沙織

 柿澤悠弥は、最初に追ってきた警官からは裸足で逃げて、ゴミ捨て場で靴を見繕ったのだと本に書いてあった。で、目についたゴミ捨て場を何か所か漁ってみたけど、そんなに都合よく靴は見つからない。仕方ないのでしばらく裸足でやみくもにさ迷ってたら、ちょうど大きな道路に出たとき大きな白いトラックが横を通りすぎる。


「……ま、待って……! 待ってくださ……!」


 必死に走っても手を振っても、トラックはどんどん小さくなって行った。足がもつれそうになって諦めかけてたら、急に止まって、運転席の窓から紺色の作業着の女の人が声をかけてくれた。


「どしたーん。乗ーりーなぁー」


 今にも藤田が後ろから腕をひっ掴んで引き摺り倒してくるんじゃないかって、心細くて仕方がなかった私は、走り寄って行って高さのある助手席に這い上がる。中は小さな部屋みたいになっていて、座席の後ろのスペースに巨大なポムポムプリンと、くちゃくちゃの柔道着? が放り出してある。だめだ、ちょっと走っただけなのにもう足が痛い。


「死にてぇのか!」


 フロントガラスの下、黄色いロードバイクが脇を擦り抜けていった。一瞬、私に言ったんだと思った。


「チャリとかバイクって、ウチらにとっては脅威なんだよね。だって生身の人間が同じ道路走ってんだよ? 向こうが無謀な運転してても、事故ったら百パーこっちが悪いことになるし理不尽だよね。てかさ、そもそもどうして裸足なの。マスクもしないで。DV旦那から逃げてきたとか? まぁいいや。オンナには他人に言いたくない事情もあるよね。あたしは古谷沙織。沙織でいいから」


 沙織、と名乗った女は、今どき珍しくパンダみたいに囲み目アイラインをひいている。教室だったらいつも真ん中に陣取って下敷きでスカートの中を仰いだりしていそうな感じの、三年間絶対話しかけられないタイプ。毛先がふわふわのショートカットに、腕まくりした作業着の左腕の裾からゴリゴリの漢字タトゥーが覗いている。正……歌……? じろじろ見てるのがバレたのか、遠山の金さんみたいに片肌脱いでしっかり見せてくれた『四面楚歌』。四面楚歌て。


「カッコイイでしょ!」


 あ、バカだ。沙織と目が合う。


「……今この女バカだなって思った?」


「はっ……!? や、そんな……!」


「なんでそんなヘンな字入れたの、ってよくツッコまれるんだよぉー」


 そんなに嫌そうにするなら最初から自慢しなきゃいいのでは。お人好しには違いない、悪い人ではなさそうだけど、苦手なタイプかもしれないなこの人。とか思ってたら、突然沙織の整った顔がものすごく近くにあってドキッとした。


「……す、んません、私あんまお風呂入ってなくて……」


 沙織は上目遣いでにっこり笑って、


「んー? いいニオイだよー? 」


 なんじゃこいつ。平然と続ける沙織。


「とりあえず流してるんだけど、どっか行きたいとことかある?」


 どっか行きたい、なんてない。ただ逃げたいだけ。ずっと無意識に握ってた右手を無理矢理解いてみたら、くちゃくちゃになった藤田の名刺が現れた。


「わ、わ、私。ふぅ。親に捨てられたんだと思うんです」


 頭の中のことを長く人に喋るのが久しぶりで、息がうまく続かない。


「い、いい年して、なに言ってんだコイツ、って感じだと、思うんですけど……」


 藤田に金を払うということは、そういうことだと思う。姥捨て山みたいなカンジで。お父さんとお母さんは、一日中部屋にずっといる私に何も言ってこなくて、だから余計に私はビシビシと感じていた。親の中にも「娘、かくあるべし」があって。例えば今はもう言葉にはしなくなったけど正社員になれとか結婚しろとか普通になれとか。そしていつまで経っても「かく」にならない子供はいらなくなったんだ。


「ふふ。じゃあ、どこでも行けるんだね」


 沙織が楽しそうに言うので、なんか、そうなのかな? っていう気分になってくる。そうなのかな? やっと実感が追いついてきたのか、急に身体中がガタガタ震えだしたので、沙織が後ろの毛布を掴んで投げよこしてくれる。ポムポムプリン柄。


「わわ私、大阪に行ってみたい……かもです」


 柿澤悠弥が本に書いていた、逃げて隠れて長い間暮らしていた場所のひとつだった。口に出した自分の声が耳に入ってきて驚く。私ってそんなこと考えてたんだ。


「キミ、なんて呼んだらいい?」


「……真由香。ですッ」


「真由香ちゃん、ちょうどよかったよ。これ、今から大阪行くから」


 沙織がウィンクして、アクセルを踏んだので身体が全体的に後ろに引っ張られる。


 ウィンクする人っているんだ。

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