第三話 二年後の姿⑧

 今日は魔術の授業の日である。


「クノン様、卒業おめでとうございます」

「ありがとうございます、ジェニエ先生」


 二年以上の付き合いになる家庭教師ジェニエが、グリオン家にやってきた。

 離れの庭先で顔を合わせ、今日も魔術の授業が始まる。

 ――つい先日、クノンは無事貴族学校を卒業することができた。これで最低限の貴族の義務を果たしたことになる。

 クノンは将来的なことは何も考えていないが、少なくとも、社交界に出たとして学校の件が負い目になることはないだろう。

 今日も一通りの実技訓練が終わったところで、ジェニエは言った。


「いい機会なので、そろそろ真実を話したいと思います」

「真実?」


 クノンはジェニエを見た。

 見えないのだから顔を向けたところで意味はないが、振り向かずにはいられなかった。

 真実。

 身構えるに相応しいフレーズだ。


「心の準備はできていますか? 私は今からちょっと衝撃の事実を話しますよ?」

「そんな、急にそんなことを言われても……もしかしてジェニエ先生は夜空の女神で、そろそろ神の世界に帰らないといけないとか、そういう真実ですか……?」

「個人的には大好きな真実ですけど、違います。――もう私がクノン様に教えられることはない、という真実です」

「えっ」


 本当に衝撃の事実だった。


「これまで何度か、この仕事を辞める話はしたかと思います。

 もう下手に誤魔化しません。正直に言います。とっくの昔から、私がクノン様に教えられることはないのです」


 これまでは、ちっぽけなプライドを守るために、ここまで赤裸々に語ることはなかった。

 だが、もうジェニエは決めたのだ。


「以前お話ししましたが、クノン様のお父様より、攻撃性の高い魔術を教えることは禁じられています。それを踏まえて、教えられる範囲は全部教えました。

 今ではクノン様の方が私よりよっぽど上手く魔力を使っています。今の熟練度なら、恐らく新しい魔術を学んでも、すぐに私なんて追い抜くでしょう」

「そんなことないですよ! 先生が教えることなくて手を変え品を変え僕を騙そうとしてる魔術の小細工とか大好きだったのに!」

「あ、私が必死だったっていうことには気づいていたんですね。話が早くて助かります」


 いわゆる引き延ばしというやつだ。

 教えることがないので、なんだかんだと理由をつけてはやることを無理やり捻出し、課題として出していた。

 そのことにクノンも気づいていたようだ。

 気づいたのであれば、なぜ素直に受け入れていたのか。理由はわからないが。


「先生の苦し紛れの小細工で僕の魔術の幅は確実に広がった! 僕に生きる目標と魔術の深淵を教えてくれたのは先生の小細工なんです!」

「本当にそう思っているなら小細工小細工言わないでね。私はその小細工でも必死でした。ちょっと傷つきます。……でも、正直に言うと、この二年の間で本当にごまかすのが苦しい場面が何度も何度もあったと、自分でも思っています」

「そんなことないですよ!」

「あるんですよ! 本人が言ってるんですからあるんですよ! クノン様に私の何がわかるんですか! ……いやわかってはいるのか! ややこしい……!」


 そう、クノンはわかっていた。

 ジェニエの授業引き延ばしで給料貰おう作戦を見抜いていた。


「給料ですか!? 給料が足りないのが理由ですか!?」

「違います! むしろ逆! 高い給料もらってるのに仕事がないのが居た堪れないんです!」

「僕、父上に給料のアップを頼みますから! だから辞めるなんて言わないで!」

「だから給料が高すぎるのが問題なんですよ!」


 クノンは優秀だった。

 そしてジェニエは魔術師界隈では平凡だった。

 教えられることなどあっという間に教え終わっていたし、何なら教えた範囲に限れば、教え子はもうジェニエの先を歩いているくらいだ。

 きっと今ではクノンからジェニエが教わることの方が多いだろうと思う。

 ジェニエは平凡な魔術師だ。だが魔術師としてのプライドがないわけではない。なけなしではあるが、ちゃんとある。

 そのプライドが、これ以上クノンの教師をするのは無理だ、と言っている。

 ……というか、何度も辞める辞めないの話はしていて、その都度クノンに説得されて、だらだら続けてきたのだ。

 滅多にない好条件の職場だった。悪あがきでもクノンに教えることを放棄したくなかったし、クノンの成長も見守りたかったし、給料が良かったし。楽な仕事でもあったし。休日も多いし。グリオン家で出されるおやつも美味しいし。貴族のお客様としてちょっとした上流階級気分も味わえるし。

 いろんな意味で離れがたい職場だったのだ。

 だが、さすがにもう限界だ。


「クノン様!」


 ジェニエはクノンの両肩を掴む。


「あなたは私なんかより、もっともっと優秀な魔術師を師に迎えるべきです! 私ではあなたをこれ以上伸ばせません! 導けません! ……というかこれでも限界以上に伸ばしたと思っています! 自画自賛ですみませんが私はよくやった方です!」


 ジェニエが葛藤を繰り返してきた心苦しさの一番の理由は、これだ。

 自分ではもうクノンの才を伸ばせないのだ。

 クノンが優秀だったせいで、ジェニエの教え以上に伸びてはくれたが、それもそろそろ天井が見えてきた。

 ここから先の世界は、ジェニエよりできる魔術師に託したい。クノンのためにも。

 ジェニエの存在が、クノンの成長の妨げになっているのだ。なけなしの魔術師のプライドに掛けて、そんな状況は受け入れられない。

 クノンを手放す時が来たのだ。

 より高く、より広い世界に羽ばたかせるために。

 本当は、結構前にその時が来ていた。

 だってクノンが止めるから。

 ここ半年くらいは、本当にずるずるだらだら過ごしてしまった。


「正確に言うと、もう一年以上前から教えられることはありませんでした。騙し騙しで授業はやっていましたが、さすがにもう限界だと思っています。クノン様もそう思うでしょう?」

「騙してよ!」

「え?」

「もっと僕を騙してよ! もっと華麗に騙してよ! 僕はジェニエ先生がいいって言ってるんだ! これまでのように騙し騙しで騙してよ!」

「……」


 ジェニエはクノンから離れた――なんだか年下の男の子に迫られているような、妙な気分になってきたのもあるが。


「……だから、もう限界なんですよ」


 自分の周りを見れば、水で作ったいろんな動物が佇んでいる。

 数は五十以上。見上げるほど大きいものもいれば、爪くらいの小さな生物もいる。

 生物たちをかたどった水の塊だ。

 どれもこれも陽光に反射して透き通る姿は、芸術品のように美しい。

 ――ひたすら磨いてきたクノンの「水球ア・オリ」である。

 こんなの、もはや初歩の水の魔術などではない。

 精巧で、ジェニエでは一体だって作れないほどの出来なのだ。

 天才魔術師が年月を掛けて独自の魔術を編み出しました、という触れ込みで国王陛下に披露するような……そんな魔術に仕上がっている。

 ジェニエが、やれ「形を変えろ」だの「触感を変えろ」だのと小細工で誤魔化してきた結果が、これである。

 最初こそ「魔術に失敗は付き物! がんばれ!」みたいなことを言っていたが、すぐに「そんなにがんばらなくていいんだよ?」と言い換えることになった。

 クノンは前者を気に入ったようで、失敗すると時々そう言って自分を鼓舞していた。ジェニエとしては後者を選んでほしかった。


「……本当に、もう限界なんですよ」


 こんな魔術を教えた覚えなんて、本当にないのだ。

 もし誰かが「これを教えてくれ」と言い出したとしても、ジェニエには教えられない。

 もうクノンはとっくに、ジェニエの手を大きく離れているのだ。


「嫌だ! 先生の小細工が好きだ!」

「ほんとに好きなら小細工って言うな! 二度と言うな!」


 ――そんな捨て台詞を最後に、恩師ジェニエはグリオン家を去ったのだった。



「……教え子に負けてられないしね」


 グリオン家の門を潜り外へ出たジェニエは、颯爽と歩き出した。

 ――過去、魔術学校で本物の天才たちを見たジェニエは、そこで魔術に懸ける想いがくじけた。

 自分にはそこまでの才はない。

 魔術師として覚醒しただけでも立派なのだし、だったら魔術師として登り詰めるのは天才たちに任せればいいと諦めた。

 だが、初めての教え子であるクノンの成長を見ていて、くじけた想いが奮い立った。

 自分でも苦しいと思う子供騙しの小細工でも、それを組み込んで、どんどん多様性を取り込んで成長してきたクノンは、紛れもなく天才だと思う。

 それと同時に、必死で努力している姿も見ていた。

 魔術に失敗は付き物。

 そう言って何度も何度も挑戦し、一つずつ壁を越えてきたのだ。

 魔術学校でジェニエが見た天才たちも、きっと、こうして努力を重ねていたのだろう。

 教えられてパッとできたのではなく、何度も何度も試行錯誤してきたのだろう。

 今更ながらそれに気づいた時、ジェニエは自分に問う。

 あの頃、自分は必死で努力していただろうか、と。

 ――まだ諦めるには早い。

 小細工が得意?

 結構じゃないか。

 小細工だって突き詰めればとんでもない形になることは、クノンが教えてくれた。


「魔術に失敗は付き物、か。……まだ間に合うかな」



 ――後に歴史に名を遺す魔術師ジェニエ・コースは、この時より、生涯を懸けて魔術の深淵に挑むことを決意したという。

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