言うと、興味を失ったとばかりに目を閉じて、一夫の肩に寄りかかる。この短時間で眠ったはずがないから、もう話す気は一切ないという意思表示だろう。

「それでは失礼します」

「二度と来るな」

 朋子の体を引き寄せながら、彼女を守るように一夫はずっと睨み続けていた。

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