第一話 英雄の傷跡と盲目の少年③

「足りない。全部足りない」


 クノンに「視界を得る」という野望が生まれて、一週間ほど経った日の夜。

 自室で夕食を……食べているサンドイッチの具材が何かを意識して、確認しつつ腹に納めながら、クノンは今日一日を振り返る。

 段々と、魔術や魔力といったものに慣れてきた今、己に足りないものが多すぎることに気づいた。

 午前中は家庭教師による授業、午後は自主的な魔術の訓練。

 ここ一週間、このサイクルは変わらない。変えたいとも思わない。

 進展はまだないに等しいが――それにしても、だ。

 本当に、足りない。


「――え? 私からの愛情が足りない?」


 給仕をしている侍女が何か言っているが、それには構わない。


「愛情は……足りてると思うよ」


 いや、つい構ってしまった。


「よかった。惜しみなく私の愛情を注いでる甲斐がありました」

「いやイコはいいんだけど」

「これで足りないって言われたらもう添い寝しかないですよね! あっ、今夜は添い寝しましょうか!?」

「そうですか。いらないよ」


 侍女はともかく、父親にも母親にも兄にも、愛されているとクノンは思う。

 愛されているがゆえにクノンは申し訳なさに圧し潰されそうだったし、愛しているがゆえに家族も後ろ向きなクノンは見てられなかったのだろう。

 その結果、今は段差の少ない離れを用意してもらい、そこで家族と離れて侍女と住んでいる状態だ。

 クノンが頼んだ環境である。

 顔を合わせれば気を遣わせるし、溜息を吐かせてしまうから。気も滅入るだろう。クノンだってそんなのは本意じゃない。

 こんな状況でも、たまには顔を見に来てくれるので、愛されてはいるのだと思う。

 家族のためにも、絶対に視覚を手に入れたい。もう気を遣わせないために。


「知識も魔力も全然足りない。特に体力が足りない気がするんだ」


 この一週間、毎日のように倒れているくらいだ。

 魔力が足りないのか、体力が足りないのか……きっと両方だとは思うが。


「それは仕方ないんじゃないですか? クノン様はまだ七歳ですし。心も身体もこれから成長しますよ」


 イコの言う通りだとは思う。

 だが、それでは遅い。遅すぎる。

 可能であれば今すぐにでも視覚が欲しいくらいなのだ。これから何年も掛けて、心やら身体やらが成長するまでなんて、とてもじゃないが待っていられない。


「……でも、そうですね。クノン様は小食ですし、同年代からすると少々身体が小さいかもしれませんね」


 なるほど、とクノンは頷く。


「体格も足りないんだね」


 それなら解決法はわかる。

 食べればいいのだ。もっとたくさん。それに。


「少し身体を鍛えた方がいいよね?」


 目が見えないせいで、身体を動かすことはほとんどない。

 下手に動けば、ぶつけるか転ぶだけだから。

 その結果、少し散歩するだけで息切れするほど体力がない。

 イコなんて、倒れたクノンを抱えて歩いても、息切れなんてしないのに。

 これまでは生きることさえどうでもよかったから、それでよかった。

 だが、今はそれでは駄目なのだ。


「そう、ですね……もう少しだけ筋肉をつけた方がいいかもしれませんね」


 この一週間で学んだ。魔力を扱うにも魔術を使うにも、結局は身体なのだと。体力なのだと。

 二、三回魔術を使ったくらいで息が上がっているようでは話にならない。訓練するにも最低限の体力は必要。そうじゃないと効率が悪い。

 ――どこかの国の歴史に残る暗君が、あらゆる改善点と政治的腐敗に同時に手を出して、何もできないまま崩御した、という有名な失敗談がある。

 要は、一度にたくさんのことを急にしようとしてできなかった、という話である。

 そんなことにならないよう、ふらふらしないように方向性を定めて、できることを一つずつやるのだ。

 きっとそれが、最終的には一番の近道になるはずだ。

 一番は魔術。

 これは最優先で極めるべきもの。

 二番目は、身体作り。

 魔術を使うための身体を作るのだ。

 魔力が尽きたら身体を鍛えて、身体が疲れたら魔術を鍛える。

 理屈で言えば、そんな感じで効率よく鍛えられるはず。

 ――これだ、とクノンは思った。方向性が定まった。


「イコ、食事の量を増やしてほしい」

「わかりました」

「あと身体を鍛えたいんだけど、何がいいかな?」


 真っ先に思い浮かぶのは、歩いたり走ったり、というものだが……クノンにはそれは無理だ。きっと転んで怪我をするだけだろう。

 目の前で何度も転んでいる姿を見ている侍女には、言わずとも伝わっている。


「うーん。素振りとかは、その場から動かないからいいのでは?」

「素振り? 剣とかの?」

「はい」

「やり方、教えてくれる?」


 理屈はわかっているつもりだが、生憎剣も素振りも見たことがないクノンである。

 想像で勝手にやるよりは、できる人に教えを乞う方がいいだろう。


「あ、いえ。私は武芸に触れたことがないですから。旦那様に相談されては? 素振りくらいなら門番でも教えられそうですし」

「そう。じゃあ頼んでいい?」

「わかりました。今夜のうちに……あ、今夜は旦那様も奥様も不在だったな。明日、バレンさんに話してみますね」


 バレンはグリオン家の執事である。

 両親が不在なら、その間のグリオン家の切り盛りはバレンが担当している。


「うん、お願い」


 クノンのやることが増えた。

 だが、これはこれで楽しみでもあった。

 魔術を鍛えることと、身体を鍛えることは、きっと密接に関係している。

 どんな困難でも、視界を得るためなら、いくらでも乗り越える努力をするつもりである。

 最早それ以外の生きる理由なんて、クノンには存在しないのだから。



 翌日。

 午後、魔術の訓練に汗を流していると、知らない足音がやってきた。


「初めまして、クノン君。東虎流剣道術元師範、オウロ・タウロです」


 しゃがれた声からして、かなり老齢の男である。

 声の発せられる位置もそう高くない……きっと小柄な老人だ。


「オウロ……オウロ師匠ですか?」


 オウロ師匠と言えば、確か兄の剣術の先生の名前である。


「ええ、そのオウロですよ。クノン君が素振りを教えてほしがっているという話を聞きましてな。こうして馳せ参じました」

「よろしいのですか? ご高名なオウロ師匠が、僕なんかに教えて……僕はこの通り目が見えないので、まともな剣術なんて……」


 少しだけ、以前のクノンの引っ込み思案が出たが――老剣士は笑った。


「ふふふ。剣術なんてものはですな、元々まともではないのですよ。弱い奴が強くなるために身に付ける技術ですからな。

 自然界で言えば、弱者が強者へと変じる不自然な行為なのです。これをまともと言えますかな」


 そういうのはよくわからないからとにかく教えてくれないかな、とクノンは思った。

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