第五話 いざ王城へ①
「またこの服を着る機会があるとは思いませんでした」
馬車が動き出し、グリオン家の門を潜ったところで、クノンは言った。
「人生って何があるかわかりませんね」
今クノンは、貴族学校へ行くと決まってから、母ティナリザがわざわざ作らせた正装を再び身にまとっている。可愛い蝶ネクタイもだ。
学校は無事卒業できたし、何かのパーティーに出る用事もない。何より九歳のクノンの身体はすぐに大きくなる。
だから、もう着る機会はないと思っていたのだ。
しかしこれから向かう先は、王城である。正装は欠かせない。
まるで、こんなこともあろうかと予期していたかのような、母の先見の明だった。
向かいに座る父アーソンも正装である。まあ父親の場合は毎日仕事に着ていく服でしかないが。
「そうだな。私もおまえと一緒に王城へ行く日が来るとは考えたこともなかった」
――もしかしたら一度だけあるかもしれない、とは思っていたが。それにしてもこんなに早くだとは思っていなかった。
ミリカと結婚する直前での国王陛下への挨拶か、あるいは婚約解消の書類にサインをする時か……父親は漠然とそんなことを考えていた。クノンと王城を繋ぐ関係なんて、許嫁のこと以外ないから。
だが、そんな父親の予想を、クノンは見事に裏切ってみせた。
先日、クノンから王宮魔術師に師事したいと乞われ、却下されるのを覚悟して陛下にそれとなく話してみたところ――
会っていいと許可が出てしまった。
理由を聞けば、王宮魔術師が魔術師としてのクノンに興味を示したからだ、と。
決してコネや癒着からの許可ではない。
「不思議なものだな」
父親は文官で、魔術師と関わる部署でもないから、魔術のことはよくわからない。
だが、確かにこれは普通じゃないことは理解できる。
何せ触っているから。
魔術という不思議そのものを。
「本物を飼ったらどうです? 父上の富と権力なら造作もないことでしょう?」
「駄目だ。こんなのがいたら家で仕事ができなくなる」
しかし父親が膝に乗せている「水猫」は、拒否の言葉を否定するように、ひたすらに撫でられ続けている。
いや、むしろ肯定しているのか――このように猫が気になって仕事が手につかなくなるから、と。
水猫。
その正体は、クノンが魔術で作った水の塊である。形を変え、質感を変え、温度を変え、と無駄に技術の粋を凝らした産物である。ジェニエの小細工、いや、技巧教育の集大成とも言えるかもしれない。数ヵ月前より、より本物に近づけて再現できるようになった。
実際、クノンが作れる動物の中でも、猫の完成度は格段に高い。
自分の手で触ったことがあるからだ。
いつだったか敷地内に迷い込んできた黒猫がいて、今も時々遊びに来るのだ。
「グリオン侯爵家の富と権力を駆使して、世界中の可愛い猫を集めることができると思いますが」
「馬鹿なことを……ティナは犬派なんだ。猫など許されるものか」
そもそも生き物は足元にまとわりつく。
クノンが転ぶ理由になりかねない。
そういう理由から、グリオン家では生き物など飼う飼わない以前の問題だった。ペットが欲しいなどという話をしたことさえない。
「そうですか? 猫は貴族の嗜みだってミリカ殿下もイコも言ってましたけどね」
「嗜み?」
「貴族は外に猫を囲うことが一種のステータスとかなんとか。外じゃなくてもいいじゃないか、と僕は思うんですけどね。でも家に連れ込むのは品がないと言われるそうですよ」
「……」
「それは猫じゃなくて愛人の話じゃないか?」と父親は思ったが、さすがに九歳の子供にはまだ早い言葉なので控えた。
イコだけならともかくミリカも言っていたなら、比喩的な表現でもないだろう。イコだけの発言なら減俸付きの説教ものだったが。
――父親は知らない。侍女イコの言動がクノンに伝わり、クノンの言動からミリカも相当な影響を受けていることを。
「……外に猫を囲う、か」
妙に心に響き渡る言葉だった。
小さい頃は勉強ばかり、大人になったら仕事ばかり。
趣味らしい趣味もなく生真面目に生きてきた――クノンの将来を考えると不安になり、逃げるようによりいっそう仕事に打ち込んできた。
しかし、こうして王宮魔術師に会うことが叶うまでに、クノンは成長した。
アーソンの不安と心配は、今や無に等しいほどになっている。
――許されるのでは? 外に猫を囲うことも。別に浮気でもないんだし。猫を囲うくらいの富と権力もあるし。
久しぶりに猫に触れたが……癒される。ほんの一時でもいいから、猫を撫でながら何もしない時間を過ごしたくなってきた。
きっと心身ともに疲れているのだろう。
猫と過ごせるなら休みが欲しい、と思うくらいには。
父親の心に野望の火種がくすぶる。
それに気づかないクノンは取り留めのない話を続け、父親は息子の話を聞き流しながら膝の上の「水猫」を撫で続けた。
そして、馬車は王城の門を潜る。
「父上、着きましたよ」
「待て。もう少し」
「帰ってからにしましょう。また出しますから」
「でもそれはこの子じゃないだろう? 違う子だろう?」
「父上、そもそもその猫は生き物じゃないですから……」
「だから名残惜しいのだ。おまえが術を解いた瞬間、この子はこの世からいなくなるんだ。手触りも体温も感じる。こんなにも愛おしいのに……なんと儚い……」
「……僕は全然このままでもいいんですけど……でも、お城の人が待ってるみたいですよ」
「――早く降りるぞ」
その言葉でアーソンは心を切り替えた。合図がないので馬車のドアを開けられなかった御者の男の困惑をよそに、自らさっさとドアを開ける。
「こんにちは、グリオン卿」
「……! これはレーシャ様!」
わずかな時間とは言え、大変な人を待たせてしまった。アーソンは慌てて馬車から降りて略式の礼を取る。
――そこにいたのは、王宮魔術師の印が入ったフード付きの黒い上着を着た女性。
第二王女レーシャである。
「あら、猫を連れてきたの? 可愛い黒猫」
「ああこれはなんでもありません。息子の魔術でして」
「え?」
一瞬何を言ったのか理解できなかったレーシャの前で、父親は猫を地面に置いた――と、ばしゃんと弾けて飛沫となり、猫は消えた。
「……今のが、魔術……?」
色々と面白いことができるという噂は聞いていたレーシャだが……。
今見た猫は、猫そのものだった。
水でできていると言われても信じられなかった。一目ではわからないくらい、精巧な姿形の猫だった。
「初めまして――」
地面を濡らした水の跡を呆然と見ていると、父親に続いて男の子が降りてきた。
目には革の眼帯を巻き、杖をついた、十歳に満たない小さな少年だ。
「クノン・グリオンです。本日は僕のために時間を作ってくださってありがとうございます」
折り目正しく礼をするその姿は、小さな紳士である。
目は見えずとも、ちゃんと貴族教育を受けている令息そのものだ。
「私はレーシャと言います。新人の王宮魔術師です」
「よろしくお願いします、レーシャ様」
お互い簡単な自己紹介を終えると、レーシャはアーソンに視線を向ける。
「グリオン卿、私はクノンを預かりに来ました。このまま黒の塔に連れて行きますが、構いませんね?」
「はい。息子をよろしくお願いします」
アーソンは王城の一室へ、クノンは王宮魔術師の仕事場である黒の塔……王城から隔離された建物へ向こうことになる。
「ではクノン、遅くなるようなら帰りも一緒に……ああ、そういえば、おまえは今日はミリカ殿下とディナーだったな」
「はい。父上が母上を口説き落としたという縁起のいいレストランを予約――」
「わかったもういい! 楽しんできなさい!」
こんなところで夫婦の思い出話なんてされても恥ずかしいばかりだ。
アーソンは「息子を頼みます。では失礼します」と今一度レーシャに礼を取り、足早に王城へと行ってしまった。
「クノン、私たちも行きましょう」
「はい――行ってくるね」
グリオン家の使用人である御者に言い置いて、クノンもレーシャとともに動き出した。
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