6´・1二度目の初日《3月》
控えめなノックの音にはっとする。眠れていたようだ。だいぶ浅い眠りではあったけれど。一度開いた目をつぶる。
扉が開く音がして足音が続く。洗面器に注がれる水の音。
「おはようございます」
エレナの声だ。
昨日のことが夢でなかったことにほっとする。
瞼を上げると、まだ薄暗い室内でエレナが俺を覗きこんでいた。手を伸ばせば、彼女の腕をとれそうだ。
「湯をお持ちしました」
「……ああ」
頷いて起き上がる。
彼女と共に迎えた朝があったのに、という未練がましい思いが湧き上がる。何も覚えていないエレナは、昨日指示された通りに武具の点検を始めた。
顔を洗い身支度を整える。
少なくとも、これから来る『明日』にはエレナがいるのだ。そのことに満足すべきで、それ以上を望むのは傲慢だ。彼女が死んだのは俺のせいなのだ。もう一度愛されたいが、今度はしっかり彼女を理解して行動すべきだろう。でなければまた、失ってしまうかもしれない。
エレナが確認し終えたベルトを再確認して腰に巻く。剣も鞘から抜いて目視をし、ホルダーに差した。
黙って部屋を出ると、エレナも黙ってついてくる。二、三歩後ろの位置だ。
そういえば一度だけ彼女が俺の真横を歩いたことがあった。あれはいつだっただろうか。何故あの時だけ、そうしたのだろう。今となっては知るよしもない。
……あまり、昔のことばかり考えていては、気が滅入る。
「お前、朝食はとったか?」
彼女を見ずに尋ねる。
「はい」
「昨晩は眠れたか?」
「はい」
「何か問題は?」
「ありません」
必要な確認を終えると、今の俺が話しかけるネタがない。以前は一体何を話していたのだろう。口説く前に、日常会話すら思いつかない。
騎士用の食堂に着くが、まだほとんどが空席だ。いるのはいつも通りの顔ぶれ。挨拶を交わして最奥の席に座る。
コルネリオと食事をするときもあるが、基本的にはここを使う。見渡しのきく奥から騎士たちの様子を伺うことも、王の腹心としての仕事だからだ。
が、朝はこの通りに集まりが悪い。
少ない騎士と動きまわる従卒を見ていて、はっとする。調理場に通じる入り口に目をやると、ちょうどエレナがやって来るところだった。片手にスープ皿、もう片手に料理が山盛りになった皿を持ち、運び慣れていないからだろう、こぼさないように慎重に歩いてくる。
確か前回、ノロノロ歩いている彼女に誰かがぶつかって、料理を床にぶちまけた。
「マウロ」俺の脇を通りがかった彼を呼び止める。「あれを片方」
マウロはそれだけで理解し、さっとエレナに近寄ってスープ皿を受け取った。
マウロの主である騎士に、
「悪い、借りた」と礼を言う。
エレナもそれに気付いて、騎士に向かって小さく頭を下げた。
「慣れるまで一度に運ぶな」
皿を置いたエレナに言う。
彼女ははいと頷いた。
「手伝いますか?」とマウロ。「朝は空いているけれど、夜では……」
「いや、いい。助かった」
マウロは笑顔を浮かべて、では、と調理場に向かった。
「すみません。料理を運ぶのは初めてで。すぐに慣れます」
「そうしてくれ。ぶちまけたら他の従卒に迷惑だ」
エレナは素直に首肯する。
「パンを取れ」
と卓上のかごに盛られたそれを示す。
と、視線を感じてそちらを見ると、リーノが俺を睨み付けていた。今、食堂に入ってきたところのようだ。大事なお姫さまが顎で使われているのが気に食わないのだろう。
「カルミネ」
「何だ?」
「従卒の顔が酷い。躾ろ」
リーノを振り返ったカルミネが、ばしりと頭を叩く。
「叩けとは言ってない」
「口で言うのは疲れたんだ」
そう言ってカルミネは俺の右斜め前に座った。
「クビにしたい。まともにやってくれれば有能なんだが、反抗的すぎる」
「直接コルネリオに言え」
「お前から頼んでくれよ」
エレナが小皿にパンを数切れ盛ったものを置いて、
「足りますか?」
と尋ねた。
「ずるい!」とカルミネ。「そっちはいい感じじゃないか。リーノはそんなことを聞いてくれたことなどない!」
周囲の従卒たちが笑いをこらえている。
「お前に問題があるんだろ」と騎士のひとりが笑う。
「主が主だから従卒がああなるんだ」
「ボニファツィオのところを見てみろよ。主そっくりのいい加減さじゃないか」
笑い声が食堂に響く。
エレナは戸惑い顔で、目があちこちに動いている。
「いいからお前は普通に給仕をしろ」
彼女はまた頷くと、他の従卒を見て自分も同じように壁際に下がった。
「俺も彼女がいいなあ」とカルミネがぼやく。
「あなたは俺で十分です!」
と皿を手にして戻って来たリーノが言う。
「嫌だね、こんな生意気な奴」
「だけど有能なんでしょ?」
「地獄耳め!」
「生意気なのも地獄耳なのも主譲りです」
ヤイヤイ言い合うカルミネとリーノ。主従のあり方としては一般的ではないだろうが、すっかり見慣れたので、もう誰も注目しない。
二人とも思ったことは言わずにはいられない性格のようだが、何故かこれはこれで上手くいっているらしい。
新しく食堂に入って来た騎士が
「朝っぱらから元気だな」
と苦笑して、俺の左斜め前に座る。
「で、アルトゥーロ。どうだ、新しい従卒は」
「普通」
「つまらん感想だな」
「全然普通じゃない! リーノより気遣いできるぞ」とカルミネ。
「そりゃいいな」
「だろう!」
盛り上がる二人の会話を聞きながら、ふと思う。
昔は俺の周りの食卓はもっと静かだった。近頃はどうしてなのか、騒がしい。
何故なのだろう。不思議だ。
◇◇
食堂を出ると、城の中枢に向かう。エレナはもの問いたげな顔をしているが、黙って後ろをついてくる。
毎朝、コルネリオの私室に顔を出すのが習慣なのだ。雑談から仕事関係まで、様々な話をする。普段は従卒は連れて来ない。今日は初日だから、俺の習慣を覚えてもらうために連れて来た。
彼女を廊下に残し、部屋に入る。
「お早う」とコルネリオ。「昨晩は口説けたか? 共に過ごせたか?」
「馬鹿かお前」
「なんだ、何もしてないのか。腰抜けめ」
「彼女は昨日が初対面だぞ」
「だから何だ。一目惚れしましたでもなんでもいいだろう」
「俺のペース」
「へたれ!」
「仕事の話はないのか」
「仕事より楽しいだろうが」
「俺はこれから毎日責められるのか」
うんざりしながら、親友の向かいに座る。
「分かった、見守る」
「信用できん」
「そういえば、エレナは朝食を落としたか?」
「うん?」
「前回、初日にやらかしただろう?」
「よく覚えているな」
「今、思い出した。お前はこめかみをひきつらせながら苛立っていた」
「そうだったか?」
幼馴染は頷いた。
覚えていない。が、最初から女であるエレナに不満はあったから、些細なミスに腹を立てていた可能性はある。
「で、今日は?」とコルネリオ。
「落としていない。俺も思い出したからマウロに手伝わせた」
「へえ。好感触なスタートか」
「誰が」
「マウロ。前も親しかったろう?」
「……そうだな」
「次はお前が手伝え」
「追々」
後ろ向きすぎる、とコルネリオは笑う。
そうか、マウロの好感度を上げてしまったかと、やや後悔する。だが彼女が食事を落として困まるよりは、いいはずだ。
それからしばらく他愛ない話をして、時間が来た。
「仕方ない、王の仕事をしてくるか」とコルネリオが伸びをしながら言う。「戦場のほうが好きなんだがな」
「征服する国がなくなったら、どうするんだ」
「そうだな」腕を組んで宙を睨む幼馴染。「ボニファツィオに広大な所領を与えておいて、反乱を起こさせるのはどうだ」
「俺は付き合わん」
「つまらん奴だ」
扉が開いて、国王の政治用の近侍が現れた。時間だ。
腰を上げて出口に向かう。廊下ではエレナが衛兵から少し離れて、美しい姿勢で待っていた。
「おい、新しい従卒」と、コルネリオが声をかける。
エレナは、はいと答えて駆け寄って来た。
「お前をアルトゥーロに預けはしたがな。こいつを殺そうなどと考えるなよ。もしやったならば、お前の妹をこの世で一番残酷なやり方で処刑してやる」
エレナはしばしの間のあと、真顔ではい、と答え、親友は鷹揚に頷いた。
なんだそれはと言ってやりたいが、それはまた二人きりのときにするべきだ。
後でな、とだけ言って国王の私室を後にした。
ちらりとエレナを見ると、なんとも不思議そうな顔をしていた。
◇◇
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