第一話 英雄の傷跡と盲目の少年②
「――不思議だ……」
意識が変わっただけで、こんなにも心境に変化が現れるものなのか。
魔術で視覚を得る。
そう決めた瞬間から、クノンは何事にも前向きに考えられるようになった。
まず変わったと感じたのは、食事だ。
これまでは、いつもと同じ一口大のサンドイッチを、ただ生きるためだけに食べていた。
味など二の次。食べづらくなければどうでもいい。
何を食べているのかさえ、わからないのだから。
しかし、今は違う。
バラバラの具材を重ねたそれが、口の中で混然一体となるその味の一つ一つを知りたくなった。
このパリパリしている瑞々しい草のようなものはなんだ。
パンに塗られた酸味がある何かはなんだ。
これは知っている。薄切りの林檎だ。
「――それはレタスです。パンに塗られているのはマスタードですね」
専属で付いている侍女イコに、今己が何を食べているかを問う。
「あ、それは林檎です」
「林檎はわかるよ」
これほど鮮明な味と歯ごたえは他に類を見ない。
こんなにも特徴的だと、一度食べて名前を教えられれば、そうそう忘れない。
「と見せかけて
「えっ? すもも? 何それ?」
――魔力や魔術で感知するには、対象に関する強い認識と記憶が必要だ。
魔術の教師は、やろうと思えば日常のありとあらゆることが訓練になると言っていた。
まだ魔力の操作が下手なクノンがやるべきことは、魔力を自由自在に操作できるようになることだ。
「ほーらこれは何かなー? クノン様にわかるかなー?」
最近、侍女が面白がっていろんな食べ物を用意するようになった。
だがやりすぎだ。いろんな意味で。
「給料減らすように言っておくね」
「あ、すいません。調子に乗りました」
朝食が済むと、家庭教師がやってくる。
今日の午前中は座学である。
と言っても本を読んでもらい耳で聞き、それについて雑談するくらいのものである。
教師側も、目が見えないクノンの教育には戸惑うことが多いらしく、従来の教え方ができないためこの形で落ち着いた。
フラーラ・ガーデン男爵夫人。
五歳からクノンの家庭教師に付いている人で、もう二年の付き合いになる。
三十歳を超えたくらいの、声も雰囲気も優しい女性だ。
彼女にも同年代の子がいるそうで――よほどクノンが不憫に思えるのか、二年の付き合いになる今でも、時折哀れみと同情の溜息が聞こえる。
「歴史、ですか?」
「はい。特に聖騎士ヒストアの話が聞きたいです」
十七王大戦。
それはクノンが、己の目が見えない原因として捉えている、忌まわしき昔話である。
少なくとも、フラーラはこの話に触れるとクノンが嫌そうな顔をするので、意図して避けていた。
この国出身の者なら、誰もが知っているような御伽噺にも似た逸話なのだが……クノンの心境を考えると、どうしてもそれを教えることができなかった。
フラーラは返答に困り、壁際に立っている世話役の侍女イコを見る。
教えていいのか、と。
その視線を理解し、イコは小さく頷く。
「――わかりました」
持ってきていた本を閉じる。
理由まではわからないが、クノンが己の問題に立ち向かおうとしている。
フラーラはそう解釈し、彼の意を汲むことにした。
座学が終わると、あとは自由時間だ。
目標ができたクノンにとっては、待望の魔術の訓練の時間である。
「――『
イコに連れられ庭に出て、水属性では初歩の初歩である「水球」の魔術を唱える。
「いいぞクノン様!」
己の中にある名状しがたい力が抜けてゆき、己の外に、周りに「水球」が浮かび上がる。
数は四つ。
目玉くらいの大きさ、だそうだ。
「おっ、誰がいるかと思えばただの稀代の魔術師か!」
これをどうにか、本物の目玉にするのだ。
どうしたらいいかはわからない。
魔術師の先生も、わからないと言っていた――というかクノンの言っていることが最初から最後まで理解できないようだった。
水の魔術で目玉を作る。
それはきっと、魔術界の常識ではありえない無茶を言っているんだろうな、とクノンは解釈している。
いや、無茶というよりやろうとした人がいなかったのか。見える人には不要だから。
「いい形してるよ!」
だから、これは誰からも教わることはできない。
クノンが自力でやらねばならない。
「……くっ」
まだ魔力の操作に慣れていない。
「水球」を維持していると、すぐに息が上がり、額に汗が滲んでくる。
「頑張ってる子供って応援したくなるよね!」
すぐに集中が途切れ、「水球」が芝生に落ちて弾けた。
「はあ、はあ」
息切れする。
息を整える。
魔術を使う。
時間を忘れて何度も何度も繰り返し、意識が朦朧とし始めた。
「クノン様!」
そして、気が付いたら自室のベッドにいた。
倒れたクノンを、侍女が運んできたのだろう。
「……悪くない」
身体は疲れ切っている。筋肉痛であるかのように全身痛い。
だが、気分は悪くない。
人によっては他愛のない一日かもしれないが、クノンにとっては「生きている」と思える一日だった。
悪くない。
明日もきっと、頑張れる。
先行きはまるで見えないままだが――小さな小さな希望だけは、この目でも見える気がした。
「イコ。いる?」
「――はい、ここに」
「魔術の訓練の時うるさかったよ」
「よかった。やっと触れてくれたんですね。このまま無視されっぱなしで夜を迎えたらたぶんベッドで泣いてましたよ私」
泣かせとけばよかった、とクノンは思った。気が散るから。
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