第15話

だるいな」

「なんだって?」

「帰る。また連絡するね」

「何しに来たんだよ」


 呆れた声を無視してきびすを返す。

 ミズキはいいやつだ。ぶっきらぼうだけど向上心があって努力家で、仲間を思いやれる子。いいところをあげればキリがない。

 そんな彼女から逃げるように校門に向かう。


 やる気が出ないのはきっと気のせい。チェーンの外れた自転車のようにかみ合っていないだけ。

 今日の所は一旦引いて、今度はジャージで来よう。

 そうしたらきっと歪んだ気持ちは元に戻る。


 怪我が治った私はみんなが当たり前にしているような普通の高校生活を過ごすべきだ。

 部活、勉強、人付き合い。主菜副菜バランスよく交互に食べるように、普通の暮らしを送らないといけない。



『夏目さんは犯罪者と一緒にいたい?』

『いいよ。青野さんといられるなら、私はどうなってもいい』


 二カ月前、栞に自分の肘を差し出したのはきっと気の迷いだ。落ち込んでいたときに優しくされて理性を失っていた。

 面倒くさいことをすべて投げ出して、友達ですらない女の子をずっと追いかけ続けるだなんておかしい。



 学校での用事を早く終えてしまったせいで、栞との待ち合わせまでまだ時間に余裕があった。

 どこで時間を潰すか決まらず、揺蕩たゆたう煙のように茫然としていたときだった。


そら


 背後から私を呼ぶ声がした。

 その主は、グラウンドで別れるとき「後でね」と言い残した女子の先輩だった。


 運動部なのにほとんど金色に染めた明るい髪。真っ直ぐなミディアムヘアを水色の細いヘアバンドで止めて、高校生らしからぬ気取った風貌をしている。

 服装もみんなが着ている学校名の入った部活ジャージじゃなくて、一人だけスウェットパンツに黒のパーカーだし。


 体育会の暗黙の了解をちり紙のように吹き飛ばす先輩を、私は快く思っていなかった。


「お疲れ様ですケイさん。もう練習は終わったんですか」


 私の乾いた声に対し、先輩はなぜか満足げに笑う。


「途中で抜けてきた。どこ行くの?」

「どっかに行きます」

「偶然だね。私もどっかに行くところ」


 その声はからかうものではなく、諭すような穏やかさを含んでいた。

 だけど今は一人になりたい。栞と会う前に、もう少し彼女との思い出に浸っていたかった。


「ちょっと行ったところに公園があるから、そこで話そう」


 道中に寄ったコンビニでホットコーヒーを奢ってもらう。

 ベンチに座り一息ついて空を見上げると、灰色だった厚雲はうっすらと太陽を透過させ、明るい白を纏っていた。


 半分ほど飲んだ紙コップの熱が冷める頃、隣に座る先輩が口を開いた。


「天気よくなってきたね」

「ですね。コーヒーありがとうございました、では」

「待て待て」


 先輩は立ち上がる私に対して焦る様子はなく、まるで老人が孫を呼ぶようにゆっくり手招きをした。かえって逃げる気がなくなり、再び腰を下ろす。


「部活ってしんどいよね」


 ベンチに体重が乗った瞬間、本題を切り出される。

 意図していたのか分からないけど、重心の切り返しがままならないタイミング。逃げられそうにはなかった。


「そんなことないです。私は陸上が好きでやってたんだし、マネージャーだって楽しくやりますよ。休みが長引いたのは申し訳なかったですけど、来週からはちゃんと行きますから」

「楽しめるのかな。さっき学校に来たときの空の目、死んでたよ」


 先輩に心の中を探られている。

 未来と向き合わないといけない。それを先延ばしにしたくて、なんとか糸口を探る。


「ケイさんの方こそ、今日の練習サボってるじゃないですか」

「たはは。今日はコマキが休みだから退屈だったんだ」

「退屈って。ケイさんはなんで部活やってるんですか」

「走るのが楽しくないと陸上はやっちゃダメ?」

「ダメだと思いますけど」


 目と目が合う。

 逸脱した格好の割に澄み切った先輩の目。宝石のように輝くそれは真っ直ぐ私に向けられ、動じることはなかった。


 思わず目を逸らして辺りを見渡す。

 街中のわずかな狭間をこじ開けて設けられた児童公園は、端から端まで走ったら五秒もかからない。

 そんな場所に複合遊具や小さな花壇、町名の記された倉庫がひしめいている。水道のそばには破れかけのゴムボールが転がっていた。

 たとえ狭くても、バランスよく普遍に、いろんな人のために存在していることに気づく。


 がらんどうの公園に北風が吹き、れる葉の音がやがて静まった。


「私は、ただ陸上部ここに誘ってもらったから走ってるだけだよ」

「投げやりすぎませんか」

「だって嫌じゃない? しんどいし、疲れるし、走るのなんて何が楽しんだって」

「意味分かんないです。わざわざ嫌なことをするって理解できない。その誘ってくれた人がいなくなったらケイさんは部活やめちゃうんですか」

「うん、絶対すぐやめる」


 その人はすぐに思い当たった。ケイさんと同じ学年で同じクラスの女の人。

 ケイさんと違って彼女の背筋はピンと伸びていて、長い黒髪を後ろで一くくりにして、テキパキ動く。

 陸上部のキャプテンであり、ケイさんからはコマキと呼ばれている。


「私はコマキが走っているから走る。コマキがいるから陸上部にいる。それ自体が楽しいんじゃなくて、好きな誰かと一緒にやるから楽しいってこと」

「変わってますね」

「そうかな。実はコマキの方がもっと極端だけどね。で、空はなんで陸上なんかやってるの」

「私は」


 陸上を始めたのは中学の頃。

 かけっこが速かったから陸上部を選んだ。

 部活動に入ることが当たり前で普通のことだった。

 やってみるとそこそこ才能があって、いろんな人に認めて褒めてもらった。仲間もできた。


「走ることが好きだし、陸上部のみんなも好きです。何より、自分のやるべきことだと思ったから」

「やるべきって、仕事じゃあるまいし」


 けらけらと笑う先輩。その言葉を冗談だと処理できない私は、隠し事をするようにぎこちなく相槌を打つ。


「責めてるわけじゃないよ。むしろ空はえらい。責任感があるね」

「うぇへへ」


 わしゃわしゃと頭を撫でられる。喜ぶべきか反省すべきなのか分からず、雨漏りのような笑い声が出た。


「でも、一つだけ」

「なんですか」

「真っ当でいようとすればするほど、しんどくなるよ」


 なんだよそれ。


「…………私は普通じゃないってことですか」

「案外分かるもんだぜ」


 どうしてと問い詰める前に、先輩は私の右膝を指差しながらウインクを投げていた。


「怪我を隠して、立つこともできなくなるまで走り続けるなんて、よっぽど変態じゃん」


 普通に憧れるということは、裏返すと今の自分は普通じゃないということ。

 そんなの分かってる、つもりだった。


「悪いことじゃないよ。自分がどんな人で、何をしたいか。ゆっくり考えればいいんじゃない?」


 じゃあねと、引き止める間もなくケイさんは立ち上がり、吹き抜けるように去っていった。

 ケイさんは私を引き留めない。

 戻って来いとも、辞めろとも言わない。


 でも時間に余裕をくれたことは、私にとって安心材料になった。

 もうしばらく普通の生活に戻らなくていいって、人と違ってもいいって許してもらえた気がしたから。



 飲み干した紙コップを地面にほおる。

 そして、かつて栞が私にそうしたように、左足で思い切り踏みつけた。くしゃりと音を立てたそれをもう一度踏むと、さっきよりも力のない音と感触で地面にへばりついた。


 平らにへこんだそれを拾い上げても、可愛げなんてこれっぽっちもない。

 栞の前で、自分から望んでこのひしゃげた姿になった事実を認めたくない。


「本当にただの変態かよ」


 表面についた砂を落としてリュックサックに押し込む。

 私はポイ捨てをするほど、その場の感性だけで生きていない。

 拾い上げた時に感じたコーヒーの苦い香りは瞬く間に霧散し、二度と鼻孔をくすぐることはなかった。


「真っ当じゃない、か」


 公園はバランスよく普遍に、いろんな人のために存在する。とはいえ、心の悩みにまで答えてはくれない。


 私の調子が狂う原因になった人。

 なかば自傷行為をしてまで一緒にいたいと願った人。

 彼女と一緒にいる時の特別な心地よさや胸の高まりは、昨日までついていた松葉杖が不要になったように、もう手放すべきだと思う。

 いつでも捨てられるから、友達じゃない方が都合よかったんだ。


 今日はこの後、栞とはあくまで友達になりにいこう。

 普通で、真っ当で、当たり前の生活を手に入れるために!

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