袋のネズミ

 街には物音が一つもなく、シェダー・ツヴィエートと名乗った男の声はよく響き渡る。僕は目の前の男が名乗った名前に驚愕し、耳を疑った。


「その名前はエレさんと同じ……」


僕のポロリと溢れた声を聞き、男は一瞬思案した後にニヤリと笑った。


「エレさん?あぁ! もしかして貴方エレノアをご存知で? そいつは都合がいい、やはりこの街に居ると言う噂は本当でしたか」


 それを聞いて僕は自身の失言を悔やむ。しまった、コイツの狙いはエレさんか。

 エレさんと何故同じ名を名乗るのは偶然かはたまた必然か、狙いが何かなど気になる事は沢山あるが、とにかく今はどうにかして逃げないと。


「う〜ん困りましたね、せっかく手に入れた手掛かりを殺す訳にはいきませんし」


 男が話している最中、再び黒い蝶が周囲から男の背後に集まり出す。先ほどの様な大群ではないが、それはバスケットボール程の黒い塊へと姿を変える。


「……でも一人いれば手掛かりとしては十分ですよねぇ!」


「——ッ、逃げろクレアちゃん!」


 黒い蝶の群れは、クレアちゃんを飲み込もうと襲い掛かる。彼女は焦点の合わない瞳でそれを見つめる。まるで全てを諦めたかの様に、微動だにしない。


(動け!一度死んだ身だろ!)


 僕は震える足に力を込め、彼女の前へと飛び出し、彼女を押し飛ばす。


 視界から白が失われる。男が放った蝶の群れに僕は飲まれた。最後に見たのは、泣きそうな顔をしたクレアちゃんと、驚いた表情を浮かべた男の顔であった。


 ああ、なんだ蝶じゃなくて蛾じゃないか。


 不思議と冷静な思考が、飲み込まれる直前に見たものを分析する。多分僕は死ぬんだろう、でも別に良いじゃないか。一度拾った命だ、可愛い女の子を庇って死ぬなら本望だ。僕は満足感に浸りながら目を閉じる。




「…………はぁ?何故私の魔法が効かない!」


 僕はその声に目を開ける。自身の体を確認するも何も異常がない。それを確認するや否や、僕はクレアちゃんの手を引いて駆け出す。


「逃げるよ!」


 クレアちゃんは涙を浮かべながらも、状況が掴めていない様だ。そんな事お構いなしで、僕は乱暴に手を引き走り抜ける。


 駆けろ、駆けろ!あの場所まで。


 唯一記憶にある、街の風景を思い出すために脳をフル回転させる。僕達が逃げるためにはあそこに行くしかない。時折、背後から黒い蛾が襲いかかってくるが、それを僕は手で振り払う。


「クソが!やっぱり効かないじゃないですか!悪魔ですよ、最悪ですよ!早く消さないと」


 背後からは男の声が依然として聞こえてくる、出来るだけ距離を離さないと。僕は近くにあるゴミ箱を後ろへ転がす。

 後ろからは、ガコンと言う音が聞こえ、聞こえていた足音が遠のく。


 見えた、あそこだ。探していたのは、始まりの場所。僕が初めてこの世界に来た時に立っていたあの場所だ。

 ここからなら覚えてる、記憶に居る色を纏った蝶に導かれる様に僕はそれを追いかける。決して忘れるものか、走るのはエレさん屋敷までの道のり。


 エレさん曰く、ここは人の認識をずらす結界と、道を間違えれば辿り着けない特殊な結界が施されているはずだ。ここを抜ければ、あの男も追ってこれまい。


 右へ左へ、僕は迷いなく走り抜ける。体は熱に侵され、もう走っているのか、浮いているのか分からないほどに僕は疲れている。それでも、不思議と足は動き続けた。


 確か次の角を曲がれば、光が見えるはずだ。僕は勢いを殺さずに、そのまま角の先へと飛び込む。



「ハッハッハッ!残念でした〜。ここは行き止まりですよぉ!随分高度な結界で手間取りましたけど、壊させて頂きましたぁ!見た目に反して腕が立つ様ですねぇ」


 僕達の目の前に待っていたのは、絶望そのものであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る