8´・2酔っぱらいエレナ《5月》&クラリッサ日記②
「ほんとぉ、ああいうのは頭にくる。陰でこそこそ意地悪をして、それでも騎士見習いかって思いますよね。ねぇ?」
向かいに座ったエレナはやや舌ったらずな口調で、ひとつしかないグラスを両手で包み込むように持っている。
ボニファツィオから貰った酒が美味しいと言うから、もう少し飲めと二、三口分ずつを何回か勧めた。彼女も少量だったから油断したのだろう。くいくい飲んで、立派に酔っぱらった。
「絶対に絶対ぃ、いつかこてんぱにやっつけるから、アルトゥーロさまもぉ、見てて下さいね」
語尾にハートでもついていそうな口調。エレナは酔うと甘えた態度になるのだ。
普段肩肘を張って勇ましく振る舞っている反動ではないかと思う。
だがこの間の記憶がきっちりあるらしいエレナは、酒が悪いのだと強硬に主張して俺の説は認めなかった。
いずれにせよ、滅多に見られないふにゃふにゃのエレナは可愛らしい。
「ふたりがかりでないと、嫌がらせも出来ないなんてぇ、ほんと小しゃい」とエレナ。
『しゃい』だと。素面だったら赤面していることだろう。
「あれで騎士になりたいなんてぇ、笑っちゃいますよねぇ。騎士たるものの心構えってものをぉ、学び直せっ」
エレナはグラスを口に運び、こくりと一口飲む。
「でもぉ本当はアルトゥーロさまが出禁にしたのじゃないですかぁ?」
「してない。する理由がない」
「でもぉ」とエレナはトロンとした目を俺に向けた。「アルトゥーロさまは、優しいからぁ」
「優しい? 俺が?」
思わぬ言葉に驚く。聞き間違いだろうか。だがエレナは頷いた。
「いつも気遣ってくれて。さっきだってぇ、クラリッサと会う時間を考えてくれて。優しいですぅ」
何かの罠か、空耳か。いや、悪魔が悪さをしているのか。部屋の中をぐるりと見回すが、エレナと俺のほかには誰もいない。
前回の今日なんて騎士の風上に置けないと詰られたのに、なんで今回は褒められているのだ。
「……だが俺のようなガサツで品格のない騎士は、騎士と認めないのではないのか?」
戸惑いながら尋ねると、エレナはそんなことないですよぉ、と答えた。
「確かにぃ、騎士の品格は足りないですが、自分の技量に慢心しないで鍛練を重ねていてぇ、素晴らしいでぇす。私ももっともっと研鑽しますっ」
前回もそこだけは褒められたような気がする。恐らくエレナは、努力を重ねることを尊ぶのだ。もしかしたら彼女が俺を好きになってくれたのは、それが理由かもしれない。
「『冷血騎士』がこんな人だとはぁ思いませんでしたぁ。ダニエレを殺さないでくれて、ありがとうございましたぁ」
こめかみがピクリとしたのが自分でも分かった。やはりあの男は特別なのだろう。
「おかげで視野が広がりましたよぅ」
「……お前の恋人だしな」
「今は違いますぅ」
「何でだ?」
僅かに緊張する。エレナは酔っていても、その間のことを覚えている。不審に思われないように質問したい。
「どうして別れたんだ?」
「うぅん。なんか違うんです。彼じゃない。自分でも、よく分からないんですけどねぇ」
ふにゃふにゃの顔をして、どこか遠くを見ているエレナ。
それはどういう意味なのだろうと、胸が苦しくなる。記憶の奥底に、俺とのことがあるのだろうか。そんな考えは自分に都合が良すぎるだろうか。
尋ねてみたいが、なんて言葉を使えば自然なのかが分からない。
「それからクラリッサも殺さないでくれてぇ、ありがとうございますぅ。あの子には酷いことをしちゃいましたからぁ」
「酷いこと?」
頷くエレナ。
「まさか結婚させられているとは思わなくてぇ。私の見通しが何もかも悪かったぁ」
「知らなかったのか」
「はいぃ。しかもあいつ、とんでもなく下衆だったみたいでぇ。保護してやるんだからって無理やり結婚したんですってぇ。二十歳そこそこで愛人が二桁いてぇ、隠し子がいてぇ、サイテーですっ」
エレナはダンッ!と片手で卓を叩き、ついでにグラスに酒を注いだ。
「クラリッサ、あんな奴の妻で一生を終えるより、洗濯女として働いているほうがマシって。重労働なのにぃ。余程辛かったんだろうなと思うと、姉として申し訳なくてぇ。とにかく生きて再会できて良かったぁぁ」
エレナの目がうるうるしている。
「ありがとうございます」
「いや、コルネリオの気まぐれだから」
「それでもですぅ。そこにどんな理由があるにしろ、会えたことが重要ですよ」
会えたことが重要。
「その通りだ」
と思わず呟いた。エレナの恋人に戻れなくても、彼女が生きているのをそばで見ていられることは嬉しい。
……歯痒いけど。
……出来れば触れたいけど。
こくこくと酒を飲むエレナはとにかく可愛い。普段の彼女も勿論いいのだが、このギャップは問答無用で素晴らしい。
……しかし、こんなに簡単に騙され酔わされて大丈夫なのだろうかと不安になってきた。
「このお酒、ほんと美味しい。アルトゥーロさま、進んでますか?」
エレナがふにゃふにゃの顔で尋ねる。
「お前がグラスを握りしめているから飲めん」
「そうでした」
えへっと笑うエレナ。
なんだその顔は。酔っているのだからこの笑顔はノーカウントだろうが、今回の人生では初の笑顔。それをこんなに早く見られるなんて。
酒に感謝したい。
いやだが、これは危険だ。明日、禁酒令だ。
エレナはグラスに新しい酒を注ぐと俺に差し出した。
「美味しいですよ!」
受け取って飲み干す。確かに美味しい。ボニファツィオはこんな酒を彼女に送ってどうしたかったんだ。単純に弱点を探りたかったのだろうか。
と、エレナはふにゃふにゃと卓に崩れ落ちた。目は閉じられてすやすやと寝息を立てている。
「おい」
揺すってみるがエレナはもにゃもにゃ言うだけで起きる気配はない。
しばらく彼女の寝顔を見つめ……
息をひとつ吐くと立ち上がった。
エレナを抱えて部屋を出る。自室に運んでやる俺の理性に感謝してほしい。コルネリオならば、へたれと笑うのだろうが。
◇◇
翌朝、俺の前に表れたエレナは、なんとも言えない顔をして、
「昨晩はご面倒をおかけしてすみません」
と頭を下げた。
「お酒に弱くて。あの失態は忘れて下さると……」
顔は見えないが、きっと羞恥でいたたまれない表情だろう。
「お前は酒禁止」
そう言うと、彼女は顔をあげた。
「飲むならここでにしろ」
「……はい。あの……」
「何だ」
「忘れて下さい。あれは私ではありません」
「そうか」
「だけど」とエレナ。「クラリッサとダニエレを殺さないで下さったことには、本当に感謝してます」
彼女はそう言ってまた頭を下げると、くるりと向きを変えて、武具の点検を始めた。
クラリッサ日記②
「クラリッサっっ!!」
洗濯物を持って小道を歩いていると、悲痛さを感じる声で呼び掛けられた。振り返ると、この世の終わりのような顔をしたレナートが駆けよってきた。
「クラリーよ。いい加減、慣れなさい」
「クラリー!!」
レナートの目には涙が浮かんでいる。
「ヴァレリアナが!!」
「姉さんがどうしたの?」
レナートは、うぅっと呻いてから小さな声で
「……深夜、あいつに横抱きされてたって。それで自室に送られたらしい」
と言った。
「まあ。それ、五日も前の話よ。耳が遅いわね」
「五日!?」
途端に叫ぶレナート。
そうか。彼の耳に入るとこんな風にうるさいから、みんな黙っていたのだろう。今日はどこかのうっかり者が口を滑らせたに違いない。
「いいいい、一体何があったんだ!」
レナートの心の中は涙が滂沱と流れているのだろう。
「お酒」
「酒?」
「そう。騎士のボニファツィオからヴァレリアナがもらったのですって。でも人前では飲めないから、アルトゥーロにあげたそうなの。で、アルトゥーロはボニファツィオの手前、一口飲んでおいたほうがいいって彼女に勧めた。そうしたらとても美味しかったらしくて、飲み過ぎてしまったそうよ」
「……それで?」
「あの人の部屋で寝落ち。それで運んでくれたのですって。意外にいいところがあるのね」
レナートはいまいち信用していないような顔をしている。
「ヴァレリアナの同室のマウロがよく知っているはずよ。聞いてみたら?」
「……だけどアルトゥーロには下心があったかも。そうだ、きっと可愛らしいヴァレリアナを見て、鼻の下を伸ばしたかったに違いない!」
「そんなことがあるはずないでしょう。ヴァレリアナの酒癖なんて私たち以外、誰も知らないもの」
全く。レナートの姉好きにも呆れてしまう。
「でもヴァレリアナはだいぶ醜態を晒してしまったようよ。禁酒令を出されたそうだから」
「うわぁぁぁ!! あんな奴の前で!!」
頭を抱えるレナート。
「何を言っているの。彼で良かったのよ。あまりの醜態にお酒を禁じてくれたの。おかげでヴァレリアナは堂々と騎士や従卒仲間のお酒を断れる。結果的には大助かり」
「だけど! ああ、もうっ! あんな可愛いヴァレリアナを見たら、冷血だって絆されるに違いない!なんてことだ! しかも抱き上げ!俺だってしたことがないのに!」
「……結局、そこなのね」
呆れてため息をつく。
「せっかく兄貴がいないのに! いいところを全部あいつに持っていかれる!」
「私、仕事があるからもう行くわ」
レナートには付き合いきれない。
「クラリッサ、愚痴ぐらいきいてくれ!」
「カルミネに叱られるわよ。あ、ほら、噂をすれば」
建物の影から、カルミネと何人かの騎士がやって来た。
「まずい、俺、昼食中ってことになっている」
レナートは心持ち首を竦めると、また後でと小声で言って、走り去った。
なんて騒がしいのかしら。
フィーアにいたときは、もう少し大人しくしていたのに。
といっても、ヴァレリアナがダニエレを好きだったから、兄を真似して大人びた素振りをしていただけだ。
今のレナートのほうが、彼らしい。
「ま、がんばって」
遠ざかる背中にエールを送り、踵を返した。
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