藤田

 ようやく勤め先の父親と電話が繋がって、カタチだけの許可が下り、ドアを蹴破る。開放された子供部屋で、パソコンデスクの奥の窓にカーテンが揺れている。ベッドの下や物陰を探したけれど、松井真由香は中にいなかった。


「まゆちゃん……! そんな、なんで……!」


 半狂乱になっている母親をどうにかしなければならない。一気に気が重くなる。窓の下を入念に確認してから、外のバンで待たせている八島に電話をかける。


「緊急事態。利用者に逃げられた」


『まじスか!? まゆちゃんてそーゆータイプ? やるなー』


 八島はイレギュラーなことがあるとテンションがあがる性質の悪い女だ。


「……あほか。ご家族の対応を」


 電話を切った途端、案の定母親が噛みついてきた。


「はやく娘を探してください! まゆちゃんになにかあったら私、私……」


 フミダスにぶち込みたいくらいに持て余していた娘だろ? なにかあったら万々歳じゃないか。本音を飲み込んで、目元に皺を寄せて笑顔を作る。


「すみませんが、手を洗っても?」


 指差しで案内された洗面所で、手袋を外して水を出す。手の平や甲はもちろん、指の間から爪の間まで入念に洗う。どこでも色んなタイミングでやりたくなるので、前はいちいちイヤな顔をされていたが、こういう時代になってからはすん、とスルーされるようになった。こんなに潔癖症が市民権を得た時代は過去にない。両手を合わせて水を切り、ポケットから取り出したハンカチで拭った。


「センパイ、母親落ち着きましたぁー」


いつのまにか現れた八島がひょいと顔を出す。フォーマルな黒いパンツスーツに相応しくない、金髪というには白すぎるウェービーなボブが揺れる。黒いマスクをしているのでいよいよ不審者然としている。


「お前も手を洗えよ。最近また感染者数増えてきてるだろ」


 両手を合わせて水を切り、ポケットから取り出したハンカチで拭った。八島はおれのアドバイスを無視して会社支給のスマホを見ている。


「アプリ入れといてもらってよかったすねー」


 フミダスの引き出しは即日実行するのが基本だが、準備は数週間前からひそかに始まる。あらかじめ親に新しい機種のスマホを買い与えさせる。万一脱走されても居場所が突き止められるように、追跡アプリを仕込んでおくためだ。


「なんかすげぇ速さで移動してますよ。車?」


「タクシーでも捕まえたんだろう。どうせどこかで追いつく」


「わーいカーチェイスだぁー!」


 明らかに喜んでいる八島に釘を刺す。


「まだやることがある」


 台所で放心している母親を尻目に、手袋をはめながら再び二階にあがる。雑然とマンガやぬいぐるみが積まれた不潔な部屋に不釣り合いな、さわやかな五月の朝の風が吹き抜ける。神の演出も趣味が悪いな。いらだちをぶつけるように窓を閉めた。テーブルに置きっぱなしの日焼けした文庫本は、パラパラとめくってみるとマーカーだらけで、いかにも利用者が読み込んでいる形跡がある。「逮捕のその日まで」。一応資料として保持しておこう。それにしても、この作者誰だっけ。


「柿澤悠弥だ。ほら、英語教師を殺して二年ぐらい逃げてたイケメン」


 いつのまにか横から見ていた八島が茶々を入れてくる。


「そういえばいたな、そんな男」


「私、コイツが逮捕されたとき小学生だったんすけど、なんかインパクトあって覚えてたんスよ。まゆちゃんて、カッキーギャルなのかな?」


 小学生て。要らない情報をふり払いながらおれは想像する。父親は放置、母親は過保護、外面は完璧だがその実夫婦仲は最悪の冷えきった家庭で育った松井真由香。この部屋にこもり、たまにコンビニや本屋に通いながら、ひたすら十年も殺人犯を推しまくってた松井真由香。断ち切ったはずの社会との接点を、社会から逸脱した男に見出していた松井真由香のことを。


 クッッッソくだらない。


 社会にはルールがある。もっと正確に言えば、社会はルールでできている。あらゆるルールがメッシュのように張り巡らされて社会が作られている。脱落者は棄てられる。ルールを教えてやる。引きこもりはゴミだし、人殺しを好きになってはいけない。


 そうですよね、『先生』。

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