第6話 デモと
天ヶ瀬の後ろを、見失わないように必死について行くと、すぐに樋口の姿は見つかった。傍には未央と篠原もいる。天ヶ瀬に言われた通り、きちんと監視の仕事を遂行中のようだ。しっかりと離れずに、未央に至っては怖がっているふりをして、樋口の腕を掴んでいるのが確認できた。容姿を最大限に利用するやり方は、お見事しか言いようがなかった。樋口が掴まれた腕を振り払おうとしないところから考えると、彼女の作戦は成功している。隣で一定の距離を開けて、篠原が二人の様子を窺っている状態だ。きっと一度たりとも姿を見失っていない。それは、今のところの唯一の救いだ。
僕は天ヶ瀬の後ろで存在感を消した。僕の存在は、どの場でも空気でいる必要がある。余計な目立ち方はしたくない。特に邪魔は絶対に駄目だ。ここまで気を遣わなくても、天ヶ瀬のパフォーマンスに影響はないとしてもだ。これが、僕の小さなポリシーだった。
「とんでもないことをしでかしましたね。樋口さん」
彼らの元に近づいた天ヶ瀬は、まっさきに樋口に話しかける。責める言葉に対し、彼は涼しい表情で微笑んだ。腕を掴んでいる未央は、空気を読んで口を閉ざしていた。
「もどかしい辛い気持ちを伝えただけなのですが、たくさんの人が賛同してくれたみたいですね。まさか、こんな事態になるとは思ってもみませんでした。申し訳ないことです」
申し訳なさの欠片も感じられず、むしろ挑発的な言い方だった。この状況になったのを、まったく後悔していない。いや、こうなるのを望んでいたのだ。
僕は、そっと人々の様子を見た。会場には、もうほとんど人が残っていなかった。残っている人は座り込んでいたり、介抱されながら横たわっていたりしていた。おそらくだが、たくさんの人々が一気に移動した際に、押し倒されたか踏まれたかしたのだろう。大きな怪我をしている人は今のところはいなさそうだけど、これから時間が経つにつれて、どうなるかは分からない。下手すれば、死者が出るかもしれない。もしもそうなった時に、樋口は良心が痛まないのだろうか。それさえも、自身の目的のためだったら必要犠牲だと開き直るのか。どんな理由でも許されるものではない。ここまでのことをしでかして、たくさんの人を動かして犠牲にして、達成したい目的とはやはり殺人なのか。そうとしか考えられない。つまり、樋口にとっては、こうして周りに人がいる状態は歓迎すべきものではないわけだ。
今すぐにでもこの場から離れたくて焦れていると思ったが、僕が見る限りではそういった様子はない。樋口のポーカーフェイスが上手すぎるのか。しかし、そろそろ一人になりたいはずだ。どうやって、この場から離れようとするのだろう。天ヶ瀬が一筋縄でいかないことぐらいは、彼だってすでに知っている。それを切り抜ける姿は、見物かもしれない。どこか期待していたが、樋口が動く気配は全くなかった。
「早く騒ぎがおさまってくれればいいのですが。偶然、近くに警察がいてくれて助かりました。きっと犠牲者を出すことなく、今日一日を終えることが出来るでしょう」
どの口が言っているのか。白々しい態度に、声を出しかける。それでも邪魔をしないために、さらに空気になるように努めた。しかし逃がす気は無いので、監視する目は緩めない。むしろ、いつ動かれても対処できるように、一挙一動も見逃さず瞬きも最小限にしていた。
「その通り、警察はとても優秀です。今頃は上手く対応しているでしょう。私達は、ここで待っていれば安全ですよ」
「そうかもしれませんが、この事態を引き起こしたのは私です。私が説得すれば、みなさんも冷静になってくれるはずですから、争っているところに行った方がいいのでは……」
ついに来た。表向きの理由は騒ぎをおさめるだが、どう考えても人に紛れて僕達から離れ殺人を起こそうとしている。こんな雑な方法で、この場から逃げられると考えているのであれば、こちらのことを馬鹿にしている。天ヶ瀬のことを下に見すぎていた。ここにいる誰もが、そう思っただろう。
「頭に血がのぼった人は、樋口さんのことも判別出来ませんよ。現場に行ったところで、あなたの身が危険にさらされるだけです。そこにいる人達が見えるでしょう。あの人達のように怪我をしたくなければ、ここで大人しくしているのが賢いやり方です。警察の手を煩わせることもありません」
天ヶ瀬の説得でも言うことを聞かないようであれば、力を行使してでも止めるしかなくなる。樋口は五十一歳とはいえ、鍛えているらしく体格がいい。本気で暴れられれば、ここにいるメンバーで抑えるのは、かなり難しいだろう。蒜山がいてくれれば。大人しくしてくれるのを期待するしか無かった。
しかし、それは無理かもしれない。一週間間隔での犯行に執着しているのなら、今このチャンスを逃したくないはずである。ここから逃げられたら、あとは好き勝手に行動できる。それを追いかけるのは、失敗する可能性の方が高くて、リスクも大きすぎた。さて、どう出るか。
警戒して次の行動を待っていると、樋口は降参とばかりに手をあげた。腕を掴んでいた未央が、それに驚いて手を離してしまった。逃げる気か。その場に緊張が走る。篠原も近づいてきて、いつでも捕まえられる体勢に入った。
「分かりました。ご忠告の通り、ここで大人しくしていることにしましょう。私も、もう若くないですから、怪我はしたくありませんからね」
……これは、どう考えればいい? 油断させておいて、自分への警戒が緩んだら逃げるつもりか。そう考えたのだが、言葉が嘘ではないと示すように樋口は体の力を抜く。
「どうしましたか? そんな、鳩が豆鉄砲をくらった顔をして。私がここにいるのがおかしいですか? あなたが大人しくしていろと言ったので、それを守っているだけですよ」
「そう、ですね。感謝いたします」
こんな展開になるとは天ヶ瀬も思っていなかったらしく、言葉につかえた。しかし表情は崩さない。動揺を上手く隠していた。それでもきっと、頭の中ではたくさんのことを考えていそうだ。樋口がなにをしようとしているのか、数十パターンまで予想中だろう。僕も頭を回転させてみたが、全く思いつかなかった。
もしかして、ここでは犯行は出来ないと諦め、帰ってからゆっくりと獲物を選ぼうと計画中なのか。今日中に終わらせられればいいとすれば、時間はまだまだたっぷりと残っている。その場合は、蒜山に頼んで監視してもらえばいい。彼ならネズミ一匹見逃しはしないだろう。どちらにしても実行は不可能だ。樋口の計画は頓挫する。
犯行を阻止できたのだから、こちらの勝ちのはずだった。しかし何故か、向こうが余裕そうに見える。デモを起こすだけにとどまらず、今から逆転の一手を隠し持っている。そんな気がした。まとわりつくような嫌な予感が消えない。本当に、ここで待っているのが正解なのか。
待っていれば、外の騒ぎが段々と静かになってきた。蒜山を含めた警察が、デモと化した人々をおさめている証拠だ。やはり優秀である。
「日本の警察は優秀ですね。もうすぐ帰れそうだ。もしかしたら犯人も捕まえているかもしれません。そうだとすれば安心出来るのですが」
犯人はあなただ。意識していなければ、そう口に出していた。涼しい顔をしているが、その腹の中に潜んでいる悪意は醜くて大きい。蒜山が好きではないと言った理由が、今ならよく分かる。善人の仮面が剥がれ落ちていき、ただの犯罪者にしか見えなくなっていた。
犯人はすでに六人もの人を殺している。しかも樋口が犯人であれば、一番最初に殺したのは長年連れ添った自分の妻だ。確かに身内を殺す人は多い。そうだからといって同情も許しもしない。むしろ嫌悪する。殺人という選択肢をしたことに対して。幸福な人生を歩んできたからこそ言える意見かもしれないが、それでも殺す以外に方法があったはずだ。命を奪う権利は誰にもない。
「天ヶ瀬さん、あなたは私のことを疑っていますね?」
それは世間話のように、軽く放たれた。あまりにさり気なかったから、一度流されかけた。しかし、流すには話題が重すぎる。
「どうして、そう思われたのでしょうか? 私がなにか失礼なことをしてしまったのだとすれば謝罪致します」
天ヶ瀬は動揺することなく、表情も崩さずに対応を始めた。まだ焦る段階ではないということだ。相手もまだ本気で怒っていないので、様子見をしている。
「いえ。なんとなく敵意を向けられている気がして。最初から、私のことを好きではなかったでしょう?」
「そんなことはないですよ」
「この探偵さんが失礼なのは、私達に対してもでしたよ。ねえ、篠原さん?」
「あ、ああ。俺と姉の関係性が険悪なものだったのではないかって、初めから疑いにかかっていた」
「ほら。そういう人なんです。いちいち気にしていたら、神経が参ってしまいますよ」
天ヶ瀬を助けるために未央が前に出てきた。ついでとばかりに篠原も巻き込む。まだ味方とバレないために、助け方は悪口に近い形だったが。とにかく気をそらそうとしていることだけは伝わってきた。
「そうですか。あなた達も失礼な態度をとられたのですね。それがこの人のやり方というわけですか。なんてことでしょう。正式に講義をするべきです。彼のせいで傷つけられた人は山ほどいそうですから。捜査協力を止めさせるように進言しましょう」
しかし、それは逆効果であった。話を聞いた樋口は、あろうことか抗議をするとまで言い出した。慌てたのは未央達だ。まさか、そこまで大事に発展させられるとは予想していなかったらしい。
「い、いえ。そこまではいいんですよ。たしかに失礼な人ですけど、犯人を見つけるのに必要な人材なのかもしれません。どんな人だとしても、能力があれば事件を解決に導いてくれるでしょうから」
「俺もそう思います。この人を気にしていても時間の無駄だ」
二人とも、焦って天ヶ瀬を擁護する状態になっている。これでは勘のいい人ならば、すぐに気がつく。おそらく樋口も、天ヶ瀬との関係性を察してしまっただろう。その瞳に何かが映ったが、それを読み取る前に消えた。
「私を犯人扱いするのは、お門違いというものです。犯人は別にいます。ここで私を疑っているぐらいであれば、他の人間を監視している方が有意義ですよ。こうしている間に、誰かが殺されているかもしれません。疑うなんて、本当信じられない」
大げさな身振りで苦痛を表現した樋口は、ちらりと腕時計を一瞬確認した。その口元に笑みを浮かんでいるように見えたのは、僕の考えすぎだろうか。
その時、天ヶ瀬の電話が鳴った。着信音の設定が大きかったから、全員が体の動きを止めて、そちらを一斉に見た。
「マナーモードにするべきだったのでは? 集会中に、その音を鳴らして邪魔するつもりでしたか?」
「いえ。騒ぎが始まってから電源を入れましたので安心してください。……失礼いたします。重要な電話のようなので出ますね。……もしもし。蒜山刑事ですか?」
許可を得る前に電話に出ると、蒜山の名前を口にする。その名前を聞いて、場に緊張が走った。会話をしながら、天ヶ瀬は遠くへと歩いていく。声も小さくなっていき、内容を聞き取るのは不可能だった。しかし、僕以外にも聞き耳を立てている人はいた。樋口、未央、篠原の全員だ。少しずつ距離を近づかせて、単語の一つでも聞き取れないかと聴覚を集中させている。天ヶ瀬は最初は小さな声で話していたが、その声が徐々に大きくなっていった。驚いた気配も伝わってきた。通話を終えた時に、振り返った彼の表情は今まで一度も見たことのないものだった。困惑が一番大きいだろうか。笑みを作ろうとしているが、失敗して歪になっていた。電話の内容が、いい話ではなかったことだけは確かだ。
「天ヶ瀬、どうしましたか?」
誰も何も言わないから、代表するように僕が質問した。その質問に対して、天ヶ瀬の答えは簡潔だった。
「この近くにある公園で、遺体が発見されたそうです」
被害者は
死因は首を絞められたことによる窒息死で、その首元には青色のマフラーが巻かれていた。
遺体が発見されたのは午後三時二十一分。デモが移動していた場所とは、一本道が外れたところにある公園のベンチで座るように死んでいた。発見したのはデモを収めていた警察の一人で、首に巻かれたマフラーを目にした途端、すぐに何が起こっているのか分かった。とにかく現場保存につとめ、対応はほぼ完璧に行われた。その後、連絡を受けた蒜山が駆けつけ死体を確認し、天ヶ瀬に電話をかけたという経緯である。
もちろん現場に行くことになった。そこに、樋口達もついてきたのは当然の流れだった。ぞろぞろと五人で移動していたので、とても目立つ。顔を知られている樋口がいるせいで余計にだ。しかも、デモが制圧されていたとはいえ、まだたくさんの人が残っていた。もちろんテレビ局のカメラもである。そんな中を急いだ様子で移動すれば、何かあったのだと言っているようなものだ。
「樋口さん何かあったんですか!?」
「死体が見つかったという話も出ていますが、これは事実なんですか!? しかも連続殺人事件と同じ手口だとか!?」
あとを追いかけながら質問をしてくる取材陣。その人達に対して、樋口は手をあげて応えた。
「今はまだ詳しいことは何も分かっていません。混乱させないために、話すのはあとにしておきましょう。危険かもしれませんので、ここまでで」
警察でもないのに、重々しい口調で言った。邪魔をしそうだった彼らの足を止めさせたのは褒めてもいいが。しかし、夕方のニュースになるのは避けられないだろう。できる限り顔を映したくはないから。下を向いて歩いた。
現場である公園に到着すると、すぐに蒜山が出迎えてくれた。着いてきてしまった樋口達を見て顔をしかめたが、すぐに中に引き入れる。
大方鑑識作業は終わったようだ。しかし遺体はまだ運ばれていないらしい。シートはかかっているが、人形の大きさに膨らんだ部分が恐ろしかった。あの下に遺体がある。そう考えると倒れてしまいそうで、頭の隅に追いやった。何度事件現場に出くわしても、人の死に慣れるものではない。顔には出さないが、天ヶ瀬もきっと同じである。
「絞殺、マフラー、色、日付から見ると連続殺人事件の同一犯である可能性が高い。死亡推定時刻は三時から、三時二十一分の間。この公園で殺されたようだが、今のところ目撃者は一人も見つかっていない。デモの方に人が集中していて、公園には誰もいなかった。被害者が何故デモに参加したのか、一人で来ていたのかは不明。まだそれだけしか分かっていない。最悪だ」
説明している最中、思わずといった感じで悪態をついた。蒜山も、まさか事件が起こるとは思ってもいなかった。樋口達を監視すれば、殺人事件は起きないはずだった。しかし現実には、こうして人が死んでしまった。それは、どういう意味を持つのか。
樋口は犯人ではなく、別にいると。天ヶ瀬の推理が間違っていたと。そんなことはありえないし、ありえるはずがない。僕は納得できなかった。
天ヶ瀬の様子を窺う。公園を歩き回っている姿は、普段と変わりなく見える。しかし気持ちを隠すのが上手いので、内心ではどう思っているのか分からない。歩き回っていた天ヶ瀬は、ふと立ち止まると、きびすを返して蒜山の元に行った。そして耳元で囁いた。しばらく二人で話していたが、軽く頷いた蒜山が別の警官に指示を飛ばす。何を言ったのか聞こえなかったが、重要なことなのは確実だ。事件に関する重要なもの。二人の表情から読み取れた。天ヶ瀬が口に手を当てているから絶対だ。何かいいことがあったはず。それは、久しぶりのいい兆候だった。
「ここは警察に任せて、私達は帰りましょうか」
「もういいのですか? まだほとんど確認していないでしょう?」
「少し考えたいことがあります。ここでは落ち着けませんから。樋口さん達はどうされますか?」
「私はまだここに残ります。調べておきたいことは、たくさんありますので。犯人を捕まえるためにも」
帰ると言った天ヶ瀬に対し、樋口は冷ややかな視線を向ける。そして、自分は事件を解決したいからこそ残るのだと、ちくりと皮肉を込めて伝えてきた。最後に別れの握手を求めていたが、天ヶ瀬は手を振って拒否した。未央と篠原を確認すると、彼らは首を横に振った。二人とも、まだここに残るつもりらしい。樋口を監視するためか、それとも天ヶ瀬に失望したから一緒にいたくないのか。その両方かもしれない。
「私達は失礼いたします。また会いましょう。きっとすぐに会うことになるでしょうから。……あなたが思っているよりもすぐに」
全員に対し丁寧にお辞儀すると、僕を視線で促して現場から立ち去る。その後ろを追いかけながら、一度だけ樋口達のいる方を見た。警察と話をしていて、横顔しか分からなかったが、その顔は勝利を確信するかのように晴れやかだった。
家に帰ると、言葉の通り天ヶ瀬は考えるために一人で部屋にこもってしまった。思考を巡らせる邪魔はしたくないので、極力音を立てないように気をつけながら、部屋の掃除を始めた。無心で手を動かしたかったのだ。そうでもしないと、解決できるほどの推理力を持っていないのに、事件のことについて考えてしまう。答えが出ないと分かっている思考ほど、無駄なものは無い。何も考えずに部屋を磨いていれば、上手く時間の消費をしていたようで、天ヶ瀬が部屋から出てきていたのにも気づかなかった。満足するぐらい終わった頃、ようやくその存在に気がついた。
「声をかけてくれれば良かったのに。待たせてしまいましたか?」
「いえ。まだ少し考えたいこともありましたし、君が動くところを見ているのは、とても好きです。無駄がなくて手際がいいですから」
「恥ずかしいので、あまり褒めすぎないでください。それよりも考えはまとまりましたか?」
時計を見ると、掃除を初めてから二時間以上経っていた。そろそろ夕飯の準備をしなければ。凝ったものではなく簡単でいいか。きっと、天ヶ瀬も今は早くお腹を満たしたいはずだ。冷蔵庫の中身を確認すると、頭の中で献立を考える。基本的に家事は全て任されていて、料理もその一つである。働いた分は、きちんと給料としてもらえる。それに家事が好きだから、全く苦にならない。僕に任せているので、むしろ感謝をしてくれる。天ヶ瀬のいい所は、出された料理に文句を言わずに食べることだ。彼は褒めて伸ばすタイプだ。たまに自分でも失敗したと反省するぐらいの出来になった料理でも、気付かないような褒めるポイントを見つけてくれる。そのおかげもあり、最初は素人レベルだったが、今では他の人にも自信を持ってふるまえるぐらいの腕前になった。
しかし、簡単な料理を作る日もある。今日みたいな日だ。冷蔵庫の中にあった野菜と肉を使い、手早く炒めていく。それと朝食の残りである小鉢と味噌汁をつけた。人によっては手抜きだと言われるが、天ヶ瀬は大げさなぐらいに感謝する。決して嫌味ではない。
食事中に会話は一切しない。天ヶ瀬も僕も、食べながら話すのが嫌いだ。テレビもつけない。静かな空間で食べていて、気まずくならないのかと聞かれるが、その方が味に集中できる。黙々と食べて休みも挟むと、お茶を飲みながらようやく話を始めた。今まで、ずっと気になっていた。待ちきれなかったが、あまり焦らないようにしていた。しかし、おそらく伝わっていたはずだ。
「もっと調べなくて良かったのですか? それに、まさかあの状況で事件が起きるなんて……」
聞きたいことはたくさんあったが、全てをぶつけても困らせるだけだ。質問は少しだけにとどめた。それでも焦りは伝わったのだろう。くすりと笑われてしまった。そして、僕の疑問を一気に解決する答えを言った。
「調べる必要はありません。先ほどの事件は、今回の連続殺人事件とは別の方の犯行でしょう」
「な、なんですって? どういうことですか。説明してください」
思いもしなかった話に、開いた口が塞がらない。確かにそれなら、樋口をずっと見張っていたのに事件が起こったのも説明できる。しかし、分からないこともあった。
「それでは、一体誰があんなことを? まさか協力者がいたと言うのですか?」
「いえ。私の考えでは、協力者というよりは模倣犯でしょう。しかも、かなり雑な模倣犯のようです」
「事件現場を詳しく調べたわけではないのに、どうしてそこまで分かったのですか?」
「私に分からないことはないからです。……と言いたいところですが、実に簡単な話ですよ。凶器に使われたマフラーが違いました。色は青でしたけど、あれは別物です」
「まさか、そんな……」
マフラーの違い。そんな分かりやすくて、決定的なものがあったのか。それをすぐに判別できた、天ヶ瀬が凄い。
「蒜山刑事も、なんとなく気がついていたようで、私の指摘に納得してくれました。マフラーが一つ結びにされていなかったらしく、おかしいと考えていたのです。一応詳しい調査をしてもらいますが、十中八九別物だという結論に至るでしょう」
ここまで自信ありげなら間違いない。つまり、あれは連続殺人事件とは関係がなかった。模倣犯だから全く関係なしとは言えないか。しかし、別事件に分けてもいい。
「事件が一週間ごとに起こっているのは、少し考えれば分かります。凶器がマフラーで、男女で色に違いがあるのも、報道はされていませんが情報は流出しています。主にインターネットで拡散中です。きっと、それを見て真似をしたのでしょう」
「デモといい、模倣犯といい、今日は悪いことばかりが起きますね。……樋口さんを逮捕して、事件解決になればどんなに楽でしょうか。それが出来ればいいのに」
あまり良くない考えだが、これが一番の解決策な気がしてきた。愚痴のように零せば、天ヶ瀬が苦笑する。
「もうすぐ捕まえられるでしょうから、我慢して待ちましょう」
「そんな受け身の構えでいいのですか? 解き明かさなくてはならないことは、まだ何個かあると思いますが。例えば……一番の壁を挙げるとするならば、最初の事件では樋口さんにアリバイがあります。それはどう説明すればいいのでしょう。そこを崩さない限りは、向こうが有利な状態は変わりません。どんなに怪しかったとしてもです」
きっと、樋口もそれを声高に主張してくるだろう。アリバイを崩せない限りは、彼を捕まえるのは不可能だ。まだ、それについての天ヶ瀬の考えを僕は聞いていない。しかし、樋口を犯人に据えるのだから、すでに天ヶ瀬の中では説明できると考えていい。それでもすぐに話そうとしないのは、まだその時期ではないということだ。
「言わなくても、君はもう察しているようですが、アリバイの件は安心してください。蒜山刑事に調べてもらっていることが分かれば説明できます。とにかく今は待つことです。疑っているのは相手に伝わってしまいましたから、すぐに決着するでしょう。たくさんの人の命を奪った殺人犯に、ふさわしい終わり方を迎えるはずですよ」
「それならいいですけど……」
その時、彼の言葉に不穏なものを感じた。まるで、これから起こることを全て見透かしている気がした。自分でも説明がつかなかったが、一瞬、ほんの一瞬だけ、天ヶ瀬がこの事件の犯人ではないかと疑ってしまった。そんなことは絶対にありえるはずがないのに。
すぐにその考えは打ち消したが、その日は眠る直前まで、ずっと頭にこびりついて離れてくれなかった。しかし寝てしまえば考えることなく、夢もみずにゆっくりと休んでいた。
こうして何も考えずに無防備に眠っている間に、恐ろしいほどの悪意が大きな口を開けて飲み込もうとしていた。それを知らずに、ただ朝まで何にも邪魔されることなく眠りの渦の中にいた。
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