第二話 色付く世界⑤

「――色……? 色が見える、と?」


 王城での仕事を終えたグリオン家当主アーソンは、屋敷の玄関を入ったところで待っていた、侍女イコから驚くべき報告を聞いた。

 アーソン・グリオン。

 まだ三十代前半という、若き侯爵である。

 少々冷たい印象のある薄い藍色の瞳に、端整な顔立ち。明るい鳶色の髪は短く清潔感がある。

 そこまで背が高いわけでもなく、パッと見で目を引かれるほどの美貌があるわけでもない。

 だが、よくよく見たら全ての要素が高いレベルでまとまっている男である。

 目立つ特徴がないことも含めて非常にバランスがよく、だからこそ周囲に埋もれて、だからこそゆっくりとその頭角を現してきた。

 そして今や城勤めを許され、国王陛下の信頼も厚い。


「はい。有効範囲は狭いそうですが、確かにちゃんと色の識別ができているようです」


 アーソンのコートと上着を預かるイコから、更に報告が続く。


「それは……すごいことなんじゃないか?」


 末の息子クノンは、生まれつき目が見えない。

 もはや御伽噺のようになっている逸話である「英雄の傷跡」のせいだ、と言われているが、真相はわからない。

 とにかく純然たる真実として、クノンは目が見えないのだ。


「私もそう思います。近ければ近いほどよく見えて、触れたらはっきりわかるそうです」


 触れたらはっきり。

 それはつまり――


「本が読めるということか?」


 さすがだ、とイコは思った。

 本が読める。

 クノンとイコ二人で色々と試してみた結果判明したことだが、アーソンはすぐにそこに気づいた。

 そう、この現象で何が一番の収穫かと言えば、文字がわかることだ。

 本を開いて、指でなぞる。

 それで紙面に書かれたインクの色を識別し、文字を読み取ることができる。もちろんクノンはまだ文字が読めないので、これから学ぶことになるのだが。

 同じ理屈で絵は見えるので、今は絵本や図鑑を見るのに夢中である。


「……そうか……」


 溜息の混じった、重い声が漏れる。

 安堵の声だ。

 息子の将来への心配事が、大きく軽減した瞬間だった。

 身体も頭も疲れているのに、アーソンの心労は消し飛んだ。


「ティナには話したか?」

「いいえ」

「では私から話そう」


 ティナ――アーソンの妻でありクノンの母であるティナリザは、誰よりもクノンの心配をしている。元々ティナリザは、心配するあまりクノンの傍を片時も離れず、一時社交界から距離を置いていたほどだ。

 クノンが住処を別にしたいと言い出したのも、ティナリザの過剰な心配に対しての部分が大きい。

 何をするにも自分に気を遣わせてしまう、付きっきりになってしまうから、と。



 ティナリザは、侯爵家の妻として、社交の場に出ないわけにはいかない存在だ。

 ましてやクノンに王族の許嫁ができた以上、グリオン家の社交界での立ち回りは、より重要性を増してくる。

 もう何代も前の話だが、グリオン家に王女が降嫁してきたことがある。

「英雄の傷跡」は、かつて戦った魔王の呪いのようなもの。

 それは直接戦った十七国の英雄たち……ここヒューグリア王国で言えば、王族の血にのみ発現すると言われている。

 ――要するに、もはやかなり薄いが、グリオン家にも王族の血がわずかに流れている、ということだ。

 それはつまり、まさかまさかの大どんでん返しがあった場合、クノンにもギリギリで王位継承権が発生するということである。

 となれば、グリオン家が王族の派閥争いに巻き込まれる可能性はかなり高くなる。そんな大事な時に社交界に出ないのでは、かなり先行きが不安である。

 王女を許嫁にする、結婚相手にする、というのは、そういう意味もあるのだ。

 まあ現国王の子は多いので、クノンの王位継承権云々はあくまでも可能性だけの話だが。


 ――だが、遠い遠い可能性だけとは言えど、それが無意味かどうかは別問題だ。

 約百年ぶりの「英雄の傷跡」を持つ子だ。今の時代、それが理由で面倒事に巻き込まれる可能性は低いだろうが、ないとは言い切れない。

 現に、王女なんてものを許嫁に付けられているくらいだから。

 何があるかわからない。

 ゆえに、社交界が大事になってくる。

 たとえ上手く立ち回れなくとも、程々に周囲と仲良くしておくだけでも、グリオン家並びにクノンの将来は違ってくるはずだ。



 クノンが提案した離れ住まいだが、グリオン家当主としてアーソンもそれには賛成だった。

 ティナリザに侯爵家夫人の務めを果たしてもらうため、クノンから引き離す必要があった。

 まだ子供であるクノンが貴族関係の話を理解していたわけはないが、この提案は都合が良かった。渡りに船とばかりにアーソンがティナリザを説得し、クノンの別居、離れ住まいを決定したのだ。

 そして、できるだけ会いに行かないように、とも言い含めた。

 だからこそ、クノンに関する報告をティナリザにしないことを、イコにも命じている。

 話を聞いたら、妻は我慢できなくなってクノンに会いに行くだろうから。


 ――しかし、今回のこの報告は、少々勝手の違う話だ。

 これは妻に伝えてもいいし、手放しでクノンを褒めちぎってやってもいい、充分な成果である。


「クノンは本館こちらに戻るつもりはないのか?」


 報告は色々と聞いている。

 三ヵ月前から本気で魔術に打ち込むようになったこと。

 身体を作るために食事量を増やしたこと。

 剣術、とまでは言えないかもしれないが、素振りを始めたこと。

 つい最近は、本館の風呂の準備をするようにもなった。

 それに、許嫁のミリカ・ヒューグリアと、少し関係が良くなったとも聞いている。

 いつの間にか、俯きがちだった息子が前向きに生きようとするようになった。喜ばないはずがない。憎くて離れて暮らしているわけでもない。

 今のクノンなら、一緒に住んでも大丈夫ではないか。

 アーソンはそう思ったのだが。


「……まだ早いかもしれません」


 クノンに付けている侍女は、難色を示した。


「今クノン様は変わろうとしています。毎日必死で変わろうとしています。そんな時に生活環境や生活習慣を変更するようなことは、クノン様の目標の妨げになるかもしれません」

「目標か」


 それも聞いている。

 息子は、魔術で視界を得ようとしている、と。

 それができるのかどうかはアーソンにはわからないが、クノンがやりたいことだというなら、応援するだけだ。

 ――現にこうして成果があったのだ。これまでも、これからも、きっと無駄にはならない努力なのだろう。

 クノンが本館からいなくなって、約半年。

 クノンはクノンで離れでの暮らしに慣れてきたし、本館は本館でクノンがいない生活に慣れてきている。

 アーソンはあまり変わらないが、ティナリザはようやく社交界に出始めたところだ。

 もう一人の息子であるイクシオは、クノンとの接し方がわからないようで、よく戸惑っていた。言い方は悪いが、今はのびのび過ごしている。


「……そうだな。もう少し様子を見るか」


 今の状態は、お互い悪くはないと思う。

 それぞれにやるべきことがあるのだ。あえて共に過ごす必要はないのかもしれない。

 お互い……いや、何よりクノンが集中できる環境にあるのなら、邪魔はしない方がいいだろう。

 そう判断したアーソンは、現状維持を決めた。


 ――立場上、個人的な意見など言えない身だが、イコとしてもそれが望ましかった。

 今、クノンは心を開きつつある。

 以前のクノンは、イコのことを、ただの使用人としか見ていなかったと思う。

 冗談を言おうが笑わせに掛かろうが、あまり反応がなかった。もしかしたら邪魔だとさえ思っていたかもしれない。

 人そのものに興味がないか……あるいは、恨みや嫉妬、憎しみといった感情を持っていたかもしれない。

 それなのに、今はちゃんと受け答えができる。

 見えない目でイコを、周囲を、人を見ようとし始めている。

 イコは魔術のことはわからないし、将来的にクノンの望みが叶うかどうかも判断がつかない。

 だが、今クノンの心を開き、他者に対する思いやりや常識といったものを学ばせておくのは、とても大事なことだと思っている。少し無理をしてでも性格を前向きにしてしまいたい。

 二度とあんな暗い顔をさせないために。

 暗い顔で俯いている子供など、誰が見たいと思うのか。


「イコ、いつもありがとう。君にはかなりの負担を掛けていると思うが……」

「構いませんよ。お金のためですから。お褒めの言葉より給金アップをお願いしたいですね」


 ――ここで謙遜して曖昧な忠誠心を示すのではなく給金の話を出すイコだから、アーソンは安心してクノンを任せられるのだ。


「はっはっはっ。金の話はバレンにしたまえ。使用人の給金は彼が決めている」

「えー。バレンさんお金に厳しいから無理ですよぉ」


 深刻に、生真面目に考えるタイプだったら、クノンと一緒に思い悩んで、沈んで行ってしまいそうだったから。

 だから、できるだけ陽気な侍女を付けた。

 その判断は、きっと間違っていない。


 ――しかし二年後、少しだけこの判断に迷いが生じるのだが、それを今のアーソンが知ることはない。

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