東京

 飛行機で大阪に戻り、引き出し屋のバンに乗り換えて、フミダスの更生施設がある千葉を目指す。高速は渋滞していて、車はじりじりとしか進まない。かりゆしと自分のテンションの乖離が心底嫌になってきて、途中でジャージに着替えたりする。だんだん日が落ちてきた。私はダメ元で運転席の藤田に交渉してみる。


「さ。最後に、柿澤悠弥が英語教師を殺したマンションに行きたいんですっっ」


 藤田は呆れたみたいな声音で返す。


「行ってなにする?」


「……悠弥くんのことがわかるかも」


「わかるわけがないだろ。人殺しのことなんて」


 藤田はまるで天気の話でもするように続けた。


「おれは中学のとき母親を殺した」


「えっ」


 驚いて声をあげたのは私じゃなくて、隣に座ってる八島と名乗った女だった。なんだそれ。


 怖い。


 目の前に実際に人を殺した人がいて。私って、本当はなんにもわかってなかったのかもしれない。ずっと柿澤悠弥のことを考えているつもりでいて、柿澤悠弥のことを考えている自分のことばっかりだったのかもしれない。人を殺すってどういうこと? 人が生きていく権利を奪うって、どういうこと? て話なんだよ。


「センパイ、ウソ……ですよね?」


 八島の声色は怯えている。


「母親を殺して少年院に入った。路頭に迷いそうだったおれを、中学の担任だった『先生』が育ててくれたんだ」


「『先生』、が……」


「八島。お前には話しておくべきだった。すまない」


 それきり藤田は黙って、一度も振り返らなかった。



 いつの間にか寝てしまって、八島に揺すり起こされたら真夜中の東京だった。そこはグーグルアースやネットニュースの画像で散々見た住宅街で、結局引き出し屋たちは柿澤悠弥の犯行現場に連れてきてくれていたのだった。藤田が先に降りて待っている。


「ちょっとだけだよ?」


 おどける八島の額には、よく見たら脂汗が浮いてる。お腹でも痛いんだろうか。


「あの、体調大丈夫ですか……?」


「……ばれちった?」


 八島はマスクをずらして歯を見せて無邪気に笑ってみせた。センパイには内緒ね、と付け足して。


 リュックを背負って、八島に腕を掴まれながら、藤田についていく。柿澤悠弥のマンションは家賃が安くてセキュリティがガバガバ、オートロックじゃなかったので中に入ることができた。エレベーターで屋上へあがる。


 死のう。


 リュックの中には柿澤悠弥とお揃いのサバイバルナイフがある。これで喉を突けばなにがなんでも死ねるだろう。そうしてしょうもない自分から逃げる。こんな簡単な手段にどうしてもっと早く気が付かなかったんだろう。でも、頭の中でずっと、沙織の「生きてたら楽しいことある」って言葉がぐるぐる回っていた。言われた時はあんなに悲しくて断絶を感じてたのに不思議。エレベーターが開いて、錆びついた扉から屋上へ出る。フェンスの向こうはただの住宅街で、東京は夜でもぼーっと明るくて星ひとつ見えない。柿澤悠弥はこんなところでなんて言って英語教師を口説いたんだろう。どんな気持ちだったんだろう。


 わからない。もうなんにもわかんないよ。


 リュックのサイドのファスナーを開けて、私はサバイバルナイフを取り出す。


「真由香ちゃんだめ!」


 八島に気付かれた。藤田も振り返る。私はナイフを自分の喉に突き付けて、でも、震えてなにもできなくて、涙だけが溢れてきて、ただ隣にいてほしい人の名前を呼んだ。情けない、弱弱しい声で。


「沙織さぁん……」


 

 おらぁーーー。



 誰かが暗がりからと雄叫びをあげながら飛び出してくる。作業着、ショートカット、四面楚歌。が、私を庇うようにして引き出し屋の前に立ちふさがる。沙織だ。


「飛行機で先回りしたの」


「なんで!?」


「絶対待ってるって言ったじゃん!」


 啖呵を切り、ウィンクした沙織に、八島が「シッ」と飛びかる。最初は蹴られそうになってたのをなんとか避けてる状態だったけど、段々沙織が優勢になってきた。沙織のハイキックが決まって、八島はついに頭から倒れ込む。やった! 思わずガッツポーズしてたら、ふいに、後ろから藤田にサバイバルナイフを奪われて、喉元につきつけられる。


 「八島から離れろ。こいつを殺すぞ」


 イケイケになってた沙織がびたっと止まる。藤田は沙織を追い払うようにナイフを振り回して、私の首根っこを掴みながら、マスクを外してぐったり息をしている八島に近づき声をかける。


「おい、しっかりしろ」


「センパイ、だめじゃないすか……利用者傷つけちゃ。『先生』が……」


「喋るな」


 一瞬の隙をついて沙織が藤田のナイフを奪おうとする、けどできなくて、もみくちゃになって、沙織は逆に腹を刺されてしまう。沙織の薄い腹からナイフの柄が飛び出している、ことが理解できない。沙織自身にもできてないみたいで、


「……は?」


 よろよろと一、二歩下がって、倒れた。


「沙織さん!!」


 私は沙織に駆け寄り、藤田を思いっきり睨んだ。藤田の両手の手袋に、沙織の血がべったりついてる。藤田もそれに気付いたのか、ひぃ、と叫び声をあげると、手袋をかなぐり捨て、真っ青な顔をして掌を揉み始めた。なにか小さな声でずっとぶつぶつ言ってる。……さん……なさい、お母さん、ごめんなさい。お母さんごめんなさいお母さんごめんなさいお母さんごめんなさい。


 沙織は潔くナイフを引き抜いた。途端に夜よりも黒い血が噴き出す。


「こ、こういうときって、逆に抜いちゃ駄目なんじゃなかった!?」


「知らない! いぃっ……」


「とにかく、病院!」


 沙織を肩に担ごうとして顔をあげると、藤田が奇声をあげながら殴りかかってくるのが見えた。顔を真っ赤にして泣いている。癇癪を起した子供みたいだ。咄嗟に、地面に捨ててあったナイフを拾って、藤田の胸に向かって思いっきり突き立てた。ひっくり返って倒れる藤田。まじかよ。


「センパイ!!」


 後ろで八島が絶叫する声が聞こえる。


 私は沙織を担いでエレベーターに乗った。人間ってこんなに重いんだ。階数表示が止まって見える。こうしてる間にも沙織からどくどく血が流れていって、足元にじわじわと広がっていく。


「お腹あっつい、やばいかも……頭ボーッとしてきた」


「がんばってッ!」


「真由香ちゃん、短い間だったけど、楽しかったよ……」


「変なこと言わないでよ!!」


 エレベーターが開いて、マンションの外に出て道路の真ん中で左右を見渡した。誰もいない。救急車を呼ばなきゃ。もたもたしてたら、



 ガンゴンガンゴンガンゴンガンゴン



 非常階段を下りてくる音が聞こえる。マンションの自動ドアの奥、非常口の扉がギイと開いて、瞳孔かっ開いた八島が出てきた。速い。右足を引きずってるのに。


「許さない」


 やっば。


「やばいやばいやばいどうしよう」


 すぐ前の道路に、引き出し屋のバンが止めてあるのが目についた。とりあえずあれに乗ろう。後部座席に二人で駆け込んで、スライドドアを勢いよく閉めて内側からロックする。ばんばん、ばん。


 追いついてきた八島が窓を叩いてまわっている。手の平の形に血の跡がどんどん付く。許さないとか、ぶっ殺してやるとか叫んでいる。まじでやばいって。運転席に目をやる。キーが差しっぱなしになっている。前に移動する。


「真由香ちゃん……無理、しなくていいから……」


「……私、やってみる」


 ばんばん、ばんばん。


「真由香ちゃん……あたしは大丈夫だから……」


「沙織さん、もう喋らないで!」


 ばんばん、ばんばんばんばんばんばんばんばん。


「大丈夫、私は……」


 振り返って、血がべっとりとついた沙織の頬に触れた。温かい。



 私はどこにでも行ける。

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