第5話 鍵と集会
『なにっ? エラリー・クイーンだって? 犯人はそいつなのか?』
「いえ、違います。エラリー・クイーンは小説家の名前です。そして今回の事件は、彼らの作品の一つである『九尾の猫』にとてもよく似ています。所々に差異はありますが、絞殺、男女での凶器の色の違い、被害者の年齢がどんどん若くなっていくところが同じです」
『あーっ、電話じゃ埒が明かない。今すぐそっちに行くから、直接説明してくれ!』
蒜山は叫びながら、一方的に電話を切った。距離をとっていたおかげで、天ヶ瀬の耳は守られた。それでもうるさかったらしく、顔を歪めている。嫌そうというよりも呆れに近い。
「今の電話の勢いからすると、飛んできそうですね」
「はい。蒜山刑事がいらしたら騒がしくなるので、休んでいても構いませんよ。これから忙しくなります」
彼の言うとおり、これから忙しくなるだろう。それぐらい、思い出した事実は事件に大きく関わるものだった。しばらく休む暇が無さそうだ。
僕は言葉に甘えて、休ませてもらうことにした。それに僕がいない方が、彼も集中して思考の海に浸れる。
部屋に戻ると、すぐに事件の概要について、ゆっくりとまとめた。こうして小説にする準備だった。今までの経緯は、全て速記で手帳に記している。それだけでは支離滅裂な内容なので、改めてまとめ直す必要があるのだ。そして手帳の文字は僕にしか解読出来ないので、全て自分一人の力で行うしかない。たまに、書いたはずの文字が判別不明になっていて、こんな汚い字を書いた人物に文句を言いたい気分だった。現実逃避にも近い。四苦八苦しながら、なんとかこれまでの出来事を五分の一ほどまとめ終えた頃、外が騒がしくなった。蒜山が到着したらしい。
外からも足音が大きく、そして中に入ってきてからも、より音は大きくなった。地響きが起きているのかと思ったぐらいだ。僕よりも先に天ヶ瀬が出迎えて、話す声が聞こえてきた。
「さっさと説明しろ! 小説だの訳の分からない話と、今回の事件がなんの関係があるんだ!」
「まあまあ、落ち着いてください。とにかく中に入って、そこでお話ししましょう」
興奮している蒜山をなだめ、リビングに案内したようだ。すぐに僕も部屋から出て、二人のところに行く。お茶でも飲めば、彼も少しは落ち着くはずだ。しかし部屋に近づくにつれて、それは無理そうだと諦める。
「だから、どういうことなんだと聞いているんだ!」
怒っていると勘違いしかけるほどの大声に、巻き込まれる前に逃げようと、一度引き返しかけた。しかしそれでは、重要な話を聞き逃す。小説のためだ。嫌々でも、中に入るしかなかった。
「蒜山さん、落ち着いてください」
とにかく怒りをおさめなくては。扉を開けてすぐに、僕は声をかけた。
リビングでは、天ヶ瀬と蒜山が向かい合って座り、完全に言い争っている雰囲気だった。僕が声をかけると、同じタイミングでこちらを見てきた。一旦間が空いたおかげで、蒜山の怒りがしぼむ。彼は、大きなため息を吐き目をつむった。
「悪い。頭に血がのぼった。……もう一度、分かるように説明してくれないか。あまりにも荒唐無稽な話で、すぐには理解出来ない。何十年も前に出された小説に事件がそっくりだなんて、簡単に信じられる話じゃないんだ」
刑事という立場だからこそ、すぐには信じられない。その気持ちは分かる。しかし話を聞く体勢に入ったのは、天ヶ瀬を信頼している証だ。
「意図的にか偶然か。この事件は、エラリー・クイーンの『九尾の猫』という物語に似ています。九人の人間が殺害される話です」
「九人だって? それじゃあ、あと三人殺そうとしているって言うのか? 一体なんのために?」
「まだそこまでの犠牲者が出るかは分かりません。物語の中での理由は、妬みでしょうか」
ここで蒜山は何かに気がついた。おそらく、僕と同じことを考えている。『九尾の猫』という小説はミステリーで、七十年以上前に完結していた。
「その小説の犯人は、一体誰なんだ?」
つまり、事件の犯人がはっきりと記されているのだ。仮に物語になぞらえて事件が進んでいるのならば、犯人の正体も分かる。
こんな話をしているよりも、解決のために正体を教えてもらう方が先だろう。それが出来れば、ここで事件は解決したのだが。
「残念ながら、小説にある犯人の正体を知っても無駄です。今回の事件においては、その人物は犯人となりえませんので」
「そんな……」
事件の手がかりを得られ、解決まで一直線かと思われたのに、大きな壁が立ち塞がった。希望が見えた分、その落差が酷い。僕も期待していて、蒜山が来る前に落胆させられた。
「結局ふりだしに戻ったわけか」
「そうとも限りません。落ち込むのは、まだ早いですよ」
事件の鍵を見つけても、犯人が分からずじまいであれば、わざわざ蒜山に連絡する必要はなかった。天ヶ瀬は何か掴んでいて、それが事件に関係しているらしい。それを僕もまだ知らない。
「どういうことだ?」
「蒜山刑事、四月十二日に事件の被害者達が集会を開こうとしているのはご存知ですか?」
「ああ。連絡を受けている。犯人を挑発しているみたいだから厳重注意をしているが、あの勢いでは止まらないだろうな。……まさか、本当に犯人が現れるとでも言うのか?」
「はい。そして、そこで第七の事件を起こそうとしています」
「なんだって!? そうか。一週間の法則か」
「その通りです」
これまでに、事件は一週間ごとに起こっている。次の事件が起きるとすれば、四月十二日だ。そして、ちょうどその日に、おあつらえ向きのように被害者が集まろうとしている。しかも大規模な集会になりそうだ。
人が集まれば紛れ込める。殺人を起こすには、うってつけの場所だと言ってもいい。同時に犯人を捕まえるチャンスでもある。
「しかし、仮に犯人が現れて誰かを殺害しようとしても、捕まえるのは至難の業だ。狙われる人も、犯人も分からないんだ。誰を守って、誰を警戒していいのか不明な中で、一人一人に警護をつけるつもりか? そんな人員を確保するなんて、さすがに現実的な話じゃない。犯人に逃げられるのがオチだ」
何も策を講じなければ、犯人をみすみす逃すことになる。第七の被害者を出してだ。それは、今まで以上の失態になってしまう。
「もちろん。何もせずに行くつもりはありませんよ。その件で、蒜山刑事に頼みたいことがございます」
天ヶ瀬は確信しているものがあるようだ。おそらくだが、ここの時点で彼の中では事件の概要も、すでに犯人も見えていた。しかし、それを僕はおろか蒜山にも話さなかったのは、この事件に対する一種の敬意があったからかもしれない。殺人事件に対し敬意なんておかしな話だが、一番近い表現だと思う。
特別なものに分類して、そしてあの結末まで導いた。僕は未だに、もっと他に出来たことがあったのではないかと、事件が終わった後も何度も考えてしまう。考えていたとしても、その時にはもう遅かったのだが。それでも、考えるのは止められなかった。
天ヶ瀬の提案に、蒜山は強く反対した。無理もない。未央と篠原に協力を求めようと言ったからだ。
「さすがに、それは許可出来ない。先生に協力を求めているのだって異例なんだ。一般人、しかも事件の関係者なんだ。もし何かがあったら、とんでもないことになる。マスコミのバッシングは避けられないだろうな。そうなったら、さすがに庇いきれないし、下手をすれば俺のクビも飛ぶ」
蒜山にも立場があるから、そう簡単に許可は出せない。いくら天ヶ瀬の頼みだとしてもだ。しかし天ヶ瀬も諦めなかった。
「二人の助けが、ぜひ必要です。重要な役割を担ってもらう予定で、それはこの二人にしか出来ないことです」
「そうはいっても……向こうは受け入れているのか?」
「もちろんですよ。しかし、蒜山刑事の迷惑になってしまうのだとすれば、私が非公式で内密に協力してもらったことにしましょう。それか、有志の方々ということにするのはどうでしょうか」
どうでしょうかと言われて、簡単に受け入れられる話でもない。苦虫を噛み潰したかのごとく顔をしかめ、蒜山はしばらくの間、随分と長い時間をかけて考えた。そして、一つの答えを出した。
彼が出した答えは、両方が納得のいくものだった。もちろん、どちらも妥協する部分はあったが。
「またお呼びいただけるなんて感激です。協力を申し出ましたが、まさか本当に呼ばれるとは思ってもみませんでした」
「未央さんは、晴香さんの件で頑張ってくださいましたから当然です。とても親身に寄り添ったと聞いております。ありがとうございます。今回も、そういった感じでよろしくお願い致しますね」
元々、未央はここに来る予定だった。先に樋口に参加するように言われていて、その後に天ヶ瀬から連絡を受けたらしい。彼女の動向は、篠原によって逐一報告されていたので、久しぶりに会ったという感じがしない。
天ヶ瀬が期待していた通り、彼女と晴香は気が合った。事件が起こってから家にこもりきりだったのを、外に連れ出すまでに至ったらしい。この前、一緒に桜餅を食べている写真が送られてきた。その写真では、晴香はもちろんのこと、未央の顔も生き生きとしていた。救われたのは一人だけじゃない。
その証拠に、未央は前回会った時と比べると顔色も良くなっていて、化粧の感じも変わったのだろうかさらに魅力的になっている。
ひっつめにしていた髪は、同じ結び方だとしても、ずっとあか抜けて見えた。今日は動きやすい格好をして欲しいと頼んでいたので、白のシャツに薄手のカーディガンをはおり、ベージュのワイドパンツというコーディネートだ。スニーカーだから、何かが会った時に走るのも可能である。
「ただ一緒に遊んでいただけよ。晴香さんは深く傷ついていたけど、原因のDV旦那がいなくなったから、時間が解決してくれるはずよ。乗り越えたのは彼女の力」
天ヶ瀬の感謝の言葉を軽く受け流すと、隣にいる篠原の腕をとった。来てからずっと黙っていた彼は、戸惑いながら視線を揺らしたが、大きく息を吐いて持っていたカバンを広げた。彼のことも未央から報告を受けているので、久しぶりといった感じはしない。今のところ、二人ともお互いがお互いを監視していることを知らない。どちらも約束を守ってくれている。もちろん篠原も、樋口に呼ばれていて、天ヶ瀬に協力要請をされていた。
「これ、頼まれていたもの」
そう言って渡してきた書類の束を、天ヶ瀬はありがたく受けとり、今は中身を読んでいる余裕が無いので肩掛けカバンの中に丁寧にしまった。
「ありがとうございます。後でゆっくりと拝見させていただきますね。……おや。顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
「寝不足なだけだ。気にしないでくれ」
「もしかして私の頼み事のせいでしょうか。体を壊すほどのことは望んでいませんから、無理なら断っていただいても構いませんでしたよ」
篠原は未央とは対照的に、前にあった時よりもくたびれていた。髪は寝癖なのか乱れ、本人が寝不足だと言っている通り、目の下にははっきりとくまがあった。未央が腕を掴んでいるのは、彼を支えるためなのも含んでいるらしい。それぐらい調査が大変だったのか、それとももう一つの頼み事が精神的に疲弊させたのか。おそらく後者だろう。
こんなふうになっているからには、きっと投げ出さずに未央を監視していたはずだ。これまでの報告からも窺える。詳しい内容は教えてもらえなかったけど、二人とも怪しい動きはしていないとのことだ。
その報告を聞いて、天ヶ瀬は満足そうな表情を浮かべていた。彼が満足するなら事件解決に役に立つとはいえ、さすがに可哀想になってきた。篠原は被害者家族なのだから、これ以上は追い詰める結果となってしまう。
「いや、姉のことでゴタゴタしていただけだ。人のことは言えないかもしれないけど、金が絡むと面倒な人間が色々なところから出てくる。親戚の親戚の友達なんて、完全に他人だろう」
疲れていたのは、家の問題に巻き込まれていたかららしい。莫大な財産があるからこそ、一般人には必要のない面倒が出てくる。しかも、そういう時に出てくる人は、簡単に引き下がるような性格をしていないはずだ。大変さは伝わってきた。
「それなら、私の知り合いの弁護士を紹介しましょうか? もちろん優秀ですが、それ以上にそういった方々を蹴散らすのが得意です」
あまりにも可哀想だからか、天ヶ瀬が助け舟を出した。
「それは楽しそうだ。ぜひ頼もうかな」
本当に辛かったらしく、篠原は力なく笑った。かなり追い詰められていた。提案が、彼にとって救いとなったのは間違いない。彼の方から、握手をと手を差し伸べたぐらいだ。とてつもなく感謝している。
「樋口さんから、今日の予定について詳細を聞いていますか?」
樋口は警察の介入を嫌がり、集会の内容について何も情報を伝えてこなかった。僕の考えでは、警察というよりも天ヶ瀬に介入されたくなかったのだと思う。
「詳しい話は、残念だけど教えてもらっていないの。私達のことを、完全に信用はしていないみたい。まあ、被害者遺族ってだけだから、仕方ないといえば仕方ないけど」
「俺もそれとなく聞いてみたけど、口が堅い。それぐらい大仕掛けをするつもりじゃないか?」
天ヶ瀬を警戒するのはまだ理解出来るが、ある意味では仲間とも言える人達すら信用出来ないなんて、どれだけ他人に心を許していないのか。
「内容が分からなくても構いません。お願いすることは変わりませんので。最後に確認いたしますが、こちら側に来てよろしいのですか? 作戦の内容が相手にバレてしまえば、こういった集まりに呼ばれる機会が無くなるかもしれませんよ?」
天ヶ瀬と樋口が一方的にとはいえ仲が悪いので、どちら側につくのかというのは大きな問題になってくる。出来る限り知られないようにするが、それでも絶対はない。そのリスクをきちんと考えているのかと、先に確認している。
「大丈夫よ。別に傷を舐めあっていくつもりはなかったから。構わないわ」
「俺も、どうもあの人とは合わない」
あまりに樋口は人望がなかった。それが分かり、少しの気まずさのようなものがあった。全員に好かれるのは、とても難しい。
「あの人よりは、天ヶ瀬さんの方が好きよ」
「それは、とても光栄ですね。私も未央さんを好ましく思っております。相思相愛なんて、嬉しさで舞い上がっています」
「全然、表情は変わっていないけど」
胡散臭さの勝負では、樋口に軍杯があがった。未央と篠原は、現在は味方と判断していいわけだ。これから樋口のスパイになってもらう。二人なら、特に未央なら上手く立ち回れそうだ。
「未央さんと篠原さんに頼むことは、たった一つです。樋口さんから絶対に目を離さない。それだけを遂行してください」
天ヶ瀬は今回の集会で、樋口が何かしらの行動を起こすと確信している。そのため、見張り役として二人を選出した。
最初は蒜山が反対して警察で監視させると言ったが、結局樋口に邪魔をされてしまったため、認めざるを得なかった。
被害者家族という立場を使い、未央か篠原どちらかが常に傍にいる状態にする。しかし、それだけで蒜山の許可はおりなかった。そのため、作戦にはおまけがついた。
「いくら私を好ましく思っていても、会場にいる時は他人のフリをしてくださいね」
「もちろん。あなたとは、他人よりも嫌な人として扱ってあげる。つい本音が出るかもしれないけど、あなたこそショックで泣かないでよ?」
「必要なことなので、我慢します」
樋口の思惑通りにいかなかったのは、天ヶ瀬の介入を阻止できなかったことだ。のらりくらりと立ちはだかる障害を乗り越えていき、今日の集会への参加をもぎとった。天ヶ瀬が参加するのを避けられないと分かった時の樋口は、表情を全く取り繕えていなかった。あと少しで手が出るのではと、心配したぐらいである。ついでに僕もついていくことが出来たので、一つも見逃さずに状況を目に焼き付けようと思う。
集会は、たくさんの人数が集まるのを予想して、ライブでも利用される屋外ステージで開かれる予定だ。千人は軽く収容できる広さに、どれだけの人が来ると考えているのか。自信過剰に感じたが、この事件は現在日本で一番関心が寄せられている。犯人が捕まっていないことで世間は恐怖を感じていて、その恐怖を怒りに変えている人もいる。そんな状況の中で集会があると知れば、野次馬根性からたくさんの人が見に来そうだ。千人なら集まるか。そのぐらいの人数を集めたら、数の力で様々なことが出来る。それこそ、天ヶ瀬が心配したデモだって起こせる。犯人が混乱の中で、狙っている人間に危害を加えるのも簡単だ。それを阻止するために、天ヶ瀬は来た。
日付を考えると、今日犯行は起きる。それは別の場所ではなく、ここで起こると天ヶ瀬は考えている。樋口を見張らせているのは、彼に被害が及ぶのか、それとも。それは、すぐに分かることだろう。
「そろそろ時間ね。天ヶ瀬さんは後から来るのよね。会場で待っているわ」
「私達もすぐに行きます」
時間を確認すると、午後一時三十分。始まりは午後二時からなので、そろそろ行くべきだ。二人は段取りの確認も必要だろう。
未央と篠原を見送ると、それまで遠くで様子を窺っていた蒜山が近づいてくる。
「本当に大丈夫なのか?」
会場の警備すらも民間の警備会社の頼まれてしまい、警察の面目丸つぶれ状態ではあるが、会場周辺を囲んで出入りする人間をチェックしている。そのように限界の範囲を争っていて、お互いに睨み合っているわけだ。
蒜山はほとんどの人に顔を知られているため、会場の中に入れない。すぐ近くに行けないのに憤りを感じているのが、手に取るように分かった。髪が乱れているのは、きっと苛立ちにまかせて手でかきまわしたからだ。
「本当に何を考えているんだ。人を殺す気か」
「そうならないように最善を尽くしますが、蒜山刑事にもぜひ協力してもらいたいです。私は警察を信用していますので」
「何かあったら、すぐに連絡してくれ。しかし、実際に犯人は現れるのか? もし、ここに来ないで別の場所にいたら……犯人にとっても、そっちの方がやりやすいはずだろ?」
「その可能性も考えましたが、犯人は絶対にここに来ます。いえ、すでに来ているのかもしれませんね。獲物を選別している最中とか」
その言葉は重苦しく響いた。冗談として言ったのだとすれば、誰も笑えるわけが無い。蒜山も睨みつけるように目を細めて、大きく息を吐いた。許可したとはいえ、未だに一般人に協力させているのを納得はしていない。
「とにかく、こちらはこちらで目を光らせておくが、この距離からでは出来ることも少ない。気を抜かずに、怪しい人物はマークして少しでも妙な動きをしたら、これを使ってくれ」
そう言って差し出してきたのは、小型ではあるが銃の形をしたものだった。本物の銃ではもちろんないだろうが、海外のテレビなどで見たことがある。
「これは?」
「テーザー銃だ。体のどこでもいいから当たれば、相手の動きを封じられる。ここから電極のついた針が発射されて電気が流れるんだ。その間は、絶対に相手の体に触れるなよ。死にはしないが、ものすごく痛い。静電気なんか目じゃないからな」
大げさな脅しではなく、本当に痛いらしい。もしかしたら、実際に経験したのか。それぐらいの説得力があった。
差し出されたテーザー銃を、天ヶ瀬は物珍しそうに眺める。彼も初めて見たらしい。そのまま上に下に横にと顔を動かし、受け取ろうとしない。さすがに焦れた蒜山が、無理やり握らせた。
「こういう野蛮なものは、先生の主義に反するかもしれないが、身を守るために持っていてくれ。先生が狙われないという確信はないだろう。犯人を捕まえるのも大事だけど、一番は身の安全だ。もちろん桃洞君もだからな」
「はい。天ヶ瀬のことは任せてください」
手の中にあるテーザー銃に意識がいっている天ヶ瀬をそのままにして、僕は蒜山と頷き合った。これから何が起こるか分からない中、一番に守るべきものは決まっていた。
午後一時五十分。天ヶ瀬と僕は会場に入った。
「ようこそおいでくださいました」
まっさきに樋口が出迎えてくる。彼はテレビ中継が来るのを見越して、全身をブランドスーツで固めていた。もしかしたらスタイリストでもついているのかもしれない。それぐらい、頭の上から靴の先まで完璧に整っている。
天ヶ瀬に握手を求めて手を差し出してきたが、表情は笑みを浮かべているのに敵意むき出しだった。本人は上手く隠しているつもりかもしれないけど、その目が強い感情を訴えてきている。とても分かりやすい人だ。プライドが高くて器が小さい。きっと今も、天ヶ瀬が余計なことをして自分よりも目立とうとするのを警戒している。
「あなたに参加していただくのは、たくさんの人に反対された中で、私の一声があったからです。絶対に騒ぎになるような行動は止めてくださいね。他の人が、あなたに危害を加えても止められないかもしれませんので」
嫌味と警告。天ヶ瀬は握手をせずに、口元に手を当てて答えた。
「何事も起きなければ、私も穏便に見学するつもりです。ただ混乱に紛れてよからぬことを企む方がいれば……私としてもそれなりの対応をさせていただきます」
いつの間にか、樋口を敵認定している。しかも、度合いがかなり強い。なんとなく感じていたが、天ヶ瀬は樋口に強い疑いを抱いている。樋口には、最初の事件でアリバイがあったはずなのにだ。
しかしそれが、巧妙に作られたものだったとすれば? ありえる話だ。もしこの考えが当たっているとすれば、樋口は自分の妻を手にかけたことになる。それはとても、かなり気分の悪くなる話だ。
しかし今は、それについて話している時間はない。本人が目の前にいるから余計にだ。疑っているのがバレれば逃亡される。やけを起こして、たくさんの人を巻き込んで自滅しようとすれば最悪の事態もありえる。僕に出来るのは、ポーカーフェイスを貫くことだ。天ヶ瀬の後ろで、目立たないように顔を伏せた。嫌味を嫌味で返され、樋口は一瞬怯んだがすぐに立て直す。
「とにかく静かにしてください。私達は私達のやりたいことをしたいのですから」
天ヶ瀬に付き合っている時間がないと、腕時計を見た樋口は別れの言葉も言わずに去っていった。そんな彼の元に近づく二人の影があった。自分達の仕事を、真面目に果たそうとしている人達だろう。その後ろ姿を見ながら、僕は天ヶ瀬の後ろではなく隣に立つ。
「帰ったら説明をしてくださいね」
もうすぐ午後二時になる。詳しいことを聞くのは後回しにすると伝えれば、彼は目を細めた。
「説明しなくても、いずれ分かるかもしれません。今日は、この事件にとって重要な局面を迎えるはずですから」
いつもなら、事件が進み犯人に近づくにつれて、人を煙に巻くようにしたりと機嫌が良くなるはずだった。しかし、今は悲しげな表情を浮かべている。
「大丈夫ですか?」
あまりにもその表情が辛さを含んでいて、思わず聞いてしまった。こんなことを聞かなくても大丈夫なはずだ。すぐに質問を取り消そうとしたが、その前に彼に手を取られる。
「ありがとうございます。私は、君が傍にいてくれるおかげで、探偵としての活動を続けられているのです。今回も、気づいておられませんが大変力になってくれています」
天ヶ瀬が感謝の言葉を伝えてくるのは珍しくなかった。しかし、いつもより熱が込められている気がした。何かを怖がっている。そう感じた。
「僕は、いつでも天ヶ瀬の傍にいます。探偵としてのあなたの実力を、誰よりも僕が知っているので自信を持って突き進んでください。さあ、行きましょう」
安心させるために微笑み、あらかじめ決めていた場所へと引き連れる。彼は大人しくついてきた。そして、ここで見ているようにと言われた場所に来た時、タイミングを見計らったみたいに集会が始まった。
集会の会場には、たくさんの人がいた。座る席が足りずに、立ち見する人までいたぐらいだ。席を確保してもらわなければ、こうしてゆっくりと見られなかった。そこは樋口に感謝である。ここはライブ会場としても使われているので、しっかりとしたステージがあった。そこには、今までの事件の被害者家族や関係者が集められていた。話を聞いた人もいれば、見たことのない人もいる。
彼らはみんな、緊張した表情を浮かべていた。未央と篠原も例外ではない。しかしその中で一人だけ、いっそ場違いなぐらいに生き生きとしている人がいた。樋口だ。マイクを持って、集まった人々に向け簡単に自己紹介をすると、テンション高く話し始める。
『本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。私達が何をしようとしているのか、何を考えているのか、とても気になっていることでしょう』
拳を振り上げ、言葉に熱意を込めている。さすが精神科医なだけあり、彼は人の心を掌握するのに長けていて、ここにいる人達が耳を傾けて静かになった。向けられているカメラは、きっとこの様子を生中継するためのものだろう。わざわざ呼んだのか。そうでなければ、あんな一番いい位置で撮れないはずだ。
『私は妻を失いました。事件の最初の被害者でした。とても大事な、かけがえのない人だったのに。もうこの世にはいません。ここにいる全員、私と同じように大切な人を亡くしています。ご存知の通り、世間を騒がせている殺人犯によってです』
何を伝えようとしているのか。どうしようとしているのか。まだ分からない。しかし、ただ単に今の状況を訴えるだけでは終わらず、よからぬ事を考えているのだけは明らかだった。
天ヶ瀬はどうしているのかと横目で確認してみれば、必死に抑えているが興奮していた。これから起きることを待ち望んでいる。そう思った。
その姿は、僕も知らない天ヶ瀬だった。
『犯人はまだ捕まっておらず、野放しにされたままです。あなたの隣にいる人が、犯人ではないと自信を持って言えるでしょうか? 私は言えません。ここにいる、ほとんどの人がそうでしょう。すでに六人も殺しているのに、誰もその存在を知らないのです。あなたが狙われないという保障は、どこにあるのでしょう? あなたの家族が、大事な人が殺されるかもしれません。自分には関係ない? ここにいる私達も、そう思っていました』
「……そろそろ始めそうですね」
その言葉を合図にしたように、さらに樋口の声に熱がこもった。目を爛々に輝かせて、再び拳を振り上げる。
『私は犯人に呼びかけました。ここで集会を開くと伝えました。もしも、犯人に人の心があるとするならば、逆にそんな心がなくても、ここに来ている可能性は高いです。私達の姿を見て心を痛めているのか笑っているのか、どちらでも構わない。みなさん! 警察は当てにならない! 私達の手でなんとかするのです! 犯人を捕まえましょう! そうしないと次に殺されるのはあなたです!』
会場全体が、良くない空気で覆われた。誰もが変な興奮をしていて、正常な判断が出来なさそうな、おかしな表情に変わっていく。
天ヶ瀬の言っていた通り、これから樋口は何かを始めようとしていた。恐ろしい何かを。ここにいる人を利用してだ。
『警察は何もしてくれません! 自分達の力で道を切り開く以外、助かることはないでしょう! 立ち上がるのは、今この時です!』
その瞬間、会場のどこかで破裂音が鳴った。悲鳴が上がる。誰かが爆竹でも鳴らしたのか。しかし今の状況だと、それは銃声に聞こえた。
この音を合図にして、話を聞いて洗脳されていた人々が立ち上がる。もはや理性のある顔ではなく、目の焦点が合っていない。恐怖と興奮に支配されている。下手に刺激をすれば、こちらを傷つけて来そうだ。
どうするべきか戸惑っていると、いきなり腕を掴まれた。誰かが危害を加えてきたのかと体を固くしたら、耳元で囁かれる。
「安心してください。私です」
声を聞いて安心した。天ヶ瀬だ。隣にいたのだから当たり前のことなのに、この場の異様な空気に気付かぬうちに呑み込まれていたらしい。
「ここに留まるのは危険です。人の波に巻き込まれる前に、安全な場所に移動しましょう。さあ、私に着いてきてください」
そのまま腕を引かれ、天ヶ瀬に先導されながらステージ裏のところまで歩いた。ここなら集会を開いた側の人間しかいないだろうから、とりあえずは安心だ。遠くから聞こえてくる人々の声は、我を忘れていて叫び声へと変わっている。怖い。最悪の事態が起こった。天ヶ瀬の予想通りに。
「デモを、デモを起こして……一体どうするつもりなのでしょう。樋口さんは、何を目的としてこんなことを?」
人々の気持ちが悪い方向に進んでいくのを、あそこまで身近に感じたのは初めてだった。群衆は染まりやすいとしても、短時間で変わりすぎだった。それぐらい、樋口には人を操る能力がある。そういうことか。
「目的は明白です。人々は、犯人を見つけられません。しかし、その怒りや恐怖が消えはしないでしょう。怒りの矛先が次にどこへ向けられるのか。……さて、ここで一つ思い出してください。この会場の周辺には一体誰がいるのか、君は覚えていますか?」
会場周辺。よく考えなくても、すぐに答えが出た。
「蒜山さんが危険じゃないですか!」
周辺には、監視目的でたくさんの警察がいる。事件が解決されないことで失望と怒りと恐怖を抱えた人達が、この状況で誰をターゲットにするかなんて火を見るよりも明らかだった。実際に火を見ることになるかもしれない。それぐらいの理性の飛びようだ。
とにかく、先ほど別れた蒜山に危険が迫っているのは確かだ。ここでこうしている場合ではないと、僕は天ヶ瀬に掴みかかる勢いで叫ぶ。むしろ、どうして彼が焦っていないのかが不思議だった。
「落ち着いてください。蒜山刑事は平気ですよ。人々が暴徒化して向かっていると忠告しましたので、今頃対応しているところでしょう。しかし、困ったことになりました」
「そうですね。こんな騒ぎになるなんて。蒜山さん達警察に任せるしかないでしょう。このまま、ここで待つのですか? こうしている間にも、犯人は混乱にまぎれて誰かを狙っている最中かもしれませんよ?」
警察のところに人々が集まれば、それを収めるのに気を取られて犯人を探すどころの話ではなくなる。誰が何をしても自由だ。むしろ人々の目が分散しているのでやりやすい。
ここで隠れている場合ではなかった。少しでも怪しい人物を探して注意を向けておかなくては。そこまで考えたところで、僕はようやく気がついた。遅すぎるぐらいだった。
「そのために、見張り役を頼んだのですね。樋口さんだけではなく、お互いにも注意を向けさせながら」
天ヶ瀬が疑いを持っているのは、樋口だけではなかった。未央と篠原に対してもだった。その中でも、一番に疑いを抱いている樋口には二人分の監視を。小さな疑いを持っている未央と篠原には、それぞれの監視の目をつけた。
「その通りです。しかし万が一がありますから、私達も三人の元へと行きましょうか。まだ動ける状態ではないと思いますが、樋口さんは私の思っている以上に口がうまいようですので。未央さん達の監視に気がつき、上手く丸めこんでいるかもしれません。集まった人数を考えると、一度見失ったら探し出すのは不可能でしょう。早く見つけますよ」
「はい!」
ここで待っていてと言われなくて良かった。報告があるまで、じっと待っているなんて絶対に落ち着けない。体を動かしている方が、幾分か気が楽である。
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