2・2 エレナと騎士《5月》

 エレナは女。


 本人からそう聞いていたが、実際にこの目で確かめたことはない。胸はないし、最初に思ったように声変わり前の少年の可能性だってあるのではないだろうか。


「……これ、胸はあるのか? 固いな。本当に女か?」


 男の胸よりは柔らかいようだが、女の胸のようではない。全くの平坦ではないが、掴めるほどの膨らみはない。


 エレナは俯いていて、表情は見えない。

 やはり女ではないのだろうか。やけに顔はツルツルだが。


「……邪魔だから……」

「あ?」

「邪魔だから、サラシと胴着で押さえているのです! でないと男物の服はボタンがしまらないから!」とエレナが叫んだ。「手をどけて下さい!」


「なるほど」

 手を離す。

「……従卒仲間は皆、知っています」彼女は落ち着いたのか、いつもの声に戻っていた。「部屋には仕切りがありませんから」


 そういえば城住まいの従卒たちは、二人でひと部屋だ。


「風呂なんかは別にしてもらっていますけれど。それでも皆、私を女だとは忘れてくれています」

「そうか」

「もちろん、忘れてくれた方が助かりますが、そういうのは止めて下さい」

「忘れろと言うのに、止めろと言うのは矛盾しているな」


 エレナがさっと顔を上げた。キツイ目をしている。

「人としてのマナーです」

「マナー」

 思わず鼻で笑う。俺には縁のない言葉だ。

「必要ないな」

 エレナはますます目を険しくする。

「アルトゥーロ様は仮にも一国の王の腹心ですよね。部下も大勢いる。このふた月ほどそばにいて思いましたが、あなたは騎士としての品格がありません」


 ぶっ、と思わず吹き出す。


「何がおかしいのですか!」

「マナーと品格を俺に求められてもな」

「アルトゥーロ様はガサツ過ぎます! 態度も粗野だし、人の奥様に手を出すし、博打遊びも酷いし、娼館に出入りするし、騎士としての自覚がなさすぎです!」

「そんなことを言われても。俺は庶民中の庶民の出身だ。聞いてないか」


 俺は正式に叙任された騎士だが、生まれも育ちも庶民だし、訳あって従卒は一年もしていない。


 エレナはゆっくりと瞬きをした。

「……従卒たちはそう話していましたが、てっきりただの与太話だと。だって剣も戦もすぐれているではありませんか」

「そりゃコルネリオのオマケで学んだからだ。親父は鍛冶職人、しかも作ってたのは武具じゃない。鍋専門だった」


 鍋、と呟くエレナ。

「ま、それでも国王の立派な右腕になれた。天才なんだな、俺は。だが騎士の品格とやらを求められても困る。そのあたりはビアッジョが担当だ」

「……でもコルネリオ軍一番の重鎮はあなたでしょう。皆の規範になるべきです」

「庶民出の俺を規範にしたい奴などいるか。だが尊敬はされている。代々の騎士階級にも一目置かれている。それで十分だろう。俺がガサツで品格がなくても、軍は統率がとれているんだ」


 エレナはまた下を向いた。

「……こんな、騎士の風上に置けないような人とは思いませんでした。あなたに殺された本物の騎士たちは、さぞかし無念でしょう」

「馬鹿馬鹿しい。庶民上がりに殺されるほうが悪い。俺は死にたくないから鍛練は怠らない」


 しばしの沈黙。それから彼女はゆっくりと頭を上げた。

「……そこは評価できます。あなたが努力家であることは認めます」

「随分と上からな物言いだな。俺はお前の主人だぞ」

「……私は騎士になりたいのです。尊敬できる主人が良かった」

「ならばクビにしてやる」

「断ります。残念な主ではありますが、私には後がない。あなたから学ぶに値するものだけを学び、誇りある立派な騎士になってみせます」


 また、強い目をしている。その目で挑むように俺を見上げる。


 その負けん気の強い性格は、コルネリオが好きなタイプなのだ。俺を尊敬してないからなんて理由で彼女をクビにすれば、俺が叱られる。


「さぞかし清廉潔白な騎士になることだろうよ」

「精進します」


 では失礼を、とエレナは続け、俺の脇をすり抜けた。


「もうひとつ」

「はい?」彼女は足を止めて振り向いた。

「持ち出していいから、繕い物は自分の部屋でやれ。せっかくの酔いが冷めて、いい気分が台無しだ」

「分かりました」


 そうしてエレナは部屋を出た。

 と思ったら、直ぐに戻ってきた。


「何だ?」

「酒をお持ちしましょうか」


 真顔。

 こいつに裏があるとしても、よく気が回ることは確かだ。


「頼む」

「ではすぐに」


 再び扉が閉まる。その音を聞くと、さっきまでエレナが座っていた椅子に腰を下ろした。


 仕事以外の会話をしたのは初めてだ。

 時おり彼女の強い視線に嫌悪が混じっている気がしていたのだが、勘違いではなかったようだ。俺を尊敬出来ずに、侮蔑する気持ちが目に現れていたのだろう。そういえば彼女の好みの男は、どんな時でも騎士の矜持を忘れない男、だった。


 彼女の立ち居振舞いから鑑みれば、父親がかつては主を持つきちんとした騎士だった、という話は事実だろう。

 エレナが男でさえあれば、俺よりも『本物の』騎士に相応しい、というわけだ。


 それがこんな俺の元で見習いをしなければいけないなんて屈辱的だ、彼女はそう考えているに違いない。


 もっとも彼女の語ったことに嘘がなければ、という前提ではある。彼女がコルネリオを警戒している他国の密偵だという可能性だってあるのだ。


 とはいえ、その可能性は低いだろう。

 密偵を送り込むなら、門前払いされそうな騎士志望の女なんて使わない。女を使うなら、コルネリオが閨に呼びたくなるようなタイプにするはずだ。


 コルネリオには妻がいる。ただし三度目の政略結婚による妻だ。気に入ってはいるが愛情はない。そして、あいつが相当な女好きなであると、広く知れ渡っている。

 実際に女の暗殺者が来たことも二度ある。


 エレナに裏があるなら、もう少し矮小な目的だろう。城の見取り図が欲しいとか、騎士・使用人がどの程度いるかとか、単純に襲撃の際の手引きとか。

 既に城にいる人間を買収するより、エレナを使い捨ての駒にしたほうが、足は付かない。


 あいつは『騎士にしてやるから』と言われれば、ふたつ返事で駒になりそうだし、万一の時は信念のもと、自分のミスだからと簡単に自決しそうな目をしている。


 そのような人間を俺とコルネリオは、この10年の間に何人も見て来た。

 愚かなことだ。





 ……そういえば、エレナはどこから酒を持ってくる気だろう。既に使用人たちは部屋に下がっている時間だ。しかも酒の貯蔵庫は、盗み飲みを防ぐために毎晩施錠している。鍵は侍従長とコルネリオしか持っていない。


 知らないのだろうか。


 来ない酒を待つのは面倒だ。寝てしまうか。


 立ち上がろうとしたとき、ノック音がして扉が開いた。エレナだ。酒の瓶を持っている。

「お待たせしました。お口に合わなかったらすみません」

 そう言いながらグラスに酒を注ぐ。


「これは?」

「いただいたんです。ちょうど今日」

「誰に?」

「ボニファツィオ様です」


 ボニファツィオ・ペリコリは騎士で軍の幹部だ。40がらみの独身男。というか妻は、夫が戦場に出ている間に逃げたらしい。本当かどうかは分からない。三年ほど前に仲間になった、新参組だ。


「あの方の従卒が今朝、倒れてしまったので代わりに馬の世話と武具などの手入れをしました。その褒美にと、くださいました」

「気前のいい話だ」


 というかエレナはいつの間にそんな仕事をしていたのだ。全く気がつかなかった。


 酒がなみなみと注がれたグラスを手にすると、エレナに差し出した。

「飲め」

 信用していない人間が持ってきた物を無邪気に口にするほど、平和な日々を送ってはいない。


 果たしてエレナは受け取り、頂きますと一言、躊躇なく飲んだ。

 卓上に戻ったグラスは空だった。

 そこに新たな酒を注ぐ。


「それでは、失礼、します」

「ああ」


 踵を返し扉に向かうエレナ。そのノブを掴み……

 ずるずると、その場にうずくまった。


「どうした」

「すみま、せん、直ぐ、に、出、ます」


 言葉がブツブツと切れる。おかしい。

 手にしていたグラスを置いて立ち上がり、動かなくなった彼女の元へ行く。蹴飛ばして仰向けにすると、薄明かりでも分かるほどに紅潮した顔をして、苦し気な表情だ。かといって、毒にやられた感じでもない。


 まさか酒に劇的に弱いのだろうか。それにしてもこんなに早く酔いが回るか?


 寝室から水差しを持ってきて、バシャバシャと彼女の顔にかける。

 ケホッと咳き込んだから、生きてはいるようだ。


 しばしの間考えため息をつくと、エレナを肩に担ぎ上げた。

 俺の従卒だし、飲ませたのも俺だ。


 床に置かれたランプを拾う。こんな時でも彼女はそれを落とさず、ちゃんと置いたのだ。


 自室を出て、従卒の部屋が集まる区画へ向かう。

 部屋の見当はつく。違ったとしても、その部屋の奴らに聞けばよい。



 これだと思う部屋の扉を開ける。真っ暗だ。左から寝息が聞こえる。ランプを右側に掲げる。壁際に狭い寝台。きちんと整えられ、寝ている人間はいない。


 ここが正解にしろ違うにしろ、あいたベッドがあるなら構わないだろう。

 ドサリとエレナを下ろし振り向くと、向かいのベッドの男が半身を起こしていた。


「……誰?」眠そうな声。

「エレナを運んだだけだ、気にするな」

「……げっ! アルトゥーロ様!」男がバタバタと立ち上がる。従卒のマウロだ。「エレナ? 彼がどうかしましたか?」


 マウロはエレナのベッドを覗き込む。


「酒を飲んで倒れた」

「酒?」

「ボニファツィオに貰ったと言っていた」

「あっ!」

「何かあるのか?」


 マウロは『あぁぁ』と唸ったが、直ぐに観念したようだ。


「エレナは酒が弱いらしくて、俺たちの前では一切飲まないんです。嫌いではないらしいんですけどね。で、ボニファツィオ様が面白がって、礼のふりをして酒を渡すから飲んだらどうなるか教えろ、と俺に」

「なるほど」

「……その酒がかなり強いやつらしくて」


 エレナはそれを知らずにイッキ飲みをしたって訳か。


「いい年して馬鹿だな。だから嫁に逃げられるんだ」

 マウロがははっと渇いた笑い声を上げる。

「服をゆるめてやれ。それから明日の朝こいつが死んでいたら、俺の支度を使用人に頼んでくれ」

「分かりました」





 こんなマヌケなことで死んだら、それこそこいつは無念で死にきれないのだろうな、と思った。




 ◇◇




 翌朝エレナはいつも通りに表れた。死ななかったらしい。だが人相が悪いから、二日酔いが酷いのかもしれない。

 その顔のまま、俺に向かって深々と頭を下げる。


「マウロから聞きました。昨晩はお手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした。しかもだいぶ失礼なことを言った後でしたのに」


「お前は胡散臭い、信用できない、主を尊敬していない、ろくでもない従卒だ。だが仕事は丁寧で完璧。そこは評価している」


 彼女はゆっくりと頭を上げた。まっすぐに俺を見る。だけれどその目にいつもの強さがない。


 しばし見つめあい。


 それから彼女はもう一度、何も言わずに深く頭を下げた。

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