12話 気晴らし
「あーもう! むかつくむかつくむかつく」
同じ言葉が狭いアトリエの中で反響して耳に入ってくる。心地よい音ではないけどそれを聞きながら、パレットから色を取り出して塗りたくる。
レオナルド夫婦の件、そしてベンバトル男爵の件と一月の間で立て続けにストレスがお腹の中に溜まり、ついに吹き出しそうになっていた。そういうストレスが溜まった時は、アトリエに篭って絵を描くのが私のストレス発散だ。
題材は決めてない、色も考えない。ただ赴くまま直感に頼って筆を走らせる。
商売の仕方に一家言あるからって、もっと優しく言ってもいいじゃない。そりゃリース契約も婚約継続も私の意思でお願いしたけどさぁ。
腹の中で渦巻く不満を全て絵にぶつける。ベンバトル男爵家から帰ってずっと描いているが、まるで疲れも眠気も感じない。体がそれだけストレスを溜め込んでいるのだろう。しかしストレス溜まっているんだなと自覚すると、疲れがどっと体に流れ込むのは人体の不思議だ。
「うぅ〜」
椅子から立って伸びをすると、背骨がポキポキと弾ける音が鳴る。骨も疲れていた証拠だ。でもこのストレッチを挟むことでストレス発散の総仕上げって感じがする。アトリエにある唯一の窓を開けると、早朝の水分がたっぷり含んだ空気と、朝焼けの景色が眩しい。
でもこういうことができるのもオブライエン様がいるおかげなんだよね。今まで月に二枚ほど絵が売られて、あと一年もしたら払底するほど減少していたのが、リース契約のおかげで常に保管場所を置いておく必要あるためアトリエが残された。管理も今までと変わりなく、徹夜してアトリエに籠ることもできる。
「こんにちは、今ご機嫌斜めだったらお暇するけど」
「クリス?」
表を振り返ると、クリスがスーツ姿でアトリエの前に立っていた。
「ごめん今日仕入れの日だった?」
「ううん。最近顔を合わせてなかったから元気かなって顔を出しに来ただけ。屋敷にいないって言われたから、こっちのアトリエに来てみたらビンゴだ」
そういえばオブライエン様のリース契約の方に集中しすぎて、クリスとは一月も仕入れの手紙も顔合わせもしてなかった。頭の中でクリスのことを考えていて、どこかで会ったと錯覚していたみたいだ。
「婚約者さんとのリース事業でいっぱいいっぱいで大変らしいね」
「もう話が伝わっていたんだ」
「そりゃ大事な顧客が何をしているか情報収集するのもこっちの仕事だから」
甘く見ないでよと言いたげに胸元で腕を組むクリスは、家庭教師が課した宿題を忘れたことを見抜いていたのを思い出した。新事業とごまかしていたけど、いつまでも伏せるわけにはいかないよね。そもそもアルクトゥス子爵のパーティーで噂を聞きつけている人がいるのだから、クリスの耳にも入ってくるはずだ。
「ごめん。おじい様の絵を少しでも安くできないかなとずっと考えて。もちろん今後クリスにも絵は売るよ。でもオブライエン様の事業がちゃんと運用できるものならと、その時にクリスに伝えようと思ってて。
「別に怒っているわけじゃないよ。絵の売る売らない判断は絵師か管理者の裁量の範囲だし。絵の値段の高騰化を懸念していたの、ヴィヴィが前話していたことだったから、そんな唐突なことじゃないもの」
「ギルドの方は許してくれるの?」
「怒る……というほどでもないかな。オルファンの絵は現状高く売れるけど、ギルドが求めているのは安定供給できる絵師だから、オルファンはたまに出てくれればいい感じみたい。今後絵を売ってくれるのはギルド的にはちょっと安堵という感じかな」
販売できる絵の数が減って反感を買うと恐れていたけど、そういう事情があったのか。市場では供給が減ると高く売れるの方がありがたいはずなのに、まとめる側としてはずっと描いてくれる方がありがたいなんて。絵画市場は難しい。
「あっ、その絵。ヴィヴィが描いたものだよね。暗くてちゃんと見えてなかったけど、新作?」
「うん。ストレス発散のために徹夜して描いちゃった」
「……ねえねえ、その絵見せてもらえる」
クリスに私の描き殴りした絵を!? 今までクリスに自分の絵を見せたことはない。前に見せたことはあるけど、それはおじい様の下絵あって評価されたものだ。オブライエン様から下絵から描いたものを酷評されたものを、前に見せたものと同じと見破られることはないはず。
アトリエに入らないよう扉の前で待っているクリスに、絵を持っていく。
「おお、これがヴィヴィの絵か」
「ごめんねこんなところで待たせちゃって」
「いいよ。アトリエは絵師の聖域。たとえ不在でも簡単に足を踏み入れてたらオルファンさん怒るでしょ」
私の無実を証明するためアトリエにオブライエン様を入れてしまったのだけど、おじい様怒ったりしないだろうか。
私が描いたをじっくりと鑑賞するクリス。その目は見たことがある仕事モードのもので、本気で私のを評価しようとしているんだと嬉しくも緊張が走る。
「ヴィヴィって誰か芸術家の師とかいた?」
「ううん。強いて言うならおじい様が師匠だったよ」
「独学で、このレベル。色の濃淡と色をつくる上手さはほかの芸術家に引けを取らない、でも」
「続けて」
「大元となる題材が売れるレベルじゃないのがねぇ。何というか凡庸、記憶にあるものをぼんやりと思い出しながら描いているから、印象派的でもないし。何というかアンバランス……ってごめん。仕事モードで評価しちゃって」
「ううん。むしろそこまで評価してくれてうれしいよ」
ちょっと出そうな涙を目の奥で力づくで止めさせてはいるけどね。以前オブライエン様に私の絵を見てもらった時も同じような評価だった。絵の参入は私と婚姻をしたときと言ってたけど、本業のクリスとほぼ同じ評価ができるなんてどこから審美眼を鍛えたのだろう。
いつまでも青空の下でクリスを立たせるわけにはいかず、アトリエを閉めて屋敷に上がらせて、あっさりとしたテイストの紅茶と重みのあるクッキーを運んできた。
「実はさ、もう一つヴィヴィに用があってきたんだよね。今週何か予定とかある?」
「ううん、特にないよ」
「やった。私今度王都に行く用事があって、用事自体はすぐ終わって暇になるからせっかくの王都なのにすぐに帰るもったいないから一緒にどう?」
「いいの!」
久々の王都だ。ここのところ交渉とか選定とか仕事詰めだったから、一息入れたかったんだよね。ありがとうクリス。
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