第2話 勝負開始一日目①

 俺は昨日起こった事件を夢だと思いたくて仕方がなかった。

 あんな勝負を引き受けてしまったのも、あの唇の感触も。


 だが、あの唇の感触が、熱が逆に現実逃避させてくれない要因になっていた。


 俺は大きなため息をついて、すぐ手元にあったシャーペンをくるくると回し始める。


 そして何より一番憂鬱なことがひとつだけあった。


「この後も二人で配信しないとなんだよなぁ」


「配信がなんだって?天宮。」


 俺はいきなり頭上から降り掛かってきた低い声にびくりと肩を震わす。

 そして声のする方へと顔を向けると、眼鏡をかけた30代前半の担任の顔があった。


「お前、配信してることは応援してるが、授業くらい真面目に聞け。」


 少し呆れたような笑顔を浮かべながら、けれど優しい声で担任は俺にそう注意をした。


「すみません」


 俺が謝ると、笑顔を崩さないまま、担任は俺の頭を教科書で軽く叩いて、何事も無かったかのように、また教卓の前に立って授業を再開した。


 担任は生徒たちからの信頼も厚いし、それに加えて俺たちの配信活動も応援してくれている、まさに理想の教師だった。


 ──本当に良い先生だよな。


 さっきまでは聞いてなかった担任の授業に俺は少し耳を傾けた。


 ※ ※ ※


 そして全ての授業を終えた後、少し憂鬱な気分で俺は鞄に教科書を詰めていた。


 教室の時計にちらりと目を向けると、時計の針は16時12分を表していた。


 俺たちが毎日配信を開始するのは17時半頃だから、準備をするにしても今から部室に行ったら暇を持て余すことになる。


 いつもなら喜んで部室に置いてあるソファで寝るのだが、今日はなんとなくそんな気分も起きなかった。


 数十分時間を潰すにしても何をしようか。と、とりあえず立ち上がって悩んでいると、いきなり背中をかなりの強さで叩かれた。


「碧!お前まだ教室いるの珍しくね?いつもすぐ部室行くのに」


 明るい声で俺にそう声をかけてきたのは、中学の時からの仲の、速水優太はやみゆうただった。


 優太は整った顔で、にかっとした笑みを浮かべている。


「なんだ、優太かよ…」


「ねぇ、中学の時からの親友にその態度は酷くない!?」


 優太がやけにでかいリアクションをしながら、俺の席の後ろの椅子に腰をかけた。

 そして、俺もまた自分の席の椅子に腰をかける。


「嘘嘘、てか今日部活ないのか?」


「今日は休み!さすがに毎日サッカーしてると足が死ぬ」


 苦笑しながら優太はそう言う。


 中学の時からサッカーを始めた優太は、高校に入ってからもサッカーを続けており、今はレギュラーに選ばれる程の実力だ。


 うちの高校はかなりサッカー部が強いと有名なので、部活が目的でこの学校に入学する生徒も少なくはない。

 そして、その中でレギュラーに選ばれるのは、やはり努力の証なのだろう。


「いつもお疲れ様です」


「ありがとな!」


 だが、俺が教室に残ってるのも珍しいが、優太が教室に残っているのも中々に珍しい。

 いつもはすぐ家に帰っているが、何か残る理由でもあるのか?


「俺に教室残ってるの珍しいって言ってた割に、お前も残ってんの珍しくね?」


「あー、なんか違うクラスの女子に、部活終わったら話したいことあるから待ってて欲しい。って言われたんだよなぁ」


「絶対告白の流れじゃん」


「かもな」


 優太は告白されるかもしれないというのに、表情を崩さないまま俺に返事をする。

 ──まぁ告った女子も振られるのがオチか。


 いきなりだが、優太はモテる。

 整った顔立ちに、優しい性格。それに加えてサッカー部なんてモテる要素しかないから当たり前ではあるが。


 中学の時からモテていた優太だが、今まで何十回、何百回告白されても、告白してきた人と付き合うことは無かった。


 だが、一回だけ優太から告白して付き合った女子がいた。

 ──まぁ結局別れたんだけどな。


 俺は恐る恐る、今まで触れてこなかった話題を口に出す。


「まだ、前の彼女に未練あるのか?」


「んー、ないと言ったら嘘になるけど諦めてはいるよ」


 優太は俺が思っていたよりもあっさりと、今の胸の内を明かした。

 だけど、そう話す優太の顔がいつもより寂しげに俺の瞳に映るのは、ただの気のせいなんだろうか。


「そんなに恋愛っていうのは、真剣になれるものかね。」


 もうほかの生徒たちが居なくなった、二人しかいない教室で俺はそう呟く。


「んー、まぁ碧も恋愛してみれば分かるんじゃね?」


「恋愛ねぇ…」


 俺はこの十六年間の人生で、恋をしたことがなかった。

 別に恋なんてしなくてもなんの損もしないから、というのが理由だったのかもしれない。


 だから、今更恋愛なんてする気はさらさらない。


「てか、碧。時間大丈夫か?もう十七時になるぜ?」


「は??」


 さすがにそんなに話し込んではないだろう、と俺は半信半疑で時計を見る。


 そうすると案の定、時刻は十七時を回っていた。


「やっべ、遅刻する!」


 俺は急いで鞄の中に残りの教科書を詰めて、勢いよく椅子から立ち上がる。


「ごめん、優太!またちゃんと飯でも食いながら話そうぜ!」


「おう!俺碧達の配信、今日も楽しみに待ってるわ!!」


 いやお前も配信見てるのかよ!というツッコミをしたくなるのを抑えて、俺は早足で教室から出ていった。

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